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明日は12月25日。クリスマスの日。
始めに断っておくが、この物語には残念ながら「奇跡」は起こらない。でも起こる可能性は示されている。これはそんなお話。
「パパ!パパ!!起きて!いつまで寝てるの!」
息子の目覚まし爆撃が襲いかかる。兄貴分のダックスフンドも負けじとその穴掘り本能を爆発させて侵攻してくる。
「おぉおお...勘弁してくれえぇ...。まだ10時じゃないかよぉ...。」
「なに言ってんだよー!もう9時だよー?!今日はやる事いっぱいだからパパのお手伝いお願い、ってママに頼まれたんだから!ほらーおーきーてー!!」
男は頭から毛布を被り2匹の猛攻から我が眠りを死守していたがついに観念し、モゾモゾと這い出てきた。反射的に身震いし肩をすくめると窓に目をやった。灰色の雲が垂れ込めた空からは粉雪がちらついている。どうりで冷える訳だ。
男は思わず肩をすくめ息子を抱き寄せた。つきたての餅のような頬。子ども特有の体温。ホットミルクの匂いを揮発させている。男はこの瞬間がたまらなく愛おしく、幸せを感じるのだ。
さあ、もう今日は始まっている。手短に出かける準備を済ませると、2人は車に乗り込んだ。首都圏から高速道路を走り、一路山梨を目指す。
高速の流れは思っていたよりも順調だった。この調子なら約束の13時には余裕もありそうだ。
男がバックミラーに目をやると後部座席の息子は本を読んでいる。サンタクロースを自称するおじいさんが起こす奇跡のお話。息子のお気に入りで、飽きもせず読み返している。
「あんまり下ばっか向いてると、酔っちゃうぞ」
男が心配しても、本に夢中の息子は顔も上げず応える。
「平気。ぼく車酔いなんて、したことないもん」
「ならいいんだけど...」
しばらくすると、本を読み終えた息子がミラー越しに問いかけた。
「ねえパパ。『酔う』ってどんな感じ?フラフラするの?」
「そうだなぁ。お腹の辺りが気持ち悪くなってムカムカしちゃうんだよ。酷い時は吐いたり、頭も痛くなっまり。とってもたいへんだよ」
「...やだね...」
男は思い出したように続ける。
「そういえば、パパの友達にすごく乗り物酔いするやつがいてさ。飛行機も電車もほとんど乗れなかったなぁ。そんな人もいるんだよ」
「じゃあその人、あんまり遠くに旅行できないんだね...かわいそう...」
男は少し笑った。
「確かにそうだね。でも車ならなんとか乗れたし、それに今はもう大丈夫」
「よかった!旅行に行けないなんて不幸だよ。そうだ!早くコロナがなくなって、行きたいね『スウェーデン』!!」
男はしまったと思った。
去年のクリスマスのことだ。以前、男が仕事で訪れたスウェーデンの話をしたところ息子の興味に火を点けてしまった。
雪深い山間の風景と煙突のある美しい街並み。牧畜しているトナカイとの暮らし。なにより、イェリヴァーレという中部の街に住んでいる『本物』のサンタクロース。勿論それは観光客向けの言わば『ご当地キャラクター』的なものなのだが、息子の心を鷲掴みするには充分だった。
以来、スウェーデンは文字通り『聖地』となり彼の中で燦然と輝きつづけているのだ。何度も何度も現地の話をせがまれ、それはじきに旅行の計画に発展し、半ば強引に約束を交わすこととなった。そんな憧れの地への約束を、息子が忘れる訳はなかった。
「そうだなぁ...良い子にしてたら、コロナも無くなって、そしたら旅行も出来るかなぁ...」
瞳を輝かせ息子が身を乗り出して来る。
「来年のクリスマスは行きたいね!!」
「そ、そうね...」
高速を降り山梨に入ってからも、息子の『サンタクロース熱』は留まるところを知らなかった。さながらスウェーデントーチのように燃える好奇心はちょっとやそっとでは消えそうにない。
案内標識に『富士吉田市』の文字が見えた。その時、男の記憶の中のスウェーデントーチもまた一瞬爆ぜた。
男の口から独り言のように言葉がこぼれた。
「...月にも、サンタはいるんだ」
父の言葉に再び息子は身を乗り出して尋ねる。
「月って、あの空の月?!」
思わず口を突いて出た言葉に男自身も少し驚いた。
「うん...。昔ね、月へ行った宇宙飛行士がサンタクロースを見たって言ったんだ。」
目を丸くして息子は更に尋ねた。
「月にもサンタクロースが住んでるってこと?!」
「どうやらそうらしいんだ。月の裏側、地球からは見えないんだけどそこにはサンタクロースが居たって。ロケットに乗ったその飛行士が、通信でそう言ったんだ」
「えー!本当に?本当にいたのかなぁ...??」
「気になるよね。でね。さっき話した乗り物酔いのパパの友達も、気になって気になって月までサンタクロース探しに行っちゃったんだ」
「えーーー?!!!嘘だぁーー!!!絶対嘘だーー!!」
耳元で絶叫する息子に座席に座るよう促し、男は続ける。
「本当さ。気になって夜も眠れないって、クリスマスイブの日に月まで確かめに行っちゃった。まだ帰って来ないんだけどね」
「乗り物酔いするのにどうやって行ったの?おかしいじゃん!」
痛いところを突かれ男は上手く切り返す言葉も見つけられず観念したようにこう答えた。
「ね、おかしいよねぇ。どうして行っちゃったんだか。それっきりさ...」
息子はその人なら誰よりもサンタクロースに詳しいと思った。何せ月の裏側でサンタクロースと一緒に居るのだから。けれどバックミラーに映ったこれまで見たことのない父の表情に、喉元まで出かかった『その人いつ帰って来るの?』は飲み込んだ。寂しそうな、その寂しさにも慣れてしまったような、そして少し懐かしんでいるような、不思議な表情だった。何となく、あまりしてはいけない種類の話なのだと思った。