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母の死

 まだ日も昇らないうちからケイトの朝は始まる。


 蝋燭も灯さず手探りで顔を洗って着替えると、音を立てぬように気をつけてドアを閉め、外階段を降りて行く。辺りは真っ暗、十二歳の少女が出歩くには危険だが目的地は隣のパン屋だ。素早く目の前の裏口に入り、中の明るさにホッとする。


「おはよう、トムおじさん」


「おお、ケイト。早速頼むよ」


「はあい」


 急いでエプロンとバンダナをつけ手を洗い、パンの成形作業に入る。手先が器用なケイトは子供とは思えぬ手早さで次々とパンを鉄板に並べていく。


 オーブンに鉄板を並べるのは力がいるためトムにお任せだ。パンが焼き上がるとトレイに並べ、店の棚に順番に置いて開店の準備をしていく。


「さあ開店だ。あと一時間、頼むよ」


「任せて、トムおじさん」


 今日の分のパンをまだ焼かなければならないトムの代わりに、店番に立つ。開店と同時に朝食用のパンを買い求める人が大勢入って来た。ケイトは慣れた様子でその客達を捌いていった。


 一時間後、ようやく人の流れが収まるとトムが小さな紙袋一杯のパンをくれた。


「じゃあケイト、今日のお給金だ。母さんに食べさせてやりな」


「ありがとう、おじさん。また明日ね」


 足取りも軽く階段を上って家に帰ったケイトは、母の朝食を作りにかかる。


「母さん、今日はおじさんがバターもちょっぴり付けてくれたわ。パンに塗っておくわね」


 硬いパンをスライスして母の分だけバターを薄く塗る。昨夜の残りのスープと共に食卓に並べた。


「ありがとう、ケイト。いつもすまないね」


「何言ってるの、母さん。それより早く病気を治してね」


 物心ついた時からここクライトンという下町で母と二人暮らしだったケイトは、半年ほど前に母が病に倒れてからは薬代のために近所のパン屋や食堂で働き始めた。家事も一人でこなし、母の面倒もよくみている。


 今日も朝食後に後片付けと洗濯をサッサと済ませ、母をベッドに寝かせると次の仕事に向かった。


「おはよう、マークおじさん」


「おはようケイト。お母さんは今日はどうだい?」


「朝食は食べられたわ。顔色も少しいいみたい」


「そりゃ良かった。じゃあ、今日も頼むよ」


 マークは食堂を営んでいる。マークの家族総出で働くこの食堂でケイトも働かせてもらっているのだ。


「おはよう、カイル」


「おう、ケイト。今日は玉ねぎが多いぜ。泣くなよ」


「う、うん。頑張る」


 カイルはマークの次男だ。長男のライルはすでに一人前の料理人で、味付けなども任されている。十四歳のカイルはまだ見習いの身分なので、昼食時のピークに向けて材料の下ごしらえが仕事だ。その仕事をケイトは手伝っている。大量の野菜をカイルと二人でひたすらカットしたり、焦げつかないように鍋をかき混ぜたり洗い物をしたり。仕事は山ほどある。


「よし、開店だ。二人とも頼むぞ」


 店が開くとすぐに客はいっぱいになった。カイルとケイトは注文取りに忙しく動き回る。それから大量の洗い物をしていると、あっという間に時間は過ぎる。二時頃にようやく客がいなくなり、マーク達は休憩時間になった。


「じゃあケイト、これが今日の賄いだ」


 ケイトの分と、母の分の賄いを器に入れてマークが手渡してくれる。


「ありがとう、マークおじさん。また明日もお願いします」


「またな、ケイト」


 ケイトはカイルに手を振って家に向かった。この賄いが、二人の晩御飯になるのだ。


「母さん、戻ったわ。今日はねぇ、玉ねぎが多くて涙が止まらなかったわ」


 ケイトが声を掛けたが反応が無い。


「……母さん?」


 慌てて駆け寄るケイト。母はうっすらと目を開けてケイトを見た。


「お帰り、ケイト……」


「母さん、しんどいの? 今お薬持って来るわね」


 戸棚の中から薬袋を取り出し、水と一緒に母の枕元に置いた。


 そっと母の背中に手を添えて身体を起こそうとする。しかし、母は全く力が入らないのか身体が重く、起こすことが出来ない。


「どうしよう。お薬を飲ませることが出来ないわ。ちょっと待ってて母さん、カイルを呼んでくるから」


 ケイトは急いで外階段を降り、食堂に駆けて行った。カイルを連れて戻ってくると、母は横になったまま目を閉じていた。


 カイルに手伝ってもらって母の身体を起こそうとしたが、母は手を振って断った。


「どうしたの? 母さん」


「ケイト。お前に言っておかなきゃいけないことがあるのよ。聞いてちょうだい」


「なあに? お薬飲んでからでもいいでしょう?」


「今言っておきたいのよ。ケイト、お前の父親について今まで話した事はなかったけれど、もう私は長くない。死ぬ前に言っておかなくては」


「母さん、やめて! 変なこと言わないで」


「いいからお聞き。母さんはね、若い頃アークライト公爵家でメイドをしていたんだよ。そこで当主様に愛されてね。それでお前が出来たんだよ」


「公爵……?」


 ケイトは、母が何を言っているのかよくわからなかった。


「けれど奥様のお怒りをかってね、当たり前だけれど。母さんはクビになり、公爵家を出たんだよ。ただ、当主様がお前のことを考えてこの部屋を用意して下さり、毎年お手当も下さっていたの。だから、母さんはお前と二人でも暮らしてこれた」


 それはケイトも今まで不思議に思っていた。母は働いていないのに、なぜ自分達は暮らしていけてるんだろうと。


 贅沢は出来ないが毎日の食べ物に困る事はなかった。しかし、母が病気になってからは薬代がかさみ、食べ物を買う余裕が無くなった。それで、ケイトは近所の人々の厚意で働かせてもらっていたのである。


「母さんが死んだらお手当も無くなるかもしれない。でもお前はまだ十二歳、一人では生きていけない。だから、一人になったらアークライト公爵家を訪ねて行きなさい。きっと、悪いようにはされない筈だから」


 母は戸棚の引き出しを指差して中を見るように言った。開けてみると、手紙とブローチが入っていた。


「それは当主様から贈られたものだよ。それを持って行けばお前が娘だと分かるからね」


 そこまで言うと母は大きく息を吐いて目を閉じた。


「ケイト、お前がいてくれて本当に良かった。私の人生でお前が一番の宝物だったよ。幸せに、生きるんだよ……」


「母さん! 待って! ねえ、お薬飲んでよ? ねえ、まだいかないで! 私を一人にしないで……!」


 縋りついて泣くケイトの頭をそっと撫でた後、母の手が力なく落ちた。


「母さん、母さん……!」


 母の手を握って泣き続けるケイトの背中にカイルがそっと手を添えた。悲しみに打ちのめされている少女に対し、十四歳のカイルにはそれ以上何もすることは出来なかった。






 二日後、小雨が降る中ケイトはカイルとともに母の埋葬に立ち会った。一人でも大丈夫だと断ったのだがカイルは一緒に行くと言って聞かなかった。


「墓地に埋葬出来て良かった」


 ケイトがポツリと呟く。残しておいた薬代を全て、埋葬費に注ぎ込んだのだ。


「ケイト。公爵家を訪ねていくつもりなのか?」


「ううん。そんな所に行っても私が貴族様になんてなれる訳ないし。私一人くらい、この下町でならなんとか暮らしていけると思うの」


「じゃあ……」


 俺の家で暮らせばいい、とカイルが言おうとしたその時。ケイトは後ろから声を掛けられた。


「失礼ですが、ケイト様でいらっしゃいますか?」


 振り返ると黒いスーツを着こなした四十代くらいの男性が黒い傘をさして立っていた。


「はい、私がケイトですが。何かご用ですか?」


 男性はそれを聞くと恭しく頭を下げ、自分のさしていた傘をケイトにかざした。


「濡れてしまいますよ。お使い下さいませ」


「いえ、とんでもない! あなたの上等な服の方が濡れたら大変です!」 


 慌てて傘を押し戻すケイトに半ば強引に傘を渡すと低く良い声で話し始めた。


「申し遅れました。私はアークライト公爵家執事、モースです。我が当主、ベンジャミン・アークライトの命を受けてケイト様をお迎えに参りました」


「えっ……?」


 ケイトは驚いてカイルの顔を見た。カイルも目を見開いている。


「お迎え……っていう事は、公爵様は私のこと知ってらっしゃるんですか?」


「もちろんです。これまで旦那様はずっとケイト様のことを気に掛けておられました。しかし事情により長年お迎えすることは叶いませんでした。ようやく準備が整い、ハンナ様と一緒に引き取られることを決めたその矢先……ハンナ様が亡くなられてしまったのです」


 モースは腰を屈めケイトの手を取り、恭しく言った。


「ケイト・アークライト様。旦那様がお待ちでございます。お屋敷へ参りましょう」


「ちょ、ちょっと待てよ!」


 カイルがモースの手を振り払う。


「急に何だよ! いきなり現れてさあ行きましょうって。怪し過ぎるだろ! 証拠はあるのかよ!」


「ええもちろん、公爵家家紋入りの書状も持って来ておりますが……あなた、それが読めますか?」


 字の読めないカイルは痛い所を突かれてカッとなった。


「このやろう!」


 とモースに飛びかかっていったが、難なくかわされ地面に転がった。


「カイル! 大丈夫?」


「ケイト様。突然の事で驚かれたでしょう。明日の朝もう一度出直して参ります。それまでに荷物をまとめ、近所の方にお別れを済ませておいて下さいませ」


 モースは書状を濡れないように傘の中でケイトに渡してくるりと踵を返すと、そのまま立ち去った。


「くそうっ!」


 服に付いた泥を払いながらカイルが立ち上がった。


「ケイト、あんなの信じちゃダメだ。どこかに売り飛ばされるのかもしれないぞ」


「うん……」


 ケイトは濡れながら去って行くモースの後ろ姿をじっと眺めていた。




 その夜、ケイトの部屋にはトムやマーク、他にも近所の世話好きがたくさん集まっていた。


「俺は行くべきだと思うね」


 トムが髭を撫でながら言う。


「ケイトにとってはまたとない幸運だ。しっかりしてるとはいえまだ十二歳なんだ、一人で生きていくのは大変だろう」


「だっておじさん! ホントかどうかもわからないんだぜ? 心配だろう!」


 カイルが食ってかかるが、トムは気にする様子もない。


「公爵家のご令嬢になれるんだ、それがケイトにとって一番だよ」


「父さん! 父さんはケイトを一緒に住まわせてやってもいいって言ってただろ?」


 今度はマークに食い下がるカイル。


「そりゃあなあ、誰も身寄りがいないなら寝床と食べ物を提供してやって働いてもらおうかとも思ったさ。でもウチも余裕があるわけじゃ無い。育ててくれる人がいるんなら、そこへ行ってもらう方がこちらとしても助かる」


「そんな! 父さん……」


「なあケイト。お前さんは賢いから分かるな? 俺達はみなお前が好きだ。小さい頃から見てきたからな。お前の母さんが何か訳アリだというのも感じていたが口には出さなかった。お前がみなしごになっちまったならみんなで面倒みてやろうと思っていたのも本当だ。だが、保護者がいるのならそちらに任せたいのも本音だ」


 ケイトはじっと俯いてみんなの意見を聞いていた。母に教えてもらって読み書きの出来るケイトには書状の内容は読むことが出来た。そこにはケイトを子供として正式に引き取る、と書いてあった。


 今まで貴族なんて会ったこともないし、気取った嫌な人達というイメージがある。ずっと下町で育った自分とは違う世界の人々。出来れば行きたくなかった。


 だが、みんなの言うこともわかった。あの優しいおじさん達が口を揃えて言うのだ。自分が我儘を言ってここに残ってもみんなに迷惑をかけるだけ。ケイトは顔を上げてハッキリと言った。


「わかりました。みんなが私のことをとてもよく考えてくれてるのが」


 みんなが見つめているのを感じる。


「私、公爵家に行きます」


「ケイト! 貴族のとこなんて行かないって言ってたじゃないか! あと二年もすれば俺が結婚して養ってやるよ! だから行くな!」


「ありがとう、カイル。でも私行くわ。会ったことのないお父さんにも会ってみたいし」


 泣きそうになるのを堪えながら言った。なおも反論しようとするカイルの口をマークが塞いだ。


「それじゃあ決まりだな。明日、迎えに来るんだろう? 荷物……と言っても大したものは無いか」


「ええ。ベッドや家具はこの部屋に元からあったものだし、持って行くのはこの鞄に入るくらいの物だから一人で大丈夫」


「わかったよ。じゃあ、ケイト、元気でな。俺達は明日も店があるから見送りは出来ないけど……達者で暮らせよ」


「はい。みんなも……今までありがとうございました」


 ケイトは深々と頭を下げた。顔を上げたら泣いてしまいそうで、ずっと下げたままにしていた。


 みんなはケイトの頭をポンポンと撫でながら一人ずつ出て行った。カイルは、拗ねて飛び出して行ってしまったが。


「すまんな、ケイト。あいつはケイトが好きだったからな……一番ショックなんだよ」


「おじさん、カイルに今までありがとうって伝えてください。忘れないよって……」


 みんなが出て行ってガランとした部屋に一人残されたケイトは、もう誰も気にすることなくベッドに顔を埋めて泣いた。





 翌朝、部屋を綺麗に掃除して、鞄の中には母の形見の櫛とショール、少しの着替えとあの手紙とブローチを入れた。窓辺に座って通りを眺めていると豪華な馬車が静かに止まり、中からモースが出て来るのが見えたのでケイトは鞄を持って立ち上がった。

 ドアを開けると、足元に小さな花束が置いてあった。


「ありがとう、みんな……」


 涙を堪えながらそう呟いて、頭を下げて待っていたモースと共に馬車に乗り込んだ。


「では出発します。よろしいですか?」


「はい。お願いします」


 馬車は静かに走り出す。生まれて初めて乗った馬車だが気分は沈んだままだ。その時、カイルの声が聞こえた。


「ケイト! 元気でな!」


 窓に顔を近付けて外を見ると、カイルが走って追いかけて来ていた。


「カイル!」


「ケイト! 俺のこと、忘れるなよ!」


 ついにケイトの目から涙が溢れ出した。するとモースがそっとハンカチを差し出してくれた。


「こんな綺麗なもので涙なんて拭けません……」


 今日着ている服はケイトの一張羅であるが、その生地よりもはるかに高い物に思えた。


「お使い下さい。ケイト様用にはもっと上質なハンカチがありますからお気になさらず」


 どうやっても涙が止まらないケイトはその言葉に甘え、公爵家に着くまで涙を吸い取らせ続けていた。


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