【短編】 月明りに照らされて
男は車の中にいた。運転はしていない。今のうちに寝ておいたほうがよいだろうか。そんな考え方は呑気すぎるだろうか。
道路はかなり霧がかっており、何も見えないといっていい。東の方角に満月が顔を出していた。今夜はあの月を見て寝ることになるのだろうか。その時私は何を考えているのだろう。
男の意思とは反して車は一定のスピードで進んでいく。もう月を見ることはできなかった。
チーン。
その広いエントランスにいる数多の人々に響き渡る音。
自動で扉が開き、ぞろぞろとなだれ込む。何階のボタンを押そうか、そんなことは考えない。
いや、皆そんなことは頭にないはずだ。
1階についた。人は降りない。
2階についた。人は降りない。
3階についた。人は降りない。
5階についた。人は降りない。
7階についた。人は降りない。
12階についた。1人降りた。
15階についた。4人降りた。
18階についた。たくさんの人が降りた。
20階についた。同じくらいの人数が降りた。
結局、私は55階で降りた。
ボタンを押したのは、52階のときだった。
そこに広がる景色は、殺風景なものだった。
空気も、表情も、数字もない。
なぜなら私が奪ったから。
だから奪われた。
あのエレベーターには、もう戻れない。
正義という言葉は人を狂わせる。
弱肉強食という言葉をはき違えた者は降ろされる。
あのエレベーターには、もう戻れない。
それとも、あのエレベーターに乗ることが
そもそもの間違いだったのだろうか。
私には二度と分かるまい。