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月に沈む  作者:
第一部
9/29

切りが良いところまで書いたので少し長めです。


「君は確か、森川伯の子息だね」


志野の姿が見えなくなってから、漸く志野の父――瀬澤道恒は口を開いた。同じ伯爵家でも江戸時代の大名の流れを注ぐ森川家とは違い、瀬澤家は御一新の際に皇家から認められた新華族だ。

普通、新華族は子爵か男爵 の位を叙されることが多い。しかし、余程覚えがめでたかったのか、瀬澤家は伯の位を賜った。異例中の異例だった。

そんな勢いのある家の当主が、朔之助を見つめている。


「血はそうですが、ただの庶子ですよ。あまり表へは出ないようにと、言い含められていますが」

「妾の子か」

「母は仏蘭西人です。もう十年以上前に、こちらへ来ました」


朔之助は、あえて自ら出自を明かした。道恒には、今ここで何かを繕おうとする方が逆効果だと感じる。ふとその時、道恒の目が朔之助の持ち物に注がれているのを認めた。今、その手にはスケッチと黒炭を握っている。


「君は、絵を描くのか」

「家にいてもすることがないので」

「ふん、穀潰しだな」


ごくごく普通にそう言われた。そしてそれは、言われすぎて既に馴染んでしまった言葉だった。また、間違ってもいなかった。


「志野はやれんぞ」


そのような奴には、とても。

例え、身分のあるような奴であっても。


「…そうでしょうね。だから、描いているんです」

「それで食べていこうとしているのか」

「僕にはそれしか能がありません。政府に仕える訳でもなし、慈善事業をする訳でもなし」


いっそ、平民のまま生きていた方が世の役に立ったかもしれない。だが、それだとここまで志野と想いを交わすことなど出来なかった。あまりの皮肉に苦笑が漏れる。


「…君に日本は生き辛かろう」


その言葉に否はない。心底、道恒は哀れむような目を向けている。それは、華族の目だ。己には出来ない。


「志野さんのことは好いています。ありのままの僕を受け入れてくれた唯一の女性です。ただ…今後のことを考えれば、このままでいていいとは思えません」


己のスケッチを見ながら朔之助は言う。そのスケッチには、様々な志野が描かれていた。志野自身も気づいていないような、日常に溢れた、彼女の素顔の数々だ。

道恒の先を促す視線を受けて、一つ息を吐いた。


「…故国へ、帰ろうと思っています。父にはもう相談もしてあります」

「志野は捨て置くと言うのか」


やれぬ、と言いながら随分な言い様だ。それを分かってもいるのか、道恒は小さく舌打ちした。


「勿論、きちんと話すつもりでいました。付いて来てくれとも、 待っていてほしいとも、言うつもりはありません。志野さんにそのような我儘を言うには、今のぼくでは駄目ですから。

僕がもう一度この地に立って、その時、彼女が彼女のままいたのであれば。その時、彼女にきちんと将来のことを伝えようと思っています」


なんと確証のない話をするのか、と志野の父の表情はそう語っている。けれど、これは違えようのない事実である。穀潰しのままでは志野を養えない。

かと言って、 西洋絵画で成功することは、この国では難しい。


「僕の父は仏蘭西駐在使でした。いくつか、美術商人の知り合いもいるそうです。その方々に認められる方がてっとり早い」

「勝ちの低い賭けだね」

「けれど、試す価値はあります」


時刻は既に日没時。カラスの声と水の流れる音しか聞こえない。ガス灯もないこの付近では、表情すらも分かりづらくなってきた。けれど、表情を見られずに済んで良かったと朔之助は思う。


こんな泣きそうな表情、きっと見られていては余計に道恒に見くびられていたかもしれない。意識をして目を上げた先には一番星が見える。

今のままでは、志野の隣に立つ資格すらない。穀潰しから脱して一人立てるようになるには、こうするしか思いつかなかった。付いて来いとも、待っていてくれとも言えない。

『諦めない』と言った志野の言葉だけが、今の朔之助の支えだった。



***



まさか本当に、鍵まで掛けられるなんて思いもしなかった。帰り着いた志野を、中村は自室まで追い立て、『旦那様のお申し付けですので』と外から鍵をかけた。自分の部屋にそんなものが備え付けられているなど、この瞬間まで知りもしなかった。

とんだ間抜けだ。

バン、とオーク素材の扉を叩いてみても己のてが赤くなるだけで何も変わりはしなかった。志野は結った髪もそのままに寝台に突っ伏す。時折、扉の外から母や佳野が様子を伺いに来たが、返事も当然おざなりになる。


夕闇が部屋の中を満たして来ても、女中が夕餉を運んで来ても、袴すら脱ぐ気になれずぼんやりと瞬きを繰り返した。己のしていたことを、ひたすら志野は考えている。

己の、していたこと…1人で、一人の時間が欲しくて、ふらふらと歩き続けていた。

朔之助に出会い、被写体になってほしいと請われ、あの河原に通い続けた。父と母に嘘を、ついた。嘘をついてまで、あの人と会い続けた。


あの人に…恋をした。あの人と、一緒にいたいと思った。


(……それは、いけないこと…?)


何故、私は人を好きになって、ここに閉じ込められている。何がこんなにも二人の間に壁を作っているのか。言うまでもない、華族という身分だ。


「…いらないわ、そんなもの…」


グッと髪を結っている簪を引き抜いた。

勢いで袴の前紐を解き、脱ぎ捨てる。さばいた単衣の裾から白いふくらはぎが見えても構わなかった。

いらない、こんな身分。自由に恋ができないこんな身分。


けれど、この身分に己は生かされている。綺麗な着物も、簪も、平民ではなかなか持てない皮靴も。

毎日の食事にも困らないのは、この身分のお陰なのだ。そこまで思って、志野は部屋の真ん中に立ち尽くした。

ここに来て、右も左も分からなくなってしまった。あの人が好きだ。けれど、どうすればいいと言うのだろう。

私はどうしたらあの人と一緒にいられるのだろうか――


こつりと音がしたのはその時だった。不意に滲みそうになった涙を指先で払い除けて、志野は耳を澄ませた。こつり、こつりと。それは窓の外から聞こえてくる音。どこかで聞いたことがある音。

自分も、確かこういう音を出したことが…


「……っ」


裸足のまま窓辺に駆け寄り、滑車の窓を上に引き上げた。途端、秋の涼しい風が吹き込んでくる。今宵は上弦の月。微かな月明かりが庭をぼんやりと照らしている。目を凝らせば、木の影がゆらりと揺れた気がした。


「志野さん?」

「朔…っ」

「そんなに身を乗り出すと、危ないよ」


するりと木の陰から出て来た朔之助は、先程別れたままの格好でいた。そこで、自分が結構あられもない格好をいていることも思い出し、志野は上半身を部屋の中に戻した。

志野の部屋は二階にあった。朔之助は苦笑しつつ、窓の真下まで進み出て、「いつかと逆だ」と言った。


「逆…?」

「あの時は、志野さんがこうして来てくれた」

「あ、あれは…!」

「今度は僕の番」


余りにも穏やかに笑うから、志野は思わず許されたのかと思ってしまう。


「どうして私の部屋が?」

「分からなくてうろうろしていたら、君の妹さんに見つかって。折角だから教えてもらった」

「佳野ったら…」

「ここは案外目立つから、長居するなとも。でも、会っておきたくて」


あのままにしておくのは、朔之助も嫌だったのだ。そして朔之助はことりと首を傾げる。


「…泣いたの?」

「泣いてなん……いいえ、泣いたわ」

「悲しかった?」

「違う。悔しいの」


悲しいのとは少し違う。無情に嘆くのとも違う。ただ唇を噛み締めるしか、今の志野には出来ない。

それが悔しい。


「ねえ、志野さん」


それでも朔之助はいつもの彼のままだった。穏やかに目を細めて、志野を見つめている。


「な、何よ」


けれど、その瞳には明らかな熱が篭っていて、志野の胸を密かに波立たせるのだ。


「君に、言い忘れていたことがあった。あの時、君は僕言葉をくれたのに」

「だから、何――」

「君が好きだ」


その視線ははっきりと志野を射抜いている。ぴくりとも動けないまま、ただ志野は震える指先を握りしめた。


「僕も、君を、諦めない」


君は僕の唯一だと。

手を伸ばせば届く距離にいるのに、いつものように触れることが出来ない。否、それが普通なのかもしれない。けれど、その言葉はまるで志野の頰を撫でるかのように優しかった。そして「諦めない」というその言葉が志野の心の靄を吹き飛ばす。


「僕は、けれど、君の心は自由だとも思う。君は、君の思ったことをすればいいとも思っている」

「…私、言ったわ。諦めないって」


我が身の上を嘆いていても、己の心が自由であるなら。志野のその声には、朔之助は何も返さなかった。一層強く志野を見つめるだけで。宵の口の風は更に冷たさを増したように二人の間をすり抜ける。

思わずぶるりと身を震わせた志野を見て、朔之助は眉を顰めた。


「すまない、風邪を引いてしまうね」

「だ、大丈夫」

「秋口は体調が崩れやすいから。気をつけて」


「じゃあまたね」とそのまま身を返そうとするから、志野は慌ててしまう。何とも掴み所のない男だとは分かっていたが、一瞬自分の置かれている状況すら忘れそうになる。


「ちょっと、待ってよ」

「暴れて部屋の中を散らかさないで、大人しくしておいた方がいいよ」

「余計なお世話!」


つい大きな声を出てしまう。はっとして口を押さえたが、一階の角部屋に洋燈が点けられたのが志野からもみえた。従僕か誰かが覗きに来たのかもしれない。朔之助の反応は更に早かった。月が雲に隠れたところで木の陰に入り込み、志野に声をかけた。


「じゃあ、もう行くよ」

「ごめんなさい、気をつけて」

「…志野さん」


最後にちらりと志野に目を向けた気がした。そして、遠くの方がでガタリと窓が開けられる気配がした。


「なに?」

「また…また、君に絵を見て欲しい」

「ええ…ええ、きっと」


その言葉を最後に朔之助の姿は完全に夜闇に紛れて分からなくなった。残された言葉に、志野はきゅっと両の手を握りしめる。


「きっとよ」


その言葉に答えるものはない。微かな切なさと彼がくれた言葉だけが、志野の中に満ちていく。窓辺に膝をついて座り込み、窓枠に額を押し当てた。不意に涙がこみ上げて来たが、嬉しいのか悲しいのか志野には分からなくなった。


これが、志野と朔之助の長い別れの始まりだった。



***



二週間、志野は自室から出してもらえなかった。女学校も、しつこい風邪だということにして、ずっと休まされている。食事ですら部屋に差し入れられ、さながら座敷牢のようだった。最初は泣き濡れるまま日々が過ぎて、食事ものどを通らなかった。


もう、終わり。人生終わりだと涙を流した。


しかし、三日もたてば逆にふつふつと湧き上がって来るものがあった。そう、あの時河辺で志野が抱いていた――怒りというもの。

何故私はあの時腕を振り回してでも父を説得できなかったのか?

己に抱く怒りで、志野は枕を濡らしていた寝台からむくりと身を起こした。既に、二週間。心配する母や妹の佳野、女中の声にも耳を貸さず、自問自答を繰り返していた。


けれど、本当はそんなことをしている暇などないのではないだろうか?己を嘆くことも悲観することも志野は飽いた。窓の外に目をやれば、秋の長雨が分厚い窓硝子を叩いている。黒の長い髪も、この湿気のせいでぱさぱさと艶をなくしている。


そういえば、洗髪を随分と長い間していない。櫛を通すことすらおざなりだった。拳を握りしめて、ぐいぐいと頬をこする。籠った空気が不快だと、この時漸く志野はそう思うことが出来た。


――コンコン


戸が打たれたのは、志野が起き上がって窓を開けた時だった。


「志野。入るぞ」


聞こえたのは、父の声だ。返事を言う間もなく、扉はゆっくりと開かれた。


「…引きこもって拗ねるのは終いか?」

「お父様が閉じ込めたんじゃない。でも…そうね、ぐずぐずするのはもう止めよ」


志野が意外にもすっきりとした表情をしているのを見て、父・道恒は目を細めた。志野はこの時、父と交渉しようと思っていた。朔之助とのことを、何とかして認めてもらおうと。

このまま引き下がることは出来ない。猫を被るのも、優等生ぶるのも、もう止めようと。


そんな志野の意思が伝わったのか、道恒は眉をしかめた。けれど、その身を落ち着けるように深く息を吐いて、殊更ゆっくりと志野を見やる。


「彼は、発ったよ」


その一言にびくりと志野の背が粟立った。


「え…」

「彼は、今日、故国へ発った。この国に戻るのかは、分からない」

「どう、して…」

「絵だよ。絵の為に、この国を出て行った」


ふらりと志野は傍らの卓に手をついた。気づけばそうしていた。自分が、まっすぐ立っているのか、息をしているのかすら一瞬分からなくなる。ただ、どくりどくりと胸の奥が嫌な音を立てていることだけは、はっきりと感じ取ることが出来た。


「もう、彼のことは諦めなさい。森川伯も、理解し、きちんとした資金を用立てて彼を送り出した」

「あの人…あの人が、それを、望んだの…?」

「もちろん」


何も、聞いてはいなかった。最後にあったあの日、朔之助は、志野に何も言わなかった。

否、言えなかった。

日本で絵を描き続けることが、それで身を立てることがどれ位難しいのか、よく分かっている。けれど、彼が故国でそれをなそうとしているなんて、聞いたこともなかったのだ。


いきなり突きつけられた言葉に、志野はただただ両の手を握り締めることしかできなかった。喉の奥までからからに乾いて、張り付いた声は呻きにしかならない。


(…あの時、言ったのに…)


そう、二週間前のあの夜。志野を好きだと、諦めないと、そう言ったのに。

わなわなと唇が震えた。声は出ないのに、涙で固まった目じりが引き攣れて、己が醜くなっていくのは分かる。


「森川伯も彼の意志を尊重した。横濱港からの客船で、埃及エジプトを経由して仏国フランスへ渡るそうだ」


一月以上もかかる航路。そして、費用も途方もない。道恒は容赦なかった。

徹底的に志野を打ちのめして、朔之助はもう手の届かない所へ行ってしまったと、目の前に突き付けようとしている。

志野は首を振った。嫌だ、聞きたくないと。


「誰にも露見せずに済んだことが不思議なくらいだ。お前はおいそれと気楽に街を歩けるような身分ではない。彼もだ。

庶子であろうが血は華族だ。彼も華族の義務を果たすべき存在であった。けれど、それも手放すと言う」


あの河原で朔之助と道恒はどんな言葉を交わしたのか、志野には分からない。けれど、道恒の言っていることは嘘ではないのだろう。

朔之助は、生き辛い、この国を捨てたのだ。


「…忘れなさい。そして、なかったことにしなさい。今なら、まだできる」


(なかった、こと…)


ふ、と目を上げる。ぼやけた視界の中、父は優しげな顔をしている。そうすることが志野にとって幸福であるかのように。甘言は、志野を惑わそうとする。今身に染みている辛い事、悲しい事を全て忘れることができたら…


けれど。


「嫌よ…」


また、ふるふると首を振る。忘れることなど、できない。もう無理なのだ。あの人は、志野の中に鮮やかな色を残していった。

それをなかったことにするなど、忘れるなど。簡単に忘れられる存在なら、あんなに会いに行ったりなどしなかった。


「どれ程あがいても、もうお前の想いは遂げられない」


いささか怒気をはらんだ声で、きっぱりと道恒が言い放つ。


「諦めなさい」


ぱたりと。ついに流れた一粒が、床の上に散る。どんどんぼやけて見えない視界の向こうで、冷たく向けられた背中が映る。その背はもう何も言わない。静かに戸が閉められ、音は何も聞こえなくなった。


――諦める。


その一言は、思いの外志野の心を打ちのめした。あんなにも諦めないと、そう思っていたのに。

震える手を顔に押し当てる。冷たく痺れた指先は、けれど、ひとつも温かくはならなかった。次から次へと溢れ出る生温い粒は志野の心の奥底を、ひたすら冷たくしていくばかりだ。


秋雨はじっとりと部屋の空気を重くさせ、それでも、うずくまる気にもならなかった。一体どれ位そうしていただろう。ぴくりともしない志野の肩に、温かい手が乗せられた。


「志野」


引き寄せられるまま、柔らかい胸の内に抱き込まれる。いつの間に戸が開いたのだろう。幼い頃に嗅いだ懐かしい甘い匂いが志野を満たした。思わず、志野は抱き寄せられた優しい腕にしがみついた。


「――お母様…っ」


情けないほど引き攣れた醜い声。それを、柔らかく包んでくれるのは、他でもない、母の声だった。


「あらあら、そんなに泣き腫らして。まるで幼子のようですよ」


諌めているのではない。いつもどこかしら能天気な母は、慈しむように志野の背を撫でた。優しくもあり、励ますようでもあり、叱咤するようでもあった。


「母様、知らなかったわ。あなたがそんなにも泣くほど好きな殿方がいるなんて」

「でも、あの人…もう、行ってしまったわ。もう、戻ってこないのよ」

「そんなこと、分からないじゃない」


母の両手が志野の両頬に当てられる。促されるまま上を向くと、微笑する母の顔が見えた。じっと見つめていれば、道恒とは違うように優しく目を細めた。


「志野。母様、あなたに言ったことがあったでしょう」

「え?」

「『あなたの正しいと思うことをしないさい』と」


ほつれた髪はそのまま母の手で撫でつけられた。見上げたままその言葉を聞き、同時に激しく首を振った。


「私のしてきた事など、正しくなんてなかったわ!」


身分も何も考えず、ただ、思うままにがむしゃらに動いただけだった。


「あら、後悔しているの?」


あっけらかんとした声を聞いて、志野は息を飲んだ。あの人に出会って、がむしゃらに動いて、想いを告げて…褒められたことでは、決してなかった。けれど。


「…正しくはないかも、しれない…でも」

「そう。正しくないと思うのは世間一般の評ね。『あなた』に後悔がないのであれば、まだ分からないわ」


顎に流れた一筋を、優しく拭われる。母は、己でよく考えて決めろと、そう言っているような気がした。


「お父様のことは、許してあげて。この立場であれば、ああするしかなかったのよ」


それは、志野にはよく分かる。世間一般から見れば、やはり志野のしていたことは「正しくない」ことだ。

家長であれば、そうしなければならないのだ。「分かっています」と志野は一言頷くに留めた。


「お母様。私、後悔していないわ。したくないの」


もう、涙は出なかった。きちんと母の顔を見れば、いささかでも安堵したような瞳とかち合う。


「よかった。ほら、女中に湯を頼んでいるの。いつまで情けない身なりをしているの。髪くらい流してきなさい」


ぽんと背中を叩かれて、ようやく視界が晴れた気がした。


(あの人は『諦めない』と言ったのだ)


志野を想って言ったのだ。諦めないと。けれど、一瞬でも揺らいでしまった己が少し信じられなかった。

朔之助はあの夜、「別れ」を言いに来たのではない。言っていたではないか。


『じゃあ、また』と。


(…それ、信じてもいいのよね?)


そう思えば、少しばかりの切なさを何とか押し流すことが出来そうだった。ただ、今は、今後どうしていくのかを考えるのみだ。盥に張られた湯に半身を浸して髪を梳きながら、志野は再度ごしごしと頬をこすった。

もう、青ざめてはいない。娘らしい桃色を取り戻しつつある頬を。


第一部これにて終了です。第二部に入ります。

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