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月に沈む  作者:
第一部
8/29


その日の午後、両親に伝えていた通り、志野は友人宅に招かれ茶を喫した。例のごとく、家の者は先に帰らせた。疑われないように、その場に友人を居合わせる徹底ぶりだ。

そして志野は早目に友人宅を出て――人力車を呼ぶかとやはり言われたが、そこは丁重に断って――河原道を急ぐ。


夏は終わりを迎えて、季節は秋になっている。鮮やかな緑の草が繁茂していた河原は、そこかしこでススキが穂を揺らすようになっている。夕暮れも、真夏に比べれば随分と早くなってしまった。傾いた太陽を横目に、志野は草を踏み分けて川辺まで寄る。遠くに朔之助の工房が見えて、更にその足は速まった。

汗に濡れた首筋を、秋の風が撫でていく。


扉まで辿り着いた時には、焦るあまりノックをすることすら忘れていた。そもそも、この工房にはノッカーなどついてはいない。気づいた時には、ガチャリと取手を回し、勢いのままドアを押し開けていた。


「あ」


ぷん、と油絵の具の匂いがして、振り向いた朔之助が目を丸くするのを視界に捉えて、志野は間の抜けた声を出した。己の失態をじわじわと意識して、けれどどうしていいのか分からず、咄嗟に――


「ご、ごめんなさい」


と言ってドアを勢いよく閉めた。


(閉めてどうするのよ、私!)


そう思っても後の祭りだ。扉の向こうでは、引き攣るような笑い声がこちらにまで聞こえてくる。くくく、と苦しそうな笑い声は扉のすぐ側まで近づいて、コン、と内側からドアが打たれる。


「お父様のお怒りはとけたの、志野さん」

「…とけては…どうかしら、出かけることは許してくれたけれど」


扉越しに声をかけ、志野はうるさくなる心臓を静めた。


「男の元に来ることを、許したって言うの?」

「そこまで言ってはいないわ。言っていたら許してくれるはずがない――」

「なら、今すぐ帰った方がいい」


ぴしゃりと、打ち付けるようにそう言われた。一瞬何のことか分からず、志野はただ口を無意味に動かすことしか出来ない。


「え…?」

「本当は、言うべきではなかった。君を絵に描いて待っているなんて、君に言うべきではなかった」

「……」

「爵位も何も持たない僕のような男が、君に近づく方が間違ってた。絵を描きたいなんて画家でもないのに言うのではなかった。君に何も与えられない僕は、君に近づくべきではなかった」


志野に口を挟ませないよう、朔之助は一気に言葉を吐き出した。それは、後悔の言葉なのだろうか。自責の言葉なのだろうか。

いや、違う。これはただの弱音だ。

志野は唇を噛み締めて、思い切り二人を隔てる物体――無論、扉だ――を力任せに開け放った。


「五月蝿いわね!」


怒鳴ると同時にガツン、と鈍い音が聞こえた。中に踏み込めば、哀れにも額を押さえてうずくまる朔之助の姿。志野が焦がれた姿。拳を握りしめて志野はブーツ

を履いた足を彼の目の前にダン、と振り下ろした。


「会わなければ良かったなんて、近づくべきではなかったなんて、今更なのよ!私はもう貴方に会ったの!それを元に戻すことなんて出来ないの!」


怒鳴りながら、視界がぼやけていくのを感じる。泣きたくないと思うのに止められない。その向こうで朔之助がどんな表情をしているのかなんて、分からなかった。


「…もう遅いのよ、なかったことにしたいなんて、馬鹿にするのもいい加減にして頂戴!あれだけ私を惹きつけておいて…好きにならせておいて!

そうよ、好きになったの。お父様に嘘をついてまで、会いたかったのよ!じゃなきゃ、知らないお屋敷で探し回ったりしない。

繕いもせずにがむしゃらになったりなんかしな…っ」


言い切って、引っ叩いて、格好良く去るつもりだった。こんな男に振り回されるなんて、私も馬鹿な女ね、と。志野は声を荒げながらも、頬に冷たい感触が伝うことを、とても不思議に思っていた。

だから、反応ができなかった。全てを言い終わらない内に、いっそ乱暴とも取れる力が、志野を引き寄せる。何か固いものに鼻を思い切りぶつけた。

けれど、呻く暇もなくその固いものに顔が押し付けられた。

志野の目の前に麻のシャツがあるのが分かって、志野の頭に血が上った。


「なに…なにすんのよ、離してよ!」

「……」

「貴方みたいな意気地のない人、もう、知らない…っ」

「無理だ…」


耳元で朔之助の苦しげな声が聞こえる。ぎゅう、と肩が抱き寄せられ、縋り付かれるように抱え込まれた。

途端に蒸せ返る油絵の具の匂い。呟くような小さな声を聞いて、志野の暴れるような気持ちが少しばかり凪いだ。

朔之助は、志野を抱きしめたまま身じろぎもせずに言った。


「…君とのことが怖いんだよ、僕は」

「でしょうね」

「本当に僕は何も持たない。そんな自分では駄目だと思う反面、だからと言ってここで何ができると、そう考えてしまうんだよ」

「絵があるじゃない」


志野は即答した。真面目に応える志野を見て、朔之助は一瞬目を丸くし、程なく顔をくしゃくしゃにして笑い出した。泣き笑いにも見えるその笑顔を見て、志野は安心する。ああ、いつもの彼だと。



朔之助に出会ってから、志野はひとつ知ったことがある。それは、目に映る景色が美しいということだった。朔之助の絵は、それを如実に伝えてくる。

ああ、自分が目にしている普段の景色はこんなにも光溢れていて、美しいのだと。


抱きしめられていた腕を解いて、二人は河原に出た。会話もなく歩いて、適当な場所で腰を下ろす。

何となくしてみたくなって、志野はその場に仰向けに倒れ込んだ。

ぼんやりと夕焼け空を見上げながら志野はそんなことを考えていた。青々とした草が耳や頬を擽る。


着物のまま草むらに寝転ぶなんて、初めての体験だった。秋の初めの爽やかな匂いが鼻先を掠めて、「なんだかこれも悪くないわ」と思うのだから、志野も毒されている。

手足を大の字に広げて、流れる雲を眺めていると、ふと顔に影が差した。


「何を考えてる?」


頬杖をついて覗き込む朔之助に「近いわ」と言って、ぐいと額を押しやる。


「何も。ただ、空が綺麗だから」

「綺麗だから?」

「…ちょっと悲しくなったの」


押しやった手が退けられ、きゅっと手首を握られる。


「後悔している?」

「しているかもしれないし、していないかもしれない」

「どちらなんだ」

「でも、しなくて後悔するより、してしまって後悔する方が、いいと思う」


きっぱりと言い切ると、朔之助は苦笑した。くく、と笑いながらそれでも志野の手は離さない。


「どちらにしろ後悔はするんだな」

「するわ。きっと。家族を裏切っているんだもの」

「それは僕も同じだが」

「あなたはうじうじしていただけじゃない…私は女なの。華族で、家には男児がいない」


大変なことをしてしまっている自覚はある。少し冷静になった今なら、ずいぶん大胆だと志野自身吃驚している。


「でも…」

「でも?」

「少なくとも、今この瞬間は、貴方と一緒にいたいと思うわ」

「それは同感だ」


そう言うなり、顔を近づけようとするから志野はもう一度ぺしりと額を叩いた。そう、朔之助は半端に外国で生活をしていたせいか、親しくなると距離感が一層近くなる。

先ほどは思い余って頬を肩にくっつけてしまったが、よくよく考えるとなんとはしたないことだろう。


(これは教育が必要ね)


うんざりしつつ志野がぐいぐいと向こうへ押しやろうとするが、開き直ってしまった朔之助はへこたれない。そう、朔之助は出会った時からこんな人だった気がする。思い悩んで、苦しげに眉をひそめる顔なんて、志野は見たくないのだ。

何の柵もなく、思うように絵を描いて欲しいと、そう思う。

ぼんやりとそう考えていたから、つい隙ができた。またしても手首を取られ、すっと大きな体が覆い被さる。と、額に僅かな温もりを感じた。

そう思った瞬間には、もう熱は離れている。


「…手が早すぎやしないかしら」

「額だ」

「それでも、よ」


悔しげに志野が言えば、心底楽しそうに笑う。けれども、その瞳の底の底にある哀しみの色はまだ残っている。その色も全て、志野は取り去りたい。彼が物心つく時から持っている、置き去りにされた哀しみを、志野は取り去りたい。


今願う全てが、それだった。



***



表面上には穏やかな月日が流れた。父と母も無事帰り、志野の日常はいつもの通りに戻った。昼間は女学校へ行き、時折家令の目を盗んで朔之助と会う。

想いが通じあえば、自然と距離は近くなる。河原に出てぼんやりと過ごすこともあれば、工房で朔之助が絵を描くのを見つめることもあった。

相変わらず、夜会へ連れて行かれることもある。見合いを、と求められることもある。けれど、志野は勿論首を縦に振りはしなかった。にこりと笑みを浮かべて当たり障りない言葉を吐いて、上手くかわす。

周囲の人々は、それにすっかり騙された。


――1人、志野の父だけは、そんな彼女をひたと見据えることが多くなった。

どこか以前と変わってしまった娘を。ふと物思いに耽り、「女」の顔をするようになった、娘のことを。

志野の母も、どこかもどかしそうな表情で志野を見守っている。


そう、だから、表面上なのだ。誰も彼もが、上面ではいつも通りに過ごしている。けれど、心の奥底では計り知れぬ想いが渦巻いている。

その均衡はきっと、少し揺さぶられるだけで崩れてしまうのだろう。


「…旦那様」


見るでもなく書類を眺めていた志野の父は、その呼びかけに顔を上げた。扉の前に立っているのは、家令の中村である。華族の仕事から家のことまでを取り仕切ってくれている、瀬澤家にはなくてはならない存在。


「どうした。もう下がってよいと言ったぞ」

「はい、しかし、申し上げておきたいことがございまして」

「…どうした?」


同じ問いを繰り返した瀬澤家の当主に、家令は少し思案して目を伏せた。けれど、暫くして意を決するように目を上げ、当主を見つめる。


「志野様のことです。学校が終わられてから、ご友人と過ごされることが多くなりました」

「まあ、無断でどこかに寄り道はなくなったからな…それを特段咎める必要が?」

「『ご友人と』というのは、あくまで志野様のお言葉です。そして、いつもお迎えは拒否されます」

「……」

「『人力車でも拾うから』と」

「お前は、何を言いたい?回りくどいぞ」


当主の鋭い瞳にも、家令は物怖じしなかった。


「つまり」


その一言によって、均衡は崩される。


「志野様は、ご友人とは会われずに、どなたか別の方と逢瀬を重ねておられるということです」




それは、秋が深まりつつある神無月の頃だった。

志野はこの日、午前で課が明けてから、いつものように工房へと向かおうと思っていた。最近は専ら、朔之助と工房で過ごす事が多くなっている――というのも、外で景色を眺めるには少しばかり寒さが気になるようになってきた。丁度、友人から観劇へと誘われていたのも、志野の気を軽くさせていた。


午後の2時からの小劇は、その後彼の元へ向かうにしても都合が良い。人気俳優の出演ともあれば、若い娘が多い事も志野を行く気にさせていた。たっぷりと劇を楽しみ、芝居小屋を出た時には一時間と半分ほどが経っていた。劇場の前で友人とは別れ、俥を呼ぶ振りをして、徒歩でいつもの場所へと向かう。


人で溢れる午後の街中は、雑多なもので溢れ、少女が上手く紛れこめる。特需で景気が良くなった分、昼日中なら一人で出歩いてもあまり目立たない。女学院の方針で派手な洋装や単衣っは許されていないから、それも好都合だ。人波を避けながら、けれども志野の心中は奇妙な不安感でひしめいていた。


今朝、家を出て妹の佳野と共に中村に送られて学校へ向かった。いつものことだ。しかし、いつもは「いってらしゃいませ」と見送るだけの中村が口を開いた。


「お嬢様。今日は寄り道せずお帰りになられますか?」


それは、明らかに志野にだけ向けられた言葉。すでに佳野は友人と一緒に門をくぐっている。朝から補習を先生に言い渡されているらしく、随分と慌てていた。二人が通う女学校は淑女教育を施す事で有名だが、面倒見も良いらしい。平民から華族まで、とは言わないが、財閥令嬢から豪商の娘までその幅は広い。

そんな友人に囲まれる佳野を見送り、志野は視線を少し下にして考え込む。


「今日は、お友達から観劇に誘われているの。一時間と半分ほどかしら。帰りは、お友達が送って下さるそうだから…」

「お迎えはいりませんか?」

「…そうね。中村、お父様からお仕事を頼まれていたでしょう。自分できちんと帰るわ」


大丈夫、と頷けば家令はじっと志野を見つめた。何かを言いたそうな、口を何回か口を開けそうになるが、結局何も言わないまま一礼して去っていった。


(…何を言いたかったのかしら…)


夕暮れにはまだ時間があるからか、街中を抜けてもちらほらと人の姿がある。特に志野に注意を払うものもいなかったから、志野は思考に没頭することができる。


(お父様が何か言った?…まさか…)


己の行動が気づかれたか。ぴたりと河原に降りたところで足を止める。秋の風がふうわりと後れ毛をさらう。急にその風の冷たさを感じて、志野は身震いをする。

あり得ないことではないのだ。女一人が出歩くには――特に華族の女は――まだまだ珍しい時代だ。目立たないようにしていても、どこで誰がみているか分からない。見咎められていても何ら不思議はない。

志野は言うまでもなく華族の娘だ。瀬澤の家は伯爵家だが皇から叙爵された身の上だ。その身の利用価値など山ほどある。


(…けれど、私は…)


どれ程馬鹿であろうとも、もう引き返せない。諦められる時期など、とうの昔に過ぎていたのだ。


「…志野さん?」


はっと顔を上げれば、いつもの格好をした朔之助がスケッチを抱えて志野を見ている。柔い茶の髪に色素が薄い瞳。少し草臥れたシャツ。けれど彼も、例え庶子であっても伯家の子だ。身分は釣り合っていない訳ではない。

要は、その出会い方や今の逢瀬は決して認められないだろう。常識で考えれば分かる。

けれど、受け入れられるかどうかは――


「嫌よ」

「え?」

「私、貴方が好きよ」

「んん?」

「諦めてなんか、やらないんだから」


ざり、と一歩朔之助に近づく。秋の風が二人の間をすり抜けた。朔之助は首を傾けながらも、志野の否定はしない。くすりと笑って、志野の左手を取る。


「志野さんは、あったかいな」

「今、ちょっと暑いの。こう、お腹の底からふつふつと…」

「あれ、怒っているの?」


秋の夕は美しい。笑む彼の左半分を紅く染め上げている。彼といれば、全てが美しいのだ。空も、大地も、川も、遠くのススキも、目に映るもの全て。それは、朔之助が教えてくれた。

彼が描くものは、彼の目に映るものだ。彼の絵は美しい。


「どうする?アトリエへ行く?」

「いいえ。ちょっとここで休んで――」


行くわ、風が涼しいもの。と、そう言おうとした。


「――志野」


続く声は、よく知る低い声に遮られた。その声は、今最も聞きたくない声だった。目の前の朔之助もみるみるうちに眉を顰めていく。そして、志野の背後を見据えている。

するり、と取られていた手は外された。志野はぎこちなく振り返る。


(ああ…たった今諦めきれぬとあれ程誓ったのに)


途端にその想いはしゅるしゅると縮みそうになる。遠のいていく、己の軽率な行動一つで。


「…お、父様…」


そこに立っていたのは、志野の父、瀬澤家当主。そして背後に控えているのは、朝別れたばかりの家令。

厳しく志野を見据える父は、視線だけで中村に指示した。


「お嬢様、帰りますよ」

「いやよ、待って…」

「志野。先に帰っていなさい。話は今夜だ。決して部屋から出るな」

「お父様、お願い…」


待って、という言葉を志野の父は聞く気がない様だった。一度も目が合わない。父は、じっと朔之助を睨みつけている。


「早く行きなさい」

「いや…」

「――志野さん」


首を振るばかりだった志野は、その声にピタリと止まった。ゆっくりと顔を上げると、朔之助がなだめる様に志野を見て、淡く微笑んでいる。


「行ってください。僕なら大丈夫です」


その声に、志野は再度うな垂れた。中村に背中を押されて漸く足を動かす。朔之助に、何か言わなければ。海老茶袴をぎゅっと握りしめる。けれど、何も言えなかった。引きずられる先には、二頭立ての馬車がある。

志野にはそれが、監獄に見えてならなかった。


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