七
ほんの短い逢瀬ではあったが、志野は充分に満足していた。朔之助の本音を聞くことができた。志野の絵を描こうと思う、と言ってくれた。本当は志野に待っていろ、と言って欲しかったところだけれど、最初からあの人に男気なんて期待していない。
どこか頼りなくて、風に吹かれたら折れてしまいそうで。
帰りの馬車の中で、志野は頬杖をつきながら小窓の外を見ていた。向かいでは父が「急にいなくなって心配した」と小言を延々垂れているが、適当に聞き流して、思考は全く別のところにあった。
――あの瞬間、朔之助に逢えたことは奇跡と言って良い。志野はそのことばかりに感動を覚えていた。言葉を交わせたことに満足もしている。けれど、ふとした瞬間に不安が首をもたげてくる。
真っ暗に染まった窓の外を見ていると、先ほどまで心を占めていた喜びが不安に侵食されそうになる。
朔之助の哀しい笑顔を思い出して、そう思った。彼は、非常にこの国では生きにくいであろうと。
「志野。聞いているのか」
正面から父の声が飛んで、志野ははっと身をすくませた。
「聞いてるわ。ごめんなさい。あんまりにも暑くて、涼もうと思って歩いていたら遠くまで行ってしまっていたの」
反省しているわ、と付け加えると、父は重い溜息をついて腕を組む。
「女のお前が一人でいるなど、何が起こっても文句は言えないよ」
「でも、お父様。森川伯爵の家でしょう。そんな危険な人を招いたりするかしら」
「今のご時世、華族と言えどもその数は増えすぎた。中には源流が分からない輩もいる。用心するに越したことはない」
瀬澤や森川等、明治初期から皇族より爵位を賜った家はまだしも、この戦争特需で成り上りの華族が急激に増えた。特に軍人はその功績が認められて、次々に爵位を与えられていると聞く。そんな家が次から次へと生まれるのだ。父が心配するのも致し方ないことなのかもしれない。
「お前は聞き分けの良いできた娘だと私もよく分かっている。勿論それは、外の人間も同じだ。だからこそ、危ない目にも遭いやすいんだ。分かっておくれ」
「できた娘」は志野が作り出した虚像に過ぎないが、それでも父の心配の種は分かる。ひとまず頷いておいた方がよさそうだ、と志野は細く息を吐いた。
「…ええ。分かっています。気をつけるわ」
言葉は簡単に口から出る。けれど、自分の心はどうなのだろう。きっと、同じ場面に出会ったら、志野はきっと同じ行動をとる。人を恋う気持ちは、きっと志野をそうさせてしまう。それは同時に家族を悲しませ、瀬澤の名を貶める。
(…それでも私はきっと、繰り返してしまう)
恋とは何て厄介なものなのだろう。世の中には何人、志野のように恋に戸惑う女がいるのだろう。父は満足したように、馬車の心地よい揺れに身を任せている。がたがた、ゆらゆら揺れる中で、志野は眼裏に朔之助の顔を思い出そうとした。
出来れば幸せそうな笑顔を思い出したかった。けれど記憶の中の朔之助は、哀しい笑顔で、志野を見送っていた。
***
長期休みが明ければ、またいつもの日常が始まった。袴をはいて女学校へ行き、授業を受けて家政を習い、屋敷へと帰る。たまにお友達に誘われればお茶会もする。そんな時は勿論お目付け役がいた。
お休みの日は佳野と舞踊を習ったり、詩歌を習ったり、花を見に出かけたりした。未だ父の許なく勝手に動き回ることはできず、どこに行くにも報告がいく。
この堅苦しさを一時我慢しなければ、一生このままなのだ。
一瞬の自由を得て一生を捧げるか、一瞬の我慢を経て自由の利く人生を手に入れるか。
外面の良さを自負する志野だ、ここは後者を取るのは当たり前だ。
「お姉様、このところいやに大人しいのね」
「五月蝿いわね。時機を見ていると言って頂戴」
「何があったの?お許しなく出歩いて、お怒りを買うなんて、お姉様らしくないと思っていたの」
「ちょっと油断しただけ。いいから、黙っていて」
うるさげに手で払えば、佳野はちろりと舌を出して部屋を出て行く。しんと静まり返った部屋の中で、志野は頬杖をついて考える。
考えることは――そう、先ほどまで佳野に言っていた「時機」だ。このところ、しおらしく振舞っていたからか、父の機嫌はかなり良くなったと思う。
ちょっと気晴らしに散歩に出かけたいの、とか、街で劇を見に行きたいのなど言えば今なら許してくれるかもしれない。けれど、そうなればいらぬお供がくっついて来ることは避けられない。
家令の中村は、誰が己の主人なのかをよく分かっている。志野がいくら言い募ろうとも、父の許さなければきっと頷かない。夜会がまた開かれるのであれば別だが、同じ人がそう何度も夜会を開くとは限らない。
それに、あの場に朔之助がいたのは、ただの偶然だ。同じような機会はそう何度もないだろう。
(――なら、やはり学校帰りしかないわよね…)
志野が人目を縫って朔之助に会うためには、あの河原か工房しかない。そして、それ以外の場所で彼に会いたいとも、あまり思わなかった。賑やかな街中でも、豪華絢爛な夜会でもない。あの素朴で、穏やかな時間が漂うあの場所が恋しい。
朔之助に出会って、まだそう多くの時間を過ごしたわけではない。けれども、あの場所が懐かしくて、涙が出る。時から切り離された、二人だけの空間が。
九月の涼しい風が窓から入り志野の髪の毛を揺らす。背の真ん中ほどまで伸びる髪の毛は、いつしか朔之助が褒めてくれた。そうやって、ひとつひとつを思い出しては、志野はたまらなくなる。
考えが巡る中、志野はふと頬杖を外して恋に耽る己に苦笑した。
恋とは、恐ろしい。
今までの自分が、遠い過去のようにも思える。けれど、そんな自分も悪くないと、そうも思えるから不思議だ。
(そう、あの人はいくら私が待っていても来てはくれない。)
だから、志野からあの人の元へ会いに行くのだ。
機会は意外にも早く訪れた。それは九月も終盤のある日の朝食の席で、父が切り出した。
「武春の息子が婚姻を結ぶそうでね。式が来月早々にあるそうだ」
武春とは、父の弟――つまり、志野の叔父にあたる。遠江の方に住んでいて、東京からだと列車を使い、泊りがけで出かける距離である。
「あら、お父様。随分急なお話ですね」
目を丸くさせているのは佳野だ。
「何でも向こうの家が少しでも早く、と言っているそうだ。大方家計の問題だろう」
「それで?私達もついて行くの?学校にお休みを言わないといけないかしら」
学校が休めるというなら、妹の佳野にとっては僥倖だろう。なにしろ、勉学は志野ほど好きではない。佳野は志野と違って、裏表なく明るい性格だが、勉学よりも裁縫などの家政を好む質である。それでも、女は勉学よりも家庭を支えることを第一とされる時代だ。
志野のように勉学に励むよりも余程佳野の方が嫁の貰い手がある。そんなことをぼんやり思っていると、父は苦笑して首を横に振った。
「いや、今回は花栄と二人で行ってくるよ。急なことで列車の切符が二枚しか取れなかったのだ。お前達は留守番を頼むよ」
途端、佳野はがっかりとした顔になる。家を主人が空けることはままあることだ。この屋敷には家令も侍女もいるから、心配も少ないのだろう。しっかりと家を守ってくれよ、と父が言うので、二人の姉妹は従うより他ない。そんな眉を下げる佳野の横で、志野は心臓が激しく鼓動するのを抑えられなかった。
聞けば、式のあと一泊を遠江で過ごして帰ってくるのだという。
伺っていた自機は、その時しかない。
「留守を、しっかりと頼んだよ。志野」
「…はい、お父様」
ゆっくりと唇の端を上げれば、父は安堵した顔になる。お前に任せておけば安心だと。
女学校へ行く道すがら、志野はその言葉を思い出して自嘲した。安心どころか、これから志野がしようとしていることは父や母を裏切ることに等しい。おそらく自分は、恋と家族どちらを取るのだと今問われれば、間違いなく恋だと言ってしまう自覚が十分にあった。
その盲目の危うさを志野はよく分かっている。仮にも一華族の子女である。けれどもその肩書きは今の志野には不要なものだ。
――偽った自分は、朔之助に会ったことで、不要になものだと気づいてしまった。
(あんなに必死で作っていたのに…)
北から吹く風に首筋を洗われ、志野は漸くしがらみから解き放たれた心地がした。偽った自分は、大変に便利なものだけれど、非常に生きづらいものだと。だから、朔之助に惹かれた。彼も随分生きづらそうだから。
「お早うございます、志野さん」
「お早うございます。良い朝ですね」
学友から掛けられる声に返す言葉も、本当は違うように言いたい。おはよう、気持ちいい朝ね、と。繕った自分ではなく、素直にそう言える自分になりたい。それをするには、少し、周りを騙しすぎたようだ。
***
そして迎えた十月六日の朝。馬車に乗った両親は一路新橋駅へ。それを見送る際、志野は頃合いを見計らって父に申し出た。
「ねえ、お父様」
「ん、何だい、志野」
「言うのをすっかり忘れてしまっていたのですけれど、今日お友達の家にお茶のお呼ばれをしていたの。学校帰りに行ってもいいでしょう?」
「寄り道は禁止していたはずだよ」
「でも…随分と長い間たくさんのお誘いをお断りし続けていたのよ。そろそろ心苦しくなって…それに、あまり断りすぎると心象も良くないでしょう?」
それは事実だ。あまりにも志野が誘いを断るので、だんだんと友人も顔を顰め始めている。恋に走っても友情をないがしろにしたい訳ではない。きちんとお呼ばれに応えて、謝りたい気持ちはある。
それは納得できたのだろう、父は嘆息しながらも頷いてくれた。
「あまり遅くならないように。帰りの時間はきちんと中村に言っておきなさい」
「はい、分かっています」
娘に甘い顔をして、父は志野の頭をそっと撫でた。
「お前もだんだんと家族よりも友人になるのだろうね。成長の証だけれど、やはり少し寂しいな」
瞬間、ぎり、と胸が引きしぼられる音がした。それを何とか押し隠して、志野はにこりと笑ってみせる。
「そう。父さま。私はもう親離れする年になったの」
「なら、早くお前の嫁ぎ先も探さないとね」
「期待しないで待ってるわ」
全くお前は、と父はもう一度優しく志野の頭を撫でた。馬車に乗り込む両親を見送り、志野と佳野はそれぞれの自室に戻った。朝も早い時間だったが、女学校に行く時間も迫っており、姉妹二人は身支度に勤しんだ。鏡の前に座り、志野はいつも以上に丁寧に髪の毛を結い上げた。
お気に入りのリボンで整え、鞄を持つ。鏡に映る自分の姿は、ほんのりと頬を染め、緊張気味に唇を引き結び、顎には力が入ってくぼんでいる。
とても好きな男に会いに行くような表情には見えないだろう。朔之助は何と思うだろう。志野の絵を描いて待っていると言っていた。早々に我慢がならず会いに来た志野を、迎えてくれるだろうか。そう思えば、不安が首をもたげる。
けれど、決めたのだ。
(――私は、彼が、好き。)
そして、あの人もまた、志野のことを。
コンコン、と部屋のドアが打たれた。
「お嬢様。もうそろそろ出るお時間ですよ」
「はい、すぐ行きます」
最後にもう一度鏡に向き直った。意識的に、志野は唇の両端を引き上げる。無理してでも笑むと、少しだけ自信が志野の中に舞い戻る。淡い息を吐いて、志野は今度こそ鏡に背を向けた
戻れない道に決別をするように、音を立てて扉を閉めたのだった。