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月に沈む  作者:
第一部
6/29


夕刻6時になっても、この時期はまだ西の空に茜が差し込む程度で、志野は蒸し暑さに眉をしかめた。日中に熱された地面に降り立つのも躊躇うほどだ。こんな日に大勢が集う夜会に出席する趣味は勿論の事、志野にはない。

けれど、その他大勢の華族は違うらしい。会場となった伯爵家の広間はきかざった人々で溢れかえっている。一様にイブニングを着込み、鬢を撫でつけた男性、それにくっつくようにコルセットで胴を締め上げ、たっぷりと布を使った夜会服を着た女性。

その光景を見ただけでも志野は吐き気がこみ上げたが、ここは我慢だ。扇を口元にやり、若干息を止めながら、エスコートする父親の腕を掴んだ。


父親の知り合いに見つかれば、いちいち足を止めて挨拶をする。自分でついて行くと言ったのだから、志野も仕方なくそれに付き合い、恭しくスカートをつまみ上げて表情を取り繕う。父親も、父親の知り合いもそれに満足したらしい。


「いやあ。きちんとしたお嬢さんをお持ちだ。ご結婚は?」

「はは。嫁いでいたら父親とこんなところには来ませんよ。目下、捜索中です」

「なんと。ではうちの子息など如何でしょう――」

「わたくしでは分不相応ですわ。この中にもっともっと美しく、気立ての良いお嬢さんがたくさんおられます」


みなまで言わせず、志野はにこりとはりぼての笑顔を貼り付け、話を遮った。勿論、不快感など挟まない。その後、仕事の話に興じ始めたので、志野はさも退屈した、という表情を滲ませて父親の腕をとった。


「ねえ、お父様。少し疲れてしまったので、休んで来てもよろしいかしら?」

「ああ、すまない。窓際に椅子があるだろう。そこに座っておいで」


父親が指差す先には豪華な布張りの椅子が設えられてある。見れば、立派な露台にも出られるようになっているらしい。これ幸いと志野は素直に頷き、もう一度相手に挨拶をしてからそこを離れた。

「どうぞごゆっくりお話なさってくださいね」との念押しも忘れない。父親は夢中になったら時を忘れてしまう性格だから、志野にとってはそれも幸いした。

その性格を自分自身継いでいることはこの際気づかない振りをする。


給仕係から飲み物をもらい、志野はまっすぐにそこを目指した。途中で方々から視線を投げかけられたが、疲れた、話しかけるなという空気を醸して、志野はバルコニーへと出た。この暑い夜だというのに、不思議とそこには誰もいない。涼しい夜風にほっと息を吐いて、志野は水を一口飲んだ。


目の前には伯爵邸の立派な庭が広がっており、道端の瓦斯灯の明かりも、そこには届いていないようだった。


(…無駄に広い庭ね)


常々、身に余るほどのものは逆に役立たないとの自論を持つ志野だ。


(でも)


今は広すぎて薄暗い庭が好都合に思えた。

目の前には伯爵邸の立派な庭が広がっており、道端の瓦斯灯の明かりも、そこには届いていないようだった。広間のシャンデリアの光が届かないところは、薄闇に包まれている。

月明かりだけが頼りだ。庭を横切りながら志野は見つかった時の言い訳を必死に考えていた。

人に酔って、庭で涼もうと思ったら、暗くて迷ってしまって――言い訳などなんとでもなりそうだ。


それよりも今は、先の見えない賭けに勝つことだけ考えていたい。屋敷の周囲を廻りながら、志野は二階や三階を見上げていた。今のこの時間は使用人も女中も広間に集まっているに違いない。

広間から遠くの部屋にもし灯りが見えたなら、そこがあの人の部屋ならば――それを考えると、気が急った。


まだ、この森川家があの人の実家である確証もないのに。けれど、不思議と志野はここに朔之助がいるような気がした。夜会の日くらいここにいなさい、と言われる可能性が高いことも、志野が華族だからか予想がついた。

広い屋敷は一周するのにも時間がかかる。早くしないと、父親が騒ぎ出すかもしれない。

早歩きで心臓がどくどくと音を立て始めたその時。目の端で、動く影を捉えたような気がした。

でこぼこのガラスの向こうで揺らめく人影は、まるで幽霊のようにも思えた。

けれど、一瞬、朔之助のふわふわした茶色い髪の毛が見えたような気がした。


――今思えば、その時の志野は何かに取り憑かれていたと言ってもいい。会いたい、とその気持ちだけで動いていた。いつの間にそんなに彼を想うようになったのか、はっきりとわかっていないのにも関わらず。


とっさに志野は傍に落ちていた小石を拾い上げた。勢いよく振りかぶり、2階の窓へ向かってそれを投げる。

遠当てなら自信があった。小さい頃、よく妹の佳野と共に座布団を投げ合って遊んでいたから。勿論、親のいぬ間に、だ。

そして、志野は運が良かった。ひゅうんと飛んだ小石は、目的の窓にこつりと当たった。ガラスも割れず、当たりも弱すぎず。部屋の中の灯りが一瞬揺らぎ、窓枠に先程の人影が映る。


これが朔之助ではなかったら――ということは、今の志野の頭の中にはない。無謀な賭けでしかなかった。



***



その時朔之助は自室――あまり寄り付きたくもない実父の屋敷だ――で、ぼんやりと読書に耽っていた。本当はアトリエにこもりたいところだが、今宵は運悪く夜会が開かれる日で、父親から帰還命令が出ている。いわく、今宵くらいはふらふらするな、世間体もあるのに、ということらしい。

世間に顔向けできないような振る舞いを外国でした自分のことは棚に上げている。それを今更責めても詮無いことなので、朔之助は黙って父の言にしたがった。


部屋は真夏だというのに、窓は閉め切っている。日本の夏特有のむっとした暑さも、ようやく慣れつつあった。ランプの灯りを頼りに読み進めるも、その実、同じ行を何度も読んだり、二頁もめくってしまったりと集中しきれない。


彼女があそこに来なくなって、いったい幾日経ったのか、とそんなことを考えていた。

強い力を持った瞳に、きゅっと上がった唇。絹のような柔らかさを持つ声で、意外にも芯の通った物言いをする。けれど、こちらから近づけば頬を林檎のように紅くする。己の事情をただ真摯に受け止めてくれた、彼女のことだ。

あまりにも重たい自分の生い立ちが嫌になって、姿を見せなくなったのだろうか。そんな事も考えて、軽く落ち込む。


――分かっては、いた。

純粋な日本人ではなく、周りと上手く馴染めない自分。そんな自分に近づく人間など果たしているのだろうか。けれど、信じたい自分もいる。彼女も自分を偽って表情をどこか装っている。

自分に似ているのだ。そして、朔之助の前では、繕ったものを見せず、素直な表情を見せてくれる。

そんな志野だからこそ、描き留めたいと思ったのだ。自分に見せてくれる表情をのひとつひとつ。仕草のひとつひとつ。慰めにスケッチブックを開きたいと思っても、それは河原のアトリエにある。


はあ、と溜息を一つつき、朔之助は本を卓の上に伏せた。そろそろ寝支度でもしようかと思ったのだその時。

こつりと、窓に何かが当たる音がした。

とっさに振り向けば、丸い小石のようなものがすっと落ちていくのが目に入った。外から誰かが石を投げたのだ。いたずらだろうか、と思い無視しようとしたが、不思議な胸騒ぎがして、朔之助は咄嗟に椅子から立ち上がった。


泡が残るガラス窓の向こうには、世闇が迫っている。遠くに街路の瓦斯灯の灯りがほんのりと夜空を染め上げている。朔之助は思い切って窓を上に引き上げた。

滑車がキュルキュルと回る音が意外と大きく庭に響く。むっとした夏の夜の空気が部屋の中に流れ込んできた。眉を顰めて遠くに目をやり、そして眼下に目を凝らす――


ぼんやりと世闇に浮かぶ淡い紅色がはっとしたように動いた。自分の部屋から漏れ出た灯りに照らされたその人を見て、朔之助は思わず呻いた。


(…どうして。どうして君は…)


いつもは下ろしている髪をきっちりと夜会用に結い上げ、紅色の夜会服はとんでもなく彼女によく似合っていた。夏だからか、少し頬が上気し、扇子を持つ手は不安そうに固くもう片方の手で握りこまれている。


(こんなにも僕を惹きつけてやまない)


「…あの、急にごめんなさい。でも、森川様のお屋敷だと聞いて。あなたはいないかも、と思ったのよ。でも、最近顔を見せられていなかったでしょう。気になっていたの」

「……」

「ああ、ほんのちょっとだけよ。お父様が外出は許さないと言うから。何も言わずになってしまったし。ほんのちょっとだけ気になっていたの。それだけ――」

「志野嬢」


一気に捲したてる志野を、朔之助は一言で制した。志野も自分で気づいたのだろう。気まずげに下唇を噛んだ。朔之助は身を乗り出して、小さな彼女に声をかける。


「シェイクスピア、という人物を知っていますか」

「ええ…英国語の授業で習ったわ。劇作家の沙翁のことでしょう」

「では、『ロメオとジュリエット』という作品は?」

「知っている。読んだことはないけれど…」


きょとりと、志野は朔之助を見上げながら小首を傾げた。それがどうしたと言いたいのだろう。朔之助は思わず唇を綻ばせて、愛しげに志野を見つめた。


「家族に反対されながらもお互いを想う、あなたはロメオのようですね」

「ロメオって…それは男の方じゃない!私は女よ!」


男と言われたことが腹に据えかねたのか、志野は目を吊り上げて「失礼ね」と朔之助を睨んでくる。彼が言った、ちょっとした意地悪な言葉には思いが至っていないのだろうか。

そんなところも志野らしく、気丈に見上げる姿は、そこら辺の華族の女とは違う。


(ああ…やはり彼女だ。)


自分の心の奥底まで入り込んで来られる人間は、やはり彼女だけだと、根拠もない確信が朔之助の中に根付く。続けてからかい口調になろうとしたその時、風に流れて雲が動いた。

今まで隠れて出てこなかった月が不意に顔を出す。満月を間近に控えたそれは、一瞬強く闇を照らした。

庭を、木を、そしてそこに佇む彼女を。


「――」


朔之助は密かに息を飲んだ。そこに凛と立っているのは、月光に照らされる、一人の女。ピンと背筋を伸ばし、意志を持った瞳で朔之助を見上げ、きゅっと唇を結んでいる。

少女ではない。それは、月の明かりに沈みこむ、一人の女だ。けれど、内に秘めた力強い光を持った女だ。


言葉を発そうとしても、とても無理だった。喉の奥がつかえて、声すらまともに出てこない。訝しげに思ったのか、志野が「どうしたの」と声をかける。それでも黙り込んでいる間に、月はまた、雲の中に隠れてしまった。


「急に黙って。どうしたの」

「…いや…」

「普段はあんなに饒舌なのに。おかしな人」


言えるはずもない。君があんまりにも綺麗だから、と。そんな気障ったらしい言葉。いつもは言える軽口さえ唇から出てこなかった。


「それより、今夜は父の夜会なんだろう。こんなところにいて大丈夫なのか?」

「適当に言って出てきたの。そうね、もうそろそろ戻らないと」


戻る、とそんな言葉が出て初めて、どうしてもっと話かけられなかったのかと後悔する。この瞬間、彼女と言葉を交わせることができる機会がどれほど貴重なのかを知る。


華族の令嬢である彼女と、華族の父を持っていても、認められていない自分と。

交わるはずのなかった道が交わって、今ここに二人はいる。


「…ねえ」

「何です」

「待ってて」

「え?」

「すぐには無理だって分かってる。お父様のお怒りが冷めるのには、少し時間が必要なの。でも、必ずあなたに逢いに行くから。待ってて、あの河原で」


志野の口からそんな言葉が出て、朔之助は窓の桟を握りしめた。彼女に言わせる言葉ではない。

本当は、朔之助が言わなければならない言葉だった。迎えに行くから、待っていろ、と。

けれど、何も持たない自分には、それが叶わない。そんな惨めな事実が歯がゆくてならなかった。自分が変わらねば、志野を迎えに行く資格すら持てないのだ。


「志野嬢――志野さん」

「はい」

「絵を描こうと思うんです。あなたの絵を」

「…ええ」

「いくつでも描きます。描きながら、あなたを想うことにします」


今は、それで十分だ。焦がれる気持ちを持ちながらでも、きっと今の自分では彼女に触れるどころか、会うことすら出来ない。志野は朔之助の言葉に頬を赤らめながらも、こくりと小さく頷いた。

己は少し、大人にならなければならないと、朔之助は思った。不貞腐れずに、彼女のように凛と大地に立つ、そんな大人に。今のままでは、決して彼女に見合う男にはなれないから。


遠くから志野を探す声が響くまで、二人は逸らさず互いを見合っていた。


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