五
「…どういうことか説明しなさい」
家に帰り着いた志野を迎えたのは、厳しい問いかけの一言だった。連絡もなくいつもより随分遅い時間に帰り、屋敷中は女中が右往左往していた。あわや誘拐ではないかという騒ぎになりかけていたのだ。
そんな中のんびりと当の本人が帰れば、当然彼女の父――瀬澤家の当主は厳しい顔をして彼女を出迎える。
書斎に呼ばれた志野は、着物の袖を弄びながら俯くばかりだった。
一人河原に寄り道して、しかも男と会っていたなんて、まさかそんなことが言えようはずもない。
しかし、彼女に振りかかる言葉は志野を固まらせた。
「お前がご友人の家でお茶をよばれると言っていた、と中村に聞いた。わざわざ中村はご友人のお宅までお前を迎えに行ったのだよ」
そして、ここには志野はいないと返された。元々そんな約束もしていないと。慌てたのは中村だった。行方知れずのお嬢様を探して、四方を駆けずり回っていたと言う。
志野が無事に帰りついたと聞いて、いつも綺麗に撫で付けている髪の毛を振り乱して駆け寄ってきたのは中村だった。志野を見て、目に涙の膜を作って口元を震わせた。
中村は志野を見て、こう言ったのだ。
『…よかった。ほうんとうに、よかった』
志野は父に言われるまでもなく、後悔していた。自分の立場を忘れそうになっていたこと。自分の大事には、自分だけではなく一族の大問題にもなり得ること。階級社会の中で、それは大変危ういことだ。
それを忘れぬよう、あれ程素の姿を見せぬようにと気を付けていたのだ。
それが、今日のあの出来事だけで吹き飛んでいた。あの時、志野は瀬澤家の令嬢ではなかった。
朔之助の冷たい指先を握りしめていたあの時。
志野は、ただの志野だった。
けれど、それは何の言い訳にもならない。そして、とてもではないが父には言えない。
「…ごめん、なさい」
結局、言えるのはこの一言のみ。道恒は重い溜息をつき、窓辺から離れた。
「今後、学校の後は寄り道は禁止だ。必ずまっすぐ家に帰るように――分かったね」
「はい」
「分かったら、母様に顔を見せておやり。心配で床に臥せっている」
「分かりました…失礼します、お父様。おやすみなさいませ」
一礼して、志野は父の書斎を出た。廊下はもう足元にしは灯がなく、薄暗くなっている。女中も遅番の者以外奥に下がっているのであろう。
志野は、両親の寝室に訪れ母の様子を見てから自室に戻った。母は心配のあまり貧血を起こしたようだが、志野が訪れる頃には大分顔色もよくなっていた。
母は俯く志野の頭を柔らかく撫でて、両手で頬を包み、こう告げた。
『女はとても不自由な生き物よ。けれど、自分を見誤ってはいけないの。志野。あなたはあなたの正しいと思うことをしなさい』
「…正しいと、思うこと」
自室の扉を閉めた後、そうぽつりと呟いた。女中が灯を点してくれていたのであろう、室の中は明るく、暖かだった。鏡台まで歩を進めて鏡を覗き込むと、そこには1人の黒髪の少女がいた。
肌は白く、瞳は意志の強そうな漆黒。貴族の娘だ。幸せな家庭に、皆が待ち望む中生まれた、幸せな子だった。
生活に、本当の意味で不自由したことなど一度もないのだ。
どれだけ退屈な毎日だろうと、お嬢様らしく楚々と振る舞わなければいけなかろうと、志野は誰かに虐げられたことも蔑まれたこともなかった。生まれながらにして奇異の目で見られた彼とは違う。
思いの丈を絵にしかぶつけられなかった彼とは。
きゅっと両手を握りしめて、志野は唇を噛んだ。『違う』ということを、これほど苦しく思ったことなど、今までなかった。自由に駆けて遊ぶ子らを見て、羨ましく思ったことは数知れず。
けれど、ここまで泣きたくなるほど苦しくなんてならなかった。
窓の外は、ちょうど月が中空に昇ったところだ。あと少しで、この月も満月になる。
――今この時、朔之助はどこにいるのであろう。あの工房にいるのだろうか。それとも、息苦しいと言っていた家にいるのだろうか。
――何をしているのであろう。絵を描いているのだろうか。それとも、もう床についているのであろうか。
知りたいと思う。けれど、もう容易には会えないのだ。会えないということは、当然知ることもできまい。そこまで考えて、また志野の胸は苦しくなった。
この苦しみから解放してくれるものは、なんなのだろう。
問うておきながら、その答えは自分の中で分かり切っていた。
けれど、それを求めることも手に入れることも、今の志野にはできなかった。できない自分が歯がゆくて、もどかしくて、一粒だけ、涙をこぼしたのだった。
***
翌日から、志野の毎日は単調になった。否、戻ったと言うべきか。嘘をついて寄り道をした罰は、思いの外重くはなかった。重いというより、常に凪いでいるという状態だった。
つまり志野にとっては大変おもしろくないし、退屈であった。
加えて中村の目はいつもより厳しくなった。
『お許しくださいませ、お嬢様。私は旦那様と奥様を悲しませたくはないのです』
涙ながらにそう言われると、もう志野には何も言えない。眉根を寄せてずんずんと帰り道をたどる日々だ。
そんな中で、時折社交にも駆り出された。爵位を持つ華族の娘には、よい結婚をしてよい縁をつなぐことが大きな仕事のひとつだ。以前出会った『ひ弱眼鏡』も社交の場で見合ったのだ。
その時は、薄笑いを浮かべながらきつい一言をかましておじゃんになったのだが。
志野はきつい西洋のドレスもきつく結い上げる髪型も嫌いだった。着物と袴と半分にまとめた髪だけで十分。そう思う自分がいて、けれどそれを表に出すことは許されない。
いつも付いて回る、華族「瀬澤家」の令嬢という立場。
そんな自分と比べて、朔之介はどうだろう。色んなしがらみを抱えながらも、もがきながらも、自分を偽ろうとはしない。自分のしたいことを――絵を描くことを――あんなにも自由に。
それに、いつも本音で志野に向き合って、嘘がない。嘘で塗り固めた表の顔を持つ志野とは大違いだ。
自室の机の上で英国語の課題を解きながら、ぼんやりと窓の外に目を向ける。季節はもうすぐ梅雨の候で、空気はすっきりとせず、どこか靄に包まれているようだ。
(――もう、会わなくなって何日経っただろう)
帰りは問答無用で屋敷に連れ帰られるため、外に出ることも難しくなった。父について夜会に出る時が唯一の機会と言えるが、もちろん自由はない。
(まるで外を求める籠の鳥ね)
ふと自嘲気味に笑い、再びペンを走らせる。筆記体は美しく紙の上を滑った。こうして高度な教育を受けさせてくれた点には、恵まれた家庭と言えよう。
けれど――本当は、言ってはいけないことなのだろうけれど――今は、とてつもなく平凡な庶民の暮らしというものに憧れをもってしまう。
なんて傲慢で、我儘な感情だろう。でも、そんな生活なら、今にでも会いに行ける。ひとりきりで、哀しい瞳をした彼の傍に行ける。共に地べたに腰を下ろし、支えることができる。
――そして、気付く。否、本当はもっと前から分かっていた。胸を焦がす想いが何なのか、唐突に志野の胸の奥にふと湧いた。ペンを取り落とし、震える手をぎゅうと握りしめる。
(私は…私は、好きなのだ。彼のことが、好きなのだ)
からりとした笑い声が。
屈託無い表情が。
ふと見せた哀しい瞳が。
弱々しく語られた過去と、息苦しそうな現状をもってしても、その全てを受け入れたいと思う程に、志野の心は彼方へ飛ぶ。
ペン先からインクがにじみ出て、せっかくのノートを汚している。高価なノートなのに志野の心の中のように黒く染まっていく。勉学に励みなさいと、今の時代の男性には珍しく父が買い求めてくれたものなのに。
大事に大事に使っていたのに。
なのに、志野は、そんな父や母を裏切ろうとしている。この時代、女子が学校へ行くことすら簡単ではない。そんな中で十分に学べるように道具を与えてくれることも、簡単ではない。
でも、インクのにじみは、どんどん広がる。それに合わせて、志野の瞳にも涙が滲む。
自分はどうしたらいいのだろう。
――自分はどうしたいのだろう。
何回も何回も志野は己に問いかけた。けれど、いくら考えても、答えは出なかった。
***
どんなに遂げられない恋に苦しもうとも、日々は単調に過ぎていく。今年の梅雨は思ったよりも長引いて、夏の作物の出来が心配される、と父がこぼしている。朝餉の席でそんな話題になろうとも、志野はどこかぼんやりとしてその会話を聞いていた。
隣で妹の佳野が心配そうにこちらを伺っているが、気づかない振りをしてもくもくと箸を運ぶ。開け放した窓から夏の匂いのする風が吹き込んで、少しばかり志野を癒した。
女学校は夏季休暇に入っていて、どこかのんびりした朝だ。
「――森川伯爵家の夜会が今夜あってね、帰るのは少しばかり遅くなるよ」
ふと、そんな会話が耳に届いて、志野はぴくりと目を見開いた。じっと見つめていたお茶碗から目を離し、向かい合う父母を見る。父の言葉を聞いた母は、「あら」と手を片頰に添えた。
「えらく急じゃありませんか。連れ添いは必要でして?」
「いや、必ずという訳ではないが、伯とはあまり交流していなかったからね。連れがいた方が安心かな」
「まあ。私、今日は志野と佳野を連れて舞踊のお稽古に行こうと思っていたのよ」
困ったわ、と言う母に思わず志野は椅子から立ち上がった。ガタリと大きな音が食堂に響き渡る。
「お父様。私…私、お供いたします」
「志野?」
「あの、ほら、新しい夜会服を買っていただいたでしょう。着る機会がなかったもの。こんな時くらいしかできないのだし。薄い夏用の生地だから、早く着ないと時期が終わってしまいます」
聞かれもしないのに、志野はつらつらと言い訳のように言葉を連ねた。声が少々上ずるくらい、心臓がどきどきしていた。急に喋りだした志野を、両親は不思議そうに見つめている。けれど、そんなに不思議がられようと、志野は一向に構わない。
夜会服を言い訳にしてでも、父の呼ばれ先に――森川、という名前に――反応しない訳にはいかなかった。
『僕は、森川 朔之助です』
そう、彼は森川と名乗っていた。父は華族だと。森川という姓などこの世に溢れている。華族の中にもきっと、森川姓の人がたくさんいるかもしれない。けれど、賭けてみる意味は、今の志野には十分にあった。
「ねえ。お父様。いいでしょう?」
最後の手段、甘えるような声を出せば、娘に弱い父に勝てることを長年の勘から志野は知っていた。
「いいじゃないですか、あなた。もしかしたら、良い殿方と巡り会えるかもしれませんし」
「そうだなあ。森川伯のご子息も出られるそうだし」
どきりとしたが、それは朔之助ではないだろう。実家から見放されている彼は、夜会に出ることは恐らくない。ご子息とは彼の義兄のことだろう。
会えるかなど、分からない。実家にはあまり寄りつかないと言っていた彼が、屋敷にいるとも限らない。
――それでも。
「では、志野。六時にはここを出るからね。遅れないように準備しておきなさい」
了承の言葉に、志野は胸をなでおろした。会えるかも分からないけれど、せめて近くに行くことはできる。
それだけで、今の志野は満足だったのだ。