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月に沈む  作者:
第一部
4/29


朔之助と出会って数週間、今日も何やかんやと理由をつけて河原に足を運んだ志野に、朔之助はある提案をした。


「今日は僕の工房に来ないか?」

「工房?」

「僕の母親の母国語では『アトリエ』というらしい。僕が絵を描く専門の部屋だ」

「あなたそんなところに籠らなくても、いつもここで描いているじゃない」

「ああ。ここで描いてるのはほとんどデッサンだからね。あっちでは油絵を主に描くんだ」


朔之助が言う言葉のほとんどを志野はよく理解できなかったが、とりあえずうんと頷いておいた。今日は偶々午前授業の日であったから、時間はたくさんある。例によって中村は「お茶に誘われた」と言って追い返しておいた。中村は中村で、志野が級友と深く付き合っている様子に、満足そうな表情をしていた。

自然な流れで手を引かれ、志野は朔之助に連れられて川辺の道を歩いた。

ここはあまり人の出もないし、土手からは多少距離もあるので、簡単に誰とは認識できないであろう。

引かれる手の心地よさに安堵しながら、志野は朔之助に着いて行った。


その工房は、徒歩十分の川べりにあった。古い掘立小屋をそれらしく改装してある。周りには何もないから、なるほど、絵を描く環境には丁度いいのかもしれない。そう志野が言うと、朔之助は苦笑を漏らした。


「家には居場所がないからね。よくここで寝泊まりもするよ」


あまりにも自然にそう言うから、逆に志野は何も言い返せない。「そう」とありきたりに返事をしておきながら、志野は工房の中に入った。その途端、つんと特徴的な匂いが鼻をつく。

見た目よりもその部屋は大分広く感じた。そして見た目以上になかなか汚いと思う。

部屋の中央には描きかけの油絵と、散乱した絵具を乗せた机。筆を洗うためのバケツ。絵具汚れがあちこちにあり、何かしらが描いてある画用紙も散乱している。「雑然」という言葉が一番似合う部屋だった。


「…よく、ここまで汚せるわね」

「うん。今まで一度も掃除はしたことないね」

「しなさいよ!掃除くらい!」

「じゃあ、志野嬢がしてくれる?」


振り返れば、意地悪そうな笑みがある。志野は口元をひきつらせながら、朔之助に詰め寄った。


「貴方、最初からそのつもりで私を呼んだのね?!」

「やだなあ、そんな小賢しいことしないよ」

「嘘おっしゃい!」


志野が詰め寄れば詰め寄るほど、朔之助は楽しそうに笑った。邪気のない笑顔を見れば、志野も怒る気は失せる。盛大な溜息をついて、もう一度小屋の中を見渡す。これをきちんと片づけるとなれば、骨が折れそうだ。しかも芸術家は「そこは触るな」とか棚の配置一つにも煩そうだ。


「…箒くらいはあるんでしょうね」

「ああ、それくらいならあるから」

「何故あるのに今まで一度も使わないのよ」


冷静な志野の物言いにも、朔之助は微笑で応えるだけだ。うまい具合に誤魔化しているとも言う。

志野はひとつため息を付いて、そこらへんにあった白い手拭いの埃を払って、髪の毛を纏め上げたのだった。


日が落ちる頃には、薄汚れていた小屋も大分綺麗になった。橙の夕日が磨いた窓から射し入って、部屋の中も少しは明るく見える。

志野はふっと息をついてほっかむりと襷掛けを外した。足元を見れば、折角の皮のブーツも袴も誇りにまみれている。これをどう家の者に説明しようかと考えている時、すっと横から盆を差し出された。


「どうぞ。志野嬢」


盆の上には今磨いたばかりの綺麗な陶器の茶器に、温かいお茶――ではなく、井戸から汲んできた真水である。


「…貴方ね、幾らなんでもさすがにこれはないでしょう」

「仕方ありません。ここには湯を沸かす囲炉裏も暖炉も、ストーブも無いんですから」

「冬を一体どうやって過ごすのよ」

「毛布に包まって、着膨れ状態で」


もう志野は何も言わなかった。確かに喉は乾いていたので、有難く茶器を受け取り冷たい水を飲み干した。

家では決してしないことだ。掃除も、自分の部屋の片づけくらいはするのだが、こんなにも大規模に掃除をしたのは初めてだった。そして、してみて初めて、体を動かして何かを綺麗にすることは心地いいものだと気付く。労働の後に飲む冷たい水も、案外美味しいものねと現金にも志野はそう思った。

勿論柔らかい寝椅子などあるはずもなく、固い木の椅子に座る。朔乃助は、小屋の真ん中に立ちぐるりとあたりを見渡している。


「随分綺麗になるものですね」

「…貴方はちっとも働かなかったわね」

「生活力がないんです、僕は」

「見てたら分かるわ」


そう言う志野の方を見て、朔之助は微苦笑する。夕日が彼の姿を染め上げると、柔らかい髪の毛が金色に輝く。そして瞳もより一層明るく見えるのだ。

こちらに近づいてくる朔之助を見上げ、志野は徐に呟いた。


「貴方の髪の毛って、本当に綺麗な茶色ね。瞳も」


本当に、何の気もなく言葉にした。けれど朔之助は思いもよらず痛い顔をする。優しく、志野を絵に描いていた時のように手を伸ばして志野の髪の毛に触れた。


「僕は…志野嬢のような綺麗な漆黒の髪や瞳の方が羨ましいけれどね」

「どうして?昔から表情が重たく見えて嫌なのよね。お父様のお知り合いの外つ国の方々は、皆綺麗な金髪で華々しくて好きだわ」


するりと朔之助が離していった髪の毛を、今度は志野が弄る。毎日女中に櫛を通してもらっているから、髪の毛は艶めいていて美しい。

けれど、志野は同時に英国人の綺麗な金茶色や、くるくると舞う髪型にも憧れたりするのだ。


「…僕はこの容姿のせいで、小さい頃から随分苦労したから」

「え?」

「折角学校に行かせてもらえていたのに、そこで虐められてね。この場所は僕の逃げ場所だったんだよ」

「……」

「偶々ここに紙の束があって。前の住人が残していったのか、筆記具もたくさんあったから。だから僕は、描くことを覚えられたんだよ」


それから、描きたいものをただただ描き続けたと朔之助は言った。学校も途中で通うことを諦め、家ではほぼ勘当状態なのだということも。教養などひとつもないが、それでも十分生きていけることを知ったと。


「…だから、志野嬢と知り合えたことは、結構僕の中では重要なんだ」


くすりと笑ってそういうことを言うから、志野は自分の頬に手を当てることを我慢しなければならなかった。顔が真っ赤なことを、知られたくはないから。今が夕暮れ時で良かったと思う。

志野は頬の熱を抑えて、朔之助を見上げる。きらりと瞬く瞳の中の茶色が、彼の生まれなのだと知る。

純粋な日本人ではない。最初にあった時、混血だと彼は言っていた。そのせいで虐められる、ということは容易に想像できた。


今でこそ文明開化の世の中で外国人は多くいるが、数十年前までは奇異な目で見られていた存在だ。志野は自然と朔之助の髪の毛に手を伸ばしていた。

簡単に異性に触れてはならないことは、よく知っている。けれどもそれは時に、衝動という名の感情に押し流される。今まさに、志野は衝動で朔之助に触れようとしていた。

そしてそれを朔之助も避けようとはしなかった。ごくごく自然な流れで、志野は朔之助の髪の毛に触れた。

いけないと分かっていても止まらない。ただ、朔之助の前で繕うことは志野にとって不要だったのだ。

ありのままの彼女でいられる。


触れたいと志野が思うのなら、それは叶うのだ。朔之助は拒むということを知らないから。何でも受け入れようとするから。

生き難い人生を生きている志野にさえ、彼は繕わなかった。そして、志野もありのままであることを朔之助は望んでいる。


「…異国の方は、皆こうも髪の毛が柔らかな人ばかりなのかしら」

「そうですね。僕の半分は日本人で、僕の半分は仏蘭西人ですから」


けれど、彼は純粋な異国人を見たことを、覚えていないという。


「随分、小さい頃に生国を離れて日本に来ました。見たことはあるのでしょうけど」


志野は、ついその柔らかな茶髪をぐりぐりと撫でまわした。朔之助はただされるがままで、口元を緩めている。そうされるのが、さも嬉しいのだというように。


「…貴方の話を、聞かせてくれないかしら」


ふとした思い付きで、志野はそう口にしていた。指に髪の毛を絡めたまま、そっと朔之助の顔を覗き込む。

茶色の瞳は、少し困惑した感じで志野を見返している。


「大した話はできませんよ」

「別に大した話を望んでいるわけじゃないわ。貴方という為人ひととなりを知りたいだけ」

「そろそろ志野嬢も、僕に興味を抱き始めましたか?」

「そうね。でもそれは、出会った時からだわ」


その言葉に嘘はなく、志野は素直にそう口にしていた。夕日に染まる小屋の中で、二人は暫し口を噤んだままお互いを見やる。やがて朔之助は己の髪を弄る志野の手を絡め取ると、そっと握り返してきた。


「…長い、話です」


そう言う朔之助はどこか嬉しそうな、困ったような、複雑な表情を浮かべて口を開いた。この時、志野の生家では志野の行方を捜して騒動が起きていたのだが、勿論本人は知らぬまま、ただ朔之助を見つめていた。


この後、当然ながら二人の行く道は容易には進まぬようになる。その道行きの長さを、いまだ志野は知らない。



***



朔之助がこの世に生を受けたのは、欧州の仏蘭西であった。日本人は明治になって以降、貴族階級から政治を執る人間、果ては文化人など多様な人々が海外へ渡った。朔之助の母は、仏蘭西の街中のただの庶民階級の女に過ぎなかった。


名をアルマ。年のはその時十八。年頃だった。

華族である朔之助の父が彼女を見初めた切っ掛けは、アルマの花を売る姿だったという。


「…皮肉だろう。遠く離れた東洋の貴族の男に見初められて、母は本気で日本に渡るつもりだった。愚かな女だ。僕の父は全くその気はなかったというのに」


当時朔之助の父には既に妻も子もいたという。


「物珍しい西洋の女に惹かれて、ただの勢いで恋人にさせた。父が滞在したほんのふた月の間だけの」


遠く川辺を見ながら語る朔之助に、志野は何も言えずにいた。このご時世、本妻の他に妾を作る男性は少なからずいる。異国に渡れば、それこそ混血で片親だけの子など多く居るのだろう。

日本人は古来から性に関してはかなり奔放だ。公然と遊郭が認められてきた歴史が、それを物語っている。


「母は、本気で父に惚れていた。だから、父が帰ってしまう前に、どうしても引き止める材料がほしかったんだろう」

「……」

「言うまでもない。僕ができたのは、その時だ…けれど。父は、引き止めたい母を振り切って、日本に帰ってしまった」


虚ろな瞳が志野に向けられる。膝を突き合わせ、向かい合って座っているのに、朔之助の目はここでないどこかに向いているみたいだった。


「当然、家族からは勘当された。行き場を失った母は、貴族屋敷の住み込み女中として生計を立て、僕を生んだ。未練がましく、僕に和名をつけてね」

「…あなたのお母様は…?」

「母が生きていたら、僕は日本になど来てないよ」

「じゃあ…」

「僕が五つの年に過労と感染症で死んだ」


ただ一人残された朔之助は、彼の母からよく聞かされていた名前だけを頼りに、様々な人の手を伝って日本に来た。アルマの忘れ形見を見て、朔之助の父は彼を養子に引き取ることに決めたらしい。ただそれは、彼の辛い日本での生活の始まりに過ぎなかった。


「…父は良くしてくれているよ。一時期は本当に自分の息子か疑ってもいたけど。でも、ただ一度情を交わした母のことも、また忘れてはいなかった」


語りながら、朔之助は志野の手を握り締める。どこにも行くなと、その手が言っているような気がして、志野は反射的に指先を握り返す。


「それでも。僕はこの国ではまだ異質だ。日本人には無い目の色や、髪の色は、当然家の中に軋轢を生む。義母は、決して僕の目を見ようとはしなかった。僕の義兄もそうだ」


引き取られた当時、まだ彼は日本語など容易には操れない。彼の父がたまたま仏蘭西語に長けていたから、まだ日常会話は成り立った。けれど、勿論それが義母や義兄に通じるわけではないだろう。

教養は与えられたが、慣れない日本語への戸惑いや周囲の目が彼の心を頑なにしていった。


「…それからかな。この小屋をもらって一人ひきこもるようになってしまった。一応学校には行ったけれどね」


今は離れに居を構えているが、本宅にはほとんど足を向けないそうだ。月に二・三度、食料の調達と衣服の補充のために戻るだけだと朔之助は苦笑した。やたらと靴が上質だったのは、彼の家が華族だという理由があったのだと志野は改めて理解した。


理解すると同時に、無性に寂しくなった。朔之助の全てを諦めたような顔を見ると、自分まで寂しくなった。

そうして、知るのだ。今までの自分は、なんて我儘で、傲慢な人生だったのだろうと。朔之助は、最初から全てを諦めて生きていた。絵だけに何かを見出して、一人何かを描き続けている。


「志野嬢は、僕が初めて出会った、僕に臆さない人だった。だから、もっと話したい、もっと会いたいとそう思うようになっていた」


握りしめた指先に、ほんのりとぬくもりが伝わって、志野はなんだか泣きたくなってしまった。同時に思うのは、もっとこの人の傍に居たいという、それだけの願いだった。



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