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月に沈む  作者:
第一部
3/29


夜、ベッドに潜り込みながら志野はぐるぐると今日あったことを考えていた。モデル、とは言うなれば被写体だという。朔之助は志野に、自分の絵の被写体になってほしいと言った。

あまり聞いたことのない言葉に、志野は上手く言葉を返すことができなかった。

そのようなことを、言われたのは初めてだ。毎日女学校へ通って、夜会に出かけ、お嬢様として過ごしてきた志野にとって、それはまるで未知の領域だ。


(…お父様は確か、ご自分の肖像画を絵師に描かせていたわ…)


大きな父の肖像画は、居間に掲げてある。しかし、朔之助が望む「モデル」とはそういう意味ではないだろう。朔之助が描いている絵を見ればよく分かる。あの人の絵は、自然を描いている。

決まりごとのようにこちらに視線を投げかけて、居住まいを正している絵を、彼は望まないだろう。


(私に「自然」な被写体など勤まるのかしら)


既に毎日が志野にとって「作りもの」だ。朔之助の前では自然にふるまえたとしても、それは容易く慣れるものでもないだろう。ここに来て、妹の佳野の言葉が身に染みるとは思わなかった。

この厄介な二重人格は、ばれてしまえば余計に厄介なものになる。

なかなか素直になれない。自尊心が高すぎるから。


(あの人は…私の何を気に入ったのかしら)


志野が本当の姿をちらりと覗かせれば、「それでこそ志野嬢だ」と嬉しそうに笑う。男の人に見えない笑みは、志野の心臓を狂わせた。今日朔之助が触れた右手を目の前に掲げる。室内はもう灯を消してあるから、月明りしか頼りにならない。

もう、何時間もたっているのに、手は熱を持っていた。そっと、唇を寄せると甘いカステーラの匂いがまだ残っている気がした。完全に、朔之助と出会ってから志野の日常が狂わされている。

けれど、それは心地よい困惑だった。朔之助は志野が素のままでいることを喜んでくれている。おそらく、家族や友人は驚き、反対するであろうこの性格も受け入れてくれている。

そんな存在は、今まで花野しかいなかった。

初めて「本物」に触れることができた――そんな気がしている。


志野はむくりと寝台から起き上がった。外はまだ暗闇だ。月明りだけが煌々と輝いて、その光に飲み込まれそうだと思う。自分が――月に、沈み込むかのような。

志野は床に足をつけ、窓辺まで歩み寄る。冷たい硝子窓に額を押し付けて、ふと思った。

明日も、あの人に会いに行こう、と。

もうずっとずっと前から決めている約束事のように、ごく自然にそう思った。



***


翌日の学校帰り、自然と志野の足は自然と河原の方へと向いていた。「散歩したいの。一人で」と志野が言えば、無理やり中村が着いて来ることはない。何時に帰るかは、きちんと言わされたが。

見上げる空は天気がよいもので、少々汗ばむくらいだ。志野は巾着から真新しいハンカチを取り出し、額に当てた。

ぶらぶらと河原のそばを歩けば、いつも朔之助と会う場所まで直ぐに着いてしまう。どれほどゆっくりと歩いても、いつかは距離もなくなってしまうものだ。

今日も朔之助は昨日と同じように、草の中に紛れ込みながら一心に画用紙に向かっていた。今日も草臥れたシャツ一枚に、傍に少し仕立ての良い上着を放り出してある。

足音を立てていないつもりで近づいたが、朔之助は耳聡くこちらを振り向いた。


「…ああ、志野嬢、こんにちは。やはり来てくれた」

「『やはり』って…もしかしたら来なかったかもしれないじゃない」


挨拶も返さずに志野は膨れると、朔之助はふふ、と楽しそうに笑った。


「来ると思ったよ」

「…」

「貴女なら、必ず来てくれると」


やけに自信たっぷりとそう言うものだから、志野も「そうかもしれない」と思ってしまう。それに気づかれたくなくて、目線を下にしながら地面に座り込んだ。すると、また朔之助は楽しそうに笑う。


「今日は下に何も敷かなくとも、座れるようですね」

「…そうよ。悪い?」

「いいえ。素直で可愛らしい」


ムキになればなるほど、朔之助は志野の数手上を行くようだ。いじける様に志野は膝を抱えた。革のブーツの足先が土にまみれていた。でも、もうそうなることが気にならなくなっていた。


「――それで」


描いている画用紙から目を離さずに、朔之助は口火を切る。辺りには、さらさら風が流れる音と、がりがり朔之助が鉛筆を走らせる音が響いている。


「僕のモデルになってくれるからここへ来た、と解釈してもよろしいので?」


手は止めない。朔之助が喋る間も、画用紙には華奢な勿忘草の群れが描かれている。鉛筆一本でここまで色彩の強弱がつけられるのだから、大したものだ。半ば感心しながら志野はため息をついた。


「それ以外に、ここに来る理由があって?」

「ないね」

「…分かってるんじゃない…」


なら聞かなくてもいいのでは、と思ってしまうのは志野が卑屈だからだろうか。朔之助に言い返すことで勝てないと漸く悟った志野は、いい加減卑屈っぽくなるのは時間の無駄だと分かった。


「いいけど。まさかお屋敷にあるような壮大すぎる自画像じゃないでしょうね」

「あんな趣味の悪いものは描かない」

「…私の父様、あれを応接間に飾っておられるのだけど」

「奇遇だね。うちの父上も同じだ」


つまりは志野と朔之助は同族、ということらしい。志野は何気なしに朔之助に問いかけた。


「じゃあ、あなたもお屋敷住まいなの?」


ぴたり、と朔之助は描く手を止めた。無意識に画用紙に見入っていた志野は、沈黙が訪れてやっと朔之助が自分を見つめていることに気付いた。


「どうし――」

「確かに、お屋敷住まいだけどね。僕は妾の子だから」

「……」

「しかも、見ての通り純粋な日本人じゃないし。あまり自慢出来る生まれではない」


あまりにも無表情で朔之助が言うものだから、逆に志野は何と言ったらいいのか、分からなくなってしまう。いい靴を履いているかと思えばシャツは草臥れていたりと、どこか均衡でない朔之助の外見に漸く納得した。

そんなどうでもいいことしか、思いつかなかった。


「――ま、そんなことはどうでもいいけどね」


沈黙を破ったのは、朔之助の方だった。本当にどうでもよさそうに、再び画用紙に向かう。まるで、志野から興味を失ってしまったようだった。そうされると身勝手なもので、志野は焦りを感じてしまう。無意識に手が伸びて、一心不乱に動く朔之助のシャツの袖口を握りしめた。

筆圧が強い彼のせいか。

思いっきり引いた彼女のせいか。

ぐしゃりと、画用紙が潰れる音がした。


「あ!!」


共に叫んだ。今まで綺麗に咲いていた勿忘草に、皺がよる。不自然な黒鉛の線が、画用紙を横切る。さあっと志野の背中が粟だった。


「…ご、ごめんなさい…!!」


思わず膝立ちになり、朔之助の手から画用紙を奪い取る。果たしてそれがいい方法なのかは分からないが、志野は奪った画用紙の皺を伸ばそうと手を当てた。ぽかんと朔之助は志野を見ている。


「あ、それ…」

「ごめんなさい。わざとではないの。少し勢いがついちゃって…」

「志野嬢。手、汚れるよ」

「手なんか。洗えばそれでいいでしょう?でもこの絵は…」

「いいよ。ただの落書き」

「でも…」

「いいの」


半泣きになりそうな志野の手から、また画用紙を奪い返す。変な風によれてしまったしまった画用紙の束の角を揃えなおして、適当に地面へ放り投げた。


「暇つぶしに、落書きしてるだけだから。志野嬢が落ち込むことないよ」


でも、その落書きに、時を忘れそうなほどのめり込んでいるくせに。そう思うけれど、志野の口からその言葉は出てこなかった。目は放り出された画用紙の束に行く。

それを咎めるように、朔之助は志野の右手を徐に取った。


「ほら。黒鉛で汚れちゃったよ」


柔らかい鉛筆のせいか、簡単に皮膚に移る。手のひらに、勿忘草の葉陰が複写されていた。朔之助がハンカチを取り出してそれを拭おうとするので、志野は慌てた。


「…いいの!消さないで」

「え?でも、汚れたままに…」

「いいって、私が言ってるのよ。だからいいの」


強情に志野が言い張ると、朔之助は渋々ハンカチをポケットにしまった。それでも、志野の手は離さなかった。


「手、冷たいわ」


不意に出てきた言葉はそんなもので。

志野はじっと朔之助の手を見続け、朔之助は志野を見続けた。


「…いつも、結構冷たい」


答えた声は、ぽつりと志野の心に沈み込んだ。志野の手を掴んでいるのとは逆の手で、ほつれた志野の髪の毛に触れる。髪の毛の先まで神経があるかのように、志野はびくりと身を震わせた。

耳まで熱いのが分かる。朔之助が冷たい手でその耳に触れてくるから、余計に際立つ。


「あつ…」


耳たぶや耳殻を愛でるように、朔之助は指を這わせる。


「よして」


抵抗しようとする声は、けれどとても弱弱しく聞こえた。絞り出した志野の声に、彼は笑みを漏らした。


「もっとして、って…聞こえるけど」

「そんなこと言ってないわ」


逃れるように手を振り払うと、朔之助は無邪気にまだ笑っていた。懲りずに今度は両手で志野の頬を包みにかかる。


「うん」

「ちょっと…!離して!!」

「いいね。ますます描きたくなる」


そう言って笑うから、志野は意地でも冷静さを繕うしかできなかった。


「だから!描いたらいいと言ってるでしょう!」

「そう?じゃあ遠慮なく」


ぱっと前触れもなく手は離された。漸く息がつけるようになって、志野はほっと胸を撫で下ろす。そして彼の方を見やれば、早速放り出した画用紙の束と鉛筆を再び手にしている。


「え…い、今から…?」

「そう。思い立ったら吉日だろう?」


そう言って、徐に鉛筆を動かし始める。やると言ったはいいが、モデルなるものはどのようにしていればいいのかなど、志野には分からない。おたおたと周りを見回していると、朔之助が困ったように笑い出した。


「いいよ、別に。そんなに固まらなくとも。好きにしていて」

「す、好きにって…」

「何でも。学校の課題をやっても、座っていても、寝ていても」


好きにしていたらいい、と言われても、志野はただ座って足元の草を弄るしかできない。がさがさと朔之助が画用紙を用意し、やがて黒鉛の先が滑る音が聞こえてきた。ちらりと朔之助を見やると、不意にこちらを見た彼と目があった。志野はわざとらしく目線をそらしたが、朔之助は何も言わなかった。

時に荒く、時に繊細な鉛筆の音が志野の耳に届く。一度ちらりと見ただけで、朔之助はもう志野の方を見はしなかった。

不自然とも言えない、心地いいとも言えない空気が二人の間に横たわっている。陽はいつの間にか西の空に沈もうと、傾きかけている。もうそろそろ帰らないと、父にも母にも心配される。

けれど、志野はその場から動かなかった。

動けなかった。


真剣に紙面を見つめる朔之助に見惚れていたと言っても、間違いではない。薄茶色の瞳が、画用紙に向かう。節立った長い指が、高級そうな鉛筆を握りしめている。胡坐をかいて、時折悩むように眉根を寄せて。

そして、窺うように志野を見上げた。

急に居たたまれなくなって、志野は腰を上げた。

朔之助は特に止めようともしないので、志野はぶらぶらと川岸の方まで足を進める。夕日の橙が川面に映っている。そっと手を差し伸べて水を掬えば、きらきらと滴って、志野の着物の裾を濡らした。

不思議な心地だった。

振り返れば、一心不乱に描き立てる朔之助がいる。急に志野の退屈な生活の中に介入してきた男。

穏やかではなく、急速に彼に惹かれていく自分がいることを、志野は否定できなくなっていた。


(…けれど)


いくら自分が誰かに想いを寄せたところで、それが叶う日が来ることはない。朔之助がどんな家柄出身かなど分からないが、妾の子とあれば簡単に一緒になることなどできない。こんな性格でも志野は伯爵家の長女で、家を永続させるためにそれなりの婿を取らなければならない。自由に絵を描き生きている朔之助に、それを押し付けたいとは思わない。


――そう。自分は家のために「絵に描いたような」お嬢様でなければならなかった。

今朔之助に描かれていることを考えれば、何とも皮肉だ。思わず苦笑を漏らしそうになったところで、自分の後ろに人がいることを、川面に映る影で知った。

言わずもがな、先刻まで画用紙に向かっていた朔之助だった。


「…もう、終わり?」


見上げて尋ねれば、不意に黒鉛で汚れる手を差し出された。それを取ることに、志野は何の警戒も抱かない。重ねた手はやはり冷たかった。けれど心地よい冷たさだった。

立ち上がると、朔之助は黙って画用紙の束を差し出す。


「見てもいいのかしら」

「…どうぞ。好きなだけ」


ぱらりと捲ると、出てきたのは志野の膨れた顔。幼女のように幼い顔。そして、風に髪を靡かせている女性らしい横顔。川辺に向かって歩く後姿。水を掬いあげる姿。

そのどれもが、大胆であって、どこか繊細な鉛筆運びで描かれている。

じっくりと一枚一枚見やって、志野は呟いた。


「…私、こんなに綺麗ではないわ」


夕日のせいで、紙も朱色に染まっている。その中で見るから余計に、自分ではない気がする。


「そうかな。僕から見た志野嬢は、少し子供っぽくて、でも不意に大人の女性のような顔を見せて、どこか危うい雰囲気に包まれてる」

「危うい?」

「そう。今にも崩れ落ちてしまいそうな、そんな感じ」


そう言いながら、志野に近づく。西洋の感覚なのか、朔之助はいつも距離感が近い。目を上げれば、間近にある瞳に射すくめられそうになる。


「…私、崩れたりなんかしないわ」


志野は自分を守るように画用紙の束を抱きしめる。これ以上、朔之助に介入されることを拒むように。

そうすれば、ふっと朔之助の気配が遠くなる。二人の間にはまだ薄い壁がある。それを、今の時点では志野も朔之助も越えようとはしない。

越えられないのだ。けれど志野は、つい手を伸ばしそうになる。


朔之助の隣はいつも楽だった。繕おうとしても、朔之助がそれを許さなかった。なのに、上手くそれを伝えることができない。むしろ、伝えてはいけないと思っていた。


「…その絵、志野嬢に差し上げますよ」


穏やかな表情で朔之助は笑う。ふわりと茶色の髪の毛を風に靡かせて、夕日の中で微笑う。朔之助の方が崩れてしまいそうだと、志野は一瞬どうしようもない不安を感じ取った。

けれど、手を伸ばすことはかなわない。有難う、と一つ呟いて大切そうに大切そうにその絵を抱きしめた。それを間近で、切なそうな表情の朔之助が見ていることを今はまだ知らない。


この出会いが、志野の運命を大きく変えていくことになることも、まだ知らなかった。




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