二
結果から言えば、森川朔之助は一目見て志野の裏表の激しい性格を見破った。
けれどそれは、志野が朔之助の前では、女学校でするようなおしとやかな性格ではいられない、ということも意味していた。それが志野にとっての不満だった。屈辱に似た思いだったかもしれない。
英語の授業を聞き流しながら、志野はぼぅっと窓の外を見る。
会いになんか行かない、そう言い張ったのに、このところずっと朔之助のことばかり考えている自分がいる。意識して、あの川原での出来事を考えないようにしている。無駄に勉強に打ち込んでみたり、お稽古事に熱中してみたり。
けれど、ふとした瞬間に朔之助の笑顔が頭の中に浮かぶときがある。
きょとんとした表情や、意地悪そうに唇を吊り上げる表情。自分のことを絵に描いてあげよう、と言ったあの声。
(…冗談じゃないわ…)
気にしてばかりの自分が馬鹿みたいだ。
「――Ms.SEZAWA?」
不意に教室の前の方から声を掛けられる。無意識に沈んでいた思考を引き上げると、教室中の視線が自分に集まっていた。教卓には、深緑のサテンのドレスを纏った英語教師―英国から来ているエミリア先生が志野を指していた。
窓の外を見つめてぼけっとしてるところを見られたらしい。恥ずかしくなって、志野は顔を伏せながら立ち上がり、『すみません』と英語で謝った。
『あなたが集中していなんて、珍しいわね?』
『すみません。少し、寝不足で。以後気をつけます』
英語の授業では、すべて英語で話さなければならない。その授業においても、志野の成績は優秀だった。だから尚のこと、エミリア先生も吃驚したのだろう。
謙虚な志野に、『気をつけるようにね』と言うだけで、特にお咎めはなかった。
「具合がよろしくないの?志野さん」
英語の授業が終われば、幾人かの友人が志野の机の周りに集まった。一様に志野の不注意を不思議がっている。志野は曖昧な笑みを浮かべながら、少し首を傾けた。
「…ええ。少し。昨夜は遅くまでお勉強をしていたものだから…寝不足で」
儚げに志野が笑えば、誰も疑う者などいない。「そうでしたの」やら、「具合がよろしくないなら、お帰りになったほうが…」などと声を掛けてくれる。
「有難う。でも大丈夫です。お気遣いなく」
本当は心の中がざわついている。本当は――ずっと、朔之助と逢った川原にもう一度足を運びたいと思っていた。けれど、それを素直に実行に移せるほど、志野の性格は素直ではない。あの時も、朔之助に「絶対来ない」と宣言してしまったのだから、自分から容易に訪ねることなど今の志野には出来なかったのだ。
絶対行かないと、豪語した。
あれ以来、あの川沿いの道も通っていない。中村が不思議そうにしていたけれど、志野は頑なに「嫌です、あの道は避けて頂戴」と言い張った。
いつもと違う道を通って妙に苛立ちが募っても、無視していた。
――なのに。
「志野さん。今日放課後、ご一緒にお茶など如何かしら?」
気晴らしが必要なのだろうと久しぶりのお茶のお誘いを受けた。けれど、志野の頭の中に浮かんだのは、もっと不埒な思いだった。
この誘いを利用したならば、会いにいけるかもしれない。
心の中では、「駄目よ、せっかくのお誘いを」と首を振る。けれど、喉から出てきたのは全く別の思い。
「ええ。今日は少ししか居られないけれど。それでもよろしいかしら?」
ふと志野が微笑めば、相手は断ることができない。志野をお茶に誘った級友は、頬を染めながらこくりと頷くしかなかったのだ。
そして放課後、迎えに来た中村に、志野は眉を下げてすまなさそうな顔をしてみせた。
「御免なさい。今日は清さんのお宅にお茶にお邪魔することになったの」
悲しげに俯けば、老年の中村はあわてたように志野の肩に手を置いた。
「ああ、お嬢様。構いません。どうぞ池田様とご一緒に」
大丈夫?と首を傾ければ、幼少より志野の面倒を見てきた中村は、ひとつ頷く。
「迎えは如何いたしましょう?」
「平気よ。近いもの。歩いて帰れます」
日のある内に帰りますから、と押せば渋々であったが、中村も「わかりました」と一歩下がった。ほとんどの令嬢は迎えの馬車や人力車があるが、志野は時折歩いて屋敷に帰ることもあった。両親共に志野を信用しているから、今まで寄り道だの誘拐だの心配する要素はなかったのだ。
(…よし、これで言い訳はどうにでもなる)
志野は心の中で拳を作ると、お茶に誘ってくれた清に向き直った。
「それじゃあ、参りましょう」
鮮やかな勝ちを得た志野の笑みに、清も中村も僅かに頬を染めたのであった。
***
季節は、初夏の入り口。日が空にある時間が、必然的に長くなる。小一時間も清の邸宅で高級な紅茶を飲んで過ごすと、徐に志野は立ち上がった。
「御免なさい。今日は少しお稽古があって。早く帰らないといけないの」
革張りの高級そうな椅子を引けば、磨き上げられた床と摩擦音を起こす。急に立ち上がった志野に、清も吃驚したようだ。同じように椅子から立ち上がる。
「あら、大変。急な御用事ですの?送って差し上げましょうか?」
「お気遣い有難う。でも、結構ですわ。ここから歩いていける距離ですの」
もし困るようなら、人力車にでも声を掛けますから、と言いながら風呂敷包みを手に取ると、清は呼び鈴を鳴らして女中を呼んだ。手土産を持たせてくれるらしい。
「最近は悪徳なお運び屋もあると聞きますから。気をつけて下さいね」
甘い西洋菓子の匂いが、包みの中から漂っている。志野は思わず顔を綻ばせながら礼を言った。
屋敷を出ると、自然と足が早くなった。最近は避けていた曲がり角を曲がって、川原への道を急ぐ。不自然にならない程度の早足で川原に出れば、一気に風通しが良くなる。遠くの方にその後姿を見つけて、志野は走ってきて切れていた息を整えた。
あの時のように、後ろを向いて座り込んで一心不乱に絵を描いている。
つつ、とこめかみから一筋汗が伝う。走ってきたからか、それとも緊張のためか。
(…違う、緊張なんかじゃない)
緊張なんかしない。いつものように。
おしとやかに。優雅に、偶然を装って。
見破られてしまう、なんてことは今は思わないことにした。志野は静かに草原を分け入って、朔之助に近づいた。
足音を立てないようにしていたのに、カサリとわずかな音でも、朔之助は聞きつけてしまうらしい。あと十歩ほどのところで、急に後ろを振り向いた。ばっちりと目が合って、「おや」と声が漏れている。
弾む息を何とか抑えながら、志野はずいと先ほど渡されたお土産の洋菓子の包みを差し出した。
「…え?」
きょとん、と朔之助は目を見開いて志野を見上げる。爽やかな風が彼の持つ画用紙の束をぱたぱたと揺らしている。
「…いただいたの。食べるでしょう?」
決め付けたような言い方に、朔之助は戸惑いながらもその包みに両手を差し出した。ぽとりと、綺麗な模様の風呂敷包みが朔之助の手の内に収まる。
「カステーラですか?」
風呂敷包みに鼻を近づけて子犬のようにくんくんと嗅ぐ。朔之助が見上げて問うてくるので、志野は目線を逸らしながらこくりと一回頷いた。
「…座って。一緒に食べよう」
「結構よ…さっきお友達のお宅で頂いてきたから」
「じゃあ」
朔之助は画用紙の束と鉛筆を無造作に放り投げた。
「ここに座ってるだけでもいいから」
「貴方がここで食べるのを見てろってことかしら」
「まあ、そうとも言う」
「…落ち着かないでしょう。人が傍にいたら」
やっぱり、帰ろう。と、志野はそう思って革のブーツのつま先を見つめた。
すると、ひやりと手首に触れられた。先ほどまで、鉛筆を握っていたその指先が志野の手首に。
「ちょっと、」
「居て」
「…え?」
「ここに、居てくれないか」
見上げてくる目は、不思議な色をしていた。純粋な日本人ではないと、確か前に言っていた。触れる手は、志野を離さないのだとでも言うように、ぎゅっと力を増す。その力に導かれるように、志野はすとんと朔之助の隣に膝を突きそうになって――堪えた。
「…地面に直接座るなんて…」
日ごろのお嬢様ぶりが、ここにきて発揮される。彼女がどんなに裏表の激しい性格であるとしても、人前では途端にしおらしくしていようと、体が固まってしまう。中途半端な格好でじっと地べたを見つめていると、すぐ傍で「はあ」と呆れたようなため息が聞こえた。
「…まったく、君も損な性格だね」
「何ですって?」
「ほら、これでいいだろ」
そう言うや否や、朔之助は自分の上着を脱いで地面に放り投げた。いや、志野が座ろうとしているところにパサリと敷いた。
「この上にお座りなさい」
「でも、貴方の上着が…」
汚れてしまう、と言おうとしてまた彼の呆れた目に出会った。
「志野嬢、いいから」
ぐいっと有無を言わさず腕を引かれた。すとん、と膝に柔らかい感触。朔之助の上質な上着が、志野の膝に潰されていた。志野は息を呑んだ。正確に言うと呆気に取られた。
今まで生きてきて、志野は地面に直接座る紳士も、座らせようとする紳士も、ハンカチでなく自分の上着を敷く紳士も見たことがない。朔之助を凝視すれば、またしてもきょとんとした瞳とぶつかった。
「まだ…これでも不安?」
そうして、次には少し不服そうに。少年のように頬を膨らませてじとりと志野を見ている。
「…いいえ」
そう答えられたのは随分経ってからだった。そして自分の口から出てきた言葉は、呆れるほど陳腐なものだった。それでも、目の前の青年はほっとしたように笑う。
「それでは、どうぞ。志野嬢」
その言葉を聴いて、ようやく志野は全身の力を抜くことができた。知らない間に全身が強張っていて、筋肉が軋むのが分かった。渋い色みの上着に腰を下ろせば、朔之助はさして気にした風でもなく風呂敷包みを解きにかかった。中から出てきたのは、予想に違わず甘い匂いのする洋菓子。
今の時代となっては珍しいものでもない。カステーラは南蛮渡来の菓子で、伝わったのは二百年以上も前の話だ。
それでも、朔之助は嬉しそうにその菓子を見つめる。
「嬉しいなあ。僕、カステーラ大好きだから」
本当にくれるのか、とその瞳は問うている。志野は何だか張り合うのも馬鹿馬鹿しくなって、ひとつこくりと頷いた。この青年にお嬢様たれ、と見せ付けてもてんで無駄だ。そもそも、彼に全く紳士らしさがない。
これでは暖簾に腕押し、志野がどれほどしとやかに振舞おうとも彼に違和感を抱かせてしまうのだろう。
「うん、美味い」
ぱくりと均等に切ってあるものの一つを口に放り込むと、朔之助はもぐもぐと咀嚼した。君もどう?と一切れ勧められるが、今はとても食べられない。胸が一杯で、食欲の欠片すらも湧かないのだ。
志野はため息をついて首を横に振った。
「結構です」
「まぁたそんな言葉遣いして。似合わないってば」
「――……ら、ない」
「え?聞こえない」
「いらないって言ったのよ!」
勢いに任せてそう口走ると、朔之助は一瞬きょとんと目を瞬かせてから、優しく細めた。
「うん。それでこそ志野嬢」
よしよし、と空いた方の手で志野の頭を撫でた。その先刻まで鉛筆を握っていた指先で、ついでに髪の毛も梳いていく。吃驚したのは志野の方だ。
「乙女の髪の毛に勝手に触らないでよ!」
志野の黒髪を弄るその手を払おうと、右手を上げた。けれど、「おっと」という一言のみで逆に右手はいとも簡単に彼の手の内に収まっていた。暖かな、かさかさした手だと思った。この手であんな表現をしているなんて、少し信じられない。
鉛筆一本で、彼は何でも描きこなしてしまう。握られた手首にどんどん血が集まってくるのが、嫌でも分かった。志野はうろたえているのだと気づかれないように、素っ気無く腕を振り払う。
「…触らないでと、言ったでしょ」
この人にお嬢様らしくしても意味がないと悟った志野は、耳まで熱くなるのを意識しながら目を逸らした。
「志野嬢」
「…何よ」
「首まで、真っ赤だよ」
「――……!」
ばっと手で首筋を押さえてから、しまったと思う。これでは意識しているのがばればれだ。しかも耳はおろか、本当に首まで熱を持っているなんて。
瀬沢志野の人生において一生の不覚。
「…五月蝿いわね」
「照れたんだ?」
「違う」
「いやいや、そうでしょう」
「違うったら!」
こんな言い合いは不毛であると、志野も十分分かっている。けれども気がつけばこの男に調子よく振り回されている。
「…かわいいねぇ」
こうやって今だって、からかわれてしまう。当の朔之助はまるで意識していないという風に、もしゃもしゃとカステーラを頬張り続けていた。
「負けだわ…」
「うん?」
「何?」と朔之助が小首を傾げる。
西洋人の血が半分入った、整った顔立ち。色素の薄い、目と髪の毛。この男に見惚れる女の子は、山ほどいるに違いない。志野はひとつため息をついて、朔之助に手を伸ばした。そして、口元についていく菓子屑を取ってやる。
「あなた、まるで子供みたいね」
こんな食べ方して。
息を吐き出すと共に苦笑すれば、朔之助は一瞬ぽかんとした後、くすくすと笑い出した。
「…何よ」
「うん…いやぁ、志野嬢はこうでないとね」
「あなたが私の何を知ってるというの」
ぶすくれて袴の裾をいじり始めると、朔之助はハンカチで手を拭いつつ答えた。
「分かるよ。君は、僕と同じ匂いがするね」
「え?」
思わず着物の袖に鼻を近づけてくんくんと嗅ぐと、彼は「違うよ」とまた笑った。
「雰囲気が。何か志野嬢は毎日に退屈して、表面を取り繕ってる気がするなと――僕も、そうだからね」
彼も、取り繕っている一人だと言うのだろうか。誰かの前では表面上でしか接しなくて。けれど志野の前では、取り繕う必要もなく接することが出来ると言うのだろうか。志野を見る朔之助の目は、穏やかだった。のんびりと、足を寛げて川辺のきれいな空気をたくさん吸い込んでいる。
「ここでは、取り繕った志野嬢はいらないよ」
「どうして」
「僕が見ていたいから。『素』の君をね」
楽にしてなよ、と朔之助は志野を下から見上げて目を細めた。まるで眩しいものを見るかのように、手を伸ばす。そして先刻彼が「真っ赤」と言った首に触れる。それに、志野は何の抵抗も示さなかった。示せなかった。
彼が求めるものと自分が求めるものが同じだと、漸く志野にも分かったから、大人しくしていた。この二人の間に流れる空気が好きだと、初めてそう思えた。
そしていくらか時が経ったとき。首に触れていた朔之助の手が不意に離れた。
朔之助はじっと志野を見つめている。志野も、その目から今度こそ自分の目を離さなかった。
数拍おいて声を掛けられる。
「志野嬢」
「なに」
「僕の絵の『モデル』になってくれないか」
静かな、異国の血が入った目で、彼は志野を射すくめた。