十
志野は日本にいた頃、あまり汽車に乗ったことはなかった。東京から出ることが、そもそもなかったのだ。そう思えば、随分狭い世界で生きてきた。今回国の外に出て――しかも2つの国を行き来して――そのことがよく分かった。
翌朝八時に駅舎で待ち合わせる約束をして、志野は画廊を出た。時刻はちょうど夕日が街中を包み込む頃、どこか遠くで鐘の音が聞こえる。耳の奥でそれを捉えながら、取っていた民宿にコレットと向かう。
長時間に及ぶ旅路を、今日やっと終えられると思っていたが、それは明日以降にお預け。宿に入る手続きはコレットに任せ、部屋に入った時には、ぐったりとしていた。やはりというか、寝台に腰かけると途端に眠気が押し寄せてくる。
「お嬢様。ドレスが皺になりますよ」
コレットの声も聞こえてはいる。けれど、それもひどく遠いものだった。もう応える気力も今の志野にはない。
素直に目を閉じた先に柔らかな茶色の髪の毛を見た気がする。ふと男の名を微かな声に乗せる。その呟きの行方は、コレットだけが知っている。
***
欧州の列車は、日本のそれとは違う。雑多に人が詰め込まれる一般車両ではなく、恐らく富裕層が乗る車両だからかもしれなかった。そんな当たり前のことを、志野はどこかぼんやりと思った。コンパートメントは四人掛けだが、アドルフは贅沢に二人貸切にしてくれた。
ふんわりとした座席は、再び志野を眠りの世界に引きこもうとしたが、さすがに男性の前でそんなはしたないことは出来ない。乗車前に買ったみかんよりも大きい柑橘類に鼻を寄せて、その爽やかな香りで眠気を覚ます。
(…これはどうやって食べるのだろう…)
皮は硬そうだ。ナイフがないと無理かしら、とくるくる回して、結局座った膝元に戻した。発車して数十分。一度切符を車掌に見せたきり、汽車は南をめざしている。
目の前の老紳士――アドルフは、本を片手にのんびりと汽車の旅を楽しんでいるようだった。特にすることもなく、志野は車窓から外を見る。もう既に、建物の影はない。緑の草原が広がり、時折白い羊が見える以外、民家すらまばらだ。
時折汽車の上げる黒煙が窓にかかり、視界を遮る以外は、空も澄み渡っている。志野はこつりと窓枠に額を預けた。隙間風が前髪を擽る。どんどん汽車がアルルに近づくにつれて、少しずつ志野の心音は高ぶっていく。
もうすぐだ。あの人と離れて、分かれて一年と半年以上。
年が明けて、志野は十八になっていた。一人、大人になった気がしていた。一人で朔之助を追いかけ、海を渡り、半年。どれ程の人に助けられて今ここにいるのだろう。それを思えば、まだまだ子どもだ。
けれど、大人になりすぎていたら、きっとこんな行動は出来なかった。勢いで仏蘭西に渡ることなど出来なかった。
"今"だからできること。志野の"今"をあの人に見てほしかった。
そしてただただ、会いたかったのだ。それが、もうすぐ叶う。
「――何を憂いておられるのですか?」
「…え?」
「まだ、泣きそうな顔をしておられる」
「泣いてなど、いませんわ」
否定しても、アドルフはひっそりと微笑むだけだった。
「そんな表情をあの男がさせているとはね」
画家冥利につきるね、と。憂う表情はいつでも描きたい気持ちを高ぶらせるのだ。
志野には、分からない。それも顔に出ていたらしい。彼の笑みは深まるばかり。
「会った時の奴の顔が楽しみだね」
「…それに少し、緊張しているんです」
会って、困ったような、嫌なような顔をされたらどうしよう。もしかすると忘れられているかも。
――否、あんな絵を残すくらいだから、忘れていることはないのだろうが。きゅっと志野は膝の上の柑橘類と風呂敷包を握りしめた。四角いそれは、あの工房に残された、志野に残された絵。
志野のお守りだった。海を渡っても、置いていくことが出来なかった。
「なぁに。恋焦がれた女が目の前に現れたら、たいていの男は気が狂うね」
「狂うって…」
そんな馬鹿な。
「そもそもアムールはそういうものだ。人の気がふれた心、そのものだからね」
抑えようとしても溢れだす。その人を想う心が騒ぐ。じっとしていられない。ため息ばかり。
「…確かに」
「気が狂っているとしか思えないだろう?」
思わず志野は苦笑した。
「それなら、私も気がおかしい狂人でしょうね」
志野も、彼を追いかけて海まで飛び越えてしまった。大日本帝国で、どこかの華族と婚姻を結び、大人しく家に入っていれば、もっと穏やかな人生が送れていたことだろう。
けれど、そんな退屈な人生を志野は望んでいない。十分、狂っている。それでも志野は後悔していない。親元を離れてまで追いかけたこの恋が実ろうとも、実らずとも、昔の自分より今の自分の方が好きだと、志野はそう思う。
窓の外を見て口元を緩めた志野を見て、アドルフは目を細めた。
「あまり気を張りすぎると疲れてしまうよ。まだ時間はある。気楽にね」
志野にとって、この老人に出会えたことは、またとない幸運だったのであろう。少しだけ肩の力が抜けたのは良かった。硬い柑橘類の皮に爪を立て、湧き上がる珍しい爽やかな香りを胸一杯に吸い込んだのであった。
巴里を朝早くに出たにも関わらず、アルルの駅に志野が降り立ったのは、日が暮れて大分時間が過ぎた頃だった。途中乗換があったものの、座りっぱなしの旅に志野の腰は悲鳴を上げた。こっそり腰を伸ばしながら、駅舎の外に出ると、灯りが乏しいからか、満天の星空が広がっている。南仏の夜の風は、海が近いせいか、冬だけれどどこか温い。
「時間がかかるのは分かっていたからね。宿を取って今夜は休むとしようかね」
アドルフの言葉に志野は一もなく二もなく頷いた。激しく動いたわけではないのに――むしろ、座ってばかりだったのに――体の底から疲れ切っていた。石畳の道を宿を探しながら歩くと、幸運にも小料理屋が部屋を貸してくれると言うので、有難く二部屋確保した。この街は貿易の主要都市として発展したからか、どこか大らかな気風の人々が多いようだ。
小料理屋の女将には、「アンタ、東洋人だね。本当に真っ黒な髪をしているんだねぇ」と言われた。
のっぺりした顔で背も小さい黄色人種と言われないだけましだろう。やや引きつった顔で、志野が「メルシィ」と答えると、物珍しそうにじろじろと見られた。
巴里ならまだしも、遠く離れたこの街では、やはりまだ東洋人は珍しいようだ。明日はボンネットを深くかぶって出かけようと、志野は心に決めたのだった。
***
翌朝はよく晴れた。思いの外、ぐっすりと眠れたこともあり、気分はすっきりとしている。食堂で顔を合わせた二人は、スープをすすりながら計画を立てた。
「言ったように、ここでサクを探せる時間は二日と半日が限度だ。アルルは広い街だが、さほど難しくはないでしょう。あいつの顔は東洋人よりですから」
焼きたてのフランスパンは、いつも食べているものよりも大分柔らかかった。旅の中で買ったパンは冷めていて、とても歯が立てられるものではなかったのだ。アドルフはちぎったパンをスープに浸して食べている。なるほど、そういう風にするのかと志野も見よう見まねで食べてみると、なかなか美味だった。
「そうですね、絵描きの茶髪東洋人ならあるいは」
「それに、あ奴は人物画はあまり好かんのですよ。花畑とか、草原とか、川とか…ああ、君は別ですがね」
確かに、日本の工房で朔之助が描いていた絵は、自然物が多かった。ありのままに目に映るものを、そのままカンバスに写し取っていた。
「それなら、ローヌ川辺りだろうかね。あそこは庭園もあるし、絵描きも多い」
「まずは市街を歩いてみて、もし画廊があれば尋ねてみようと思います。きっと、立ち寄るでしょうから」
「そうだね。孫もいるから、あればそうするでしょう」
アドルフは、孫のケヴィンがどこに泊まるかまでは聞いていなかったらしい。食後に出された珈琲をアドルフは啜っているが、志野は申し訳程度に口をつけるに留めた。
故郷でも一度だけ口にしたことがあるが、とても苦くて飲めたものではない。英国では常に紅茶であったから、お茶の文化で育った志野には有難かったことを思い出す。
が、こんな時は心底煎茶を飲みたいと思ってしまう。
「アドルフおじ様。お疲れでしょうから、今日は一日休んでいてくださいませ。遠くに行くつもりは今日はないんです。市街地と庭園辺りを巡って、聞き込みに専念いたしますわ」
その提案に、アドルフは首を縦に振って応えてくれた。
少々重くはあるが、志野は朔之助の絵を持って宿を出た。風が少し強い。ボンネットの紐をしっかりと結んで、ひとまず公園へと向かうことにする。
黒髪を結いあげて帽子を被ってしまえば、東洋人であることは早々に分かるまい。拙くはあるが、意思疎通程度のフランス語はできるようにもなった。現地人にとって東洋人が珍しいからと、足止めされる訳にはいかなかった。
アドルフに近辺の地図をもらい、ゴッホ翁所縁の地や絵描きが良く集まる場所に印をつけてもらった。今日はその地を回って聞き込みをすることが目的だ。
カツカツと革靴の底を鳴らして歩く。石畳の古い街は、故郷のどこにも似つかない。1千年以上前の闘技場や城門が残され、広場には聖母子像の教会、一歩道を入れば緑豊かな公園がある。
都市・東京のように人はごった返してもいなければ、派手な芝居小屋の看板もない。露店はあるが、気温が低いせいか、人々は小さなパブで朝から酒を飲んでいる様だ。
志野はきょろきょろと辺りを見回しながら街中を歩き回った。絵を描いている人はちらほら見えるのだが、探し求めている茶色の髪の頭ではない。絵のタッチも違う。時折優しげな老人に声を掛け、志野の持つ絵を見せながら、このような絵を描く青年を見たことはないか聞いて回る。
しかし、誰もが首を傾げるばかりだった。休憩中に聖教徒――クリスチャンでもないのに教会で祈りをささげてみても、手がかりには届かなかった。
小さな街だからと高を括っていた。広大に広がる田畑や森や林の中までは、志野も踏み入れることができない。
夕暮れ間近になり、再度訪れた公園の端の袂で、遂に志野の足は止まってしまった。昼食もとらず歩き通しだった足が、限界だった。かかともつま先もジンジンと痛み、脹脛はつりそうだった。
橋がかかっている池は、沈み始めた夕日が反射してきらきらと光っている。橋の欄干に手を掛け、志野はそっとその輝きを覗き込んだ。必死に瞬きを繰り返して、落ち込みそうになる気持ちを何とか奮い立立てようとする。水面の揺れは、風のせいなのか。己の目の潤みのせいなのか。
志野にも分からない。
(まだ、一日目じゃないの…)
そう分かっていても、再び張りつめられた糸が引き絞られるようにぷつぷつと音を立てているのが聞こえる。近くにいるのに、近づくことが出来ない。
これは、日本でも英国でも感じていた焦燥だ。明らかに今回の焦燥感のほうが強く志野に襲いかかっている。
英国を出た時、そしてアドルフに会えた時、糸は協力してくれた人々のおかげで何とか緩んだ。
――会えるものだと、そう、思っていたから。それがこんなにも得難いものだと、志野は思い知る。
(どこにいるのよ、あの馬鹿男…)
こんな絵、もういっそ池に投げ捨ててしまおうか。そんなこと、考えてみるだけ、志野には出来ない。
馬鹿男のことを焦がれる程求めているのが、志野自身に他ならないのだから。ぎゅっと一度きつく目を瞑って、池から目を離した。
今日はもう帰ろう。まだあと一日と半分ある。それで駄目なら一旦英国に帰って、アドルフに伝言を託そう。
そこまで考えて踵を返した時だった。
「――君が、サクを探しているっていう、噂の東洋の御嬢さん?」
若く、滑らかな男の声が志野の耳に入った。はっと顔を上げる。橋の上、目の前に一人の背の高い男。真っ白いシャツにタイ、抑え目だが高級そうなジレを纏っている。一目でいいところの貴族か商家の子息だということが分かった。
けれど、志野にとってそんなことはどうでも良かった。
――今、この男は何と言った?