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月に沈む  作者:
第二部
18/29


初めて降り立った巴里の街。思っていたよりも人が多くてごみごみしていた。それもそうかもしれない、3年前に万国博覧会が開かれ、急速に発展してきたのだ。

日本よりも大きくて立派な馬車が道行き交い、鉄道や果ては地下鉄道まで網目のように走っている。

そして何よりも圧巻なのが高くそびえる鉄塔――エッフェル塔だ。あの頂上へと行くには、エレベイターなる機械の箱に乗るらしい。


巴里万国博では、19世紀のフランス美術の傑作が数多く展示された。新古典主義から印象派――よく、朔之助が語っていた。志野には何のことだかさっぱりだったが、彼が焦がれた多くの絵がこの街にあるのだ。


行き交うトップハットを被った紳士や日傘を差した淑女、とても同じ人間とは思えない。皆一様に鼻が高くキラキラと光る綺麗な瞳をしている。志野は唐突に己の凹凸のない平面顔が恥ずかしくなり、帽子のつばをそっと下げた。

巴里の街に入れば馬車よりも徒歩の方が良いとのことで、志野はコレットと連れ立って街を歩き始めた。


「お嬢様。行く当てがあるので?」

「ええ…そうね、文具やのおじ様がおっしゃるには、セーヌ川を渡った先にある画廊をあたってみれば、と」

「シュリー橋ですね。歩けばすぐです。参りましょう」


正直、建ち並ぶ店や色とりどりの服を着たご婦人たちに目を奪われてしまうが、そんなことをしている暇はない。コレットも巴里には少しの間観光に来たくらいなので、そこまで詳しくはないそうだ。あまりうかうかしていると、日が暮れてしまう。

路面電車や馬車が通る往来を横切り、セーヌ川を超えるために足を急がせた。巴里の第四区はシテ島やサン=ルイ島が含まれ、かの有名なノートルダム大聖堂がある。文化発信の面でも注目があり、画廊もいくつかあるそうだ。


志野は文具屋の主人から教えてもらった画廊の名前が書かれた紙を持って、橋を渡った。地図が分かるはずもないので、場所ばかりは地元民に聞かなければわからない。おまけにコレットもそこまでフランス語が得意ではない。

広場の屋台のご婦人に拙いフランス語で――時折英語も混じりながら――尋ねると、案外簡単にその場所は見つかった。


「ああ。サン=メリー教会のすぐ裏にある店だね。よく尋ねられるから知っているよ」

「ほ、本当ですか…!あの、よろしければ、教えて、いただいても…?」

「教えるも何も、あそこは市庁舎のすぐそばだから簡単に分かるよ。あの大通りをまっすぐ行って、わき道を一本入れば。建物も大きいし、観光客も多いからねぇ」


分からなくなったら土産物屋にでも聞いてみな、と言われた。市庁舎のすぐそばなら、立地的にも幾分安心できた。志野はお礼を言って、真っ赤な林檎をひとつ購入してから店を後にした。コレットは「ニホン人は律儀な民族ですね」と感心しきりだ。志野がモノまで買うとは思わなかったらしい。苦笑しつつ、大通りを言われた通り一本逸れると、流麗なステンドグラスが目に入った。

一本入っただけで、表の喧騒が嘘のように遠くなる。中心部の観光地だとしても、どこか神聖な雰囲気だ。

思わず立ち止まって見とれていると、コレットにくすりと笑われた。


「日本人はブッタの信徒でしょうに」

「そうね…でも、日本にもクリスチャンはたくさんいるわ」


それに、美しいものに心惹かれるのは万国共通ではなくて?と瞳で問いかけた。志野は日本の寺社仏閣も欧州の教会も同じように美しく見える。その土地に生まれ、その土地に育まれた人々が大事に作り上げてきた遺産だからだ。

そういう意味では、朔之助の絵も同じだった。評価されようがされまいが、志野の目には美しく映る。


そうだ。だから本当は、彼が絵で成功してもしなくても、どちらでもいいと志野は思っている。朔之助がそうしたいと思っているから、今はそのことについて口を出していないに過ぎない。


「中に入りますか?」

「いいえ…今日は目的を果たすために来たの。またの機会に、ね」


正面を素通りした時、微かなオルガンの音色が聞こえた。ちらりとだけ見てから広場に視線を巡らせると、画廊はすぐに目についた。窓硝子にはレプリカであろう絵が所せましと飾られ、日焼けを防ぐためか、張り出した庇が街路まで伸びていた。遠くから見ても、店内は薄暗く、奥に蠢く人影が何とか分かるくらいだ。

とても入り易いとは言えない。


コレットと目を見かわして数秒。沈黙ののち、志野は意を決して扉の取っ手に手を掛けた。フランス語での挨拶は、尋ね方は、と、頭の中でマギー先生に教えてもらった言葉を一つ一つ思い出す。

――カラン、コロン

ベルはどこかくぐもった音に聞こえる。押し開いた扉の先には、どこかで嗅いだような重い匂いがした。店の中はやはり薄暗く、壁にも至るとことに油絵の類が掛けられている。

美しい風景画、美しい貴婦人達、神話の一部分――


「いらっしゃい」


ふと、店の奥から声を掛けられた。深く渋みのある声に志野の意識は引きもどされる。大中小と並ぶ絵画に埋もれるように小さな老人がいた。パイプを吹かしながら、志野を見て――目をぱちくりと瞬かせる。


「こんにちは…」


ようやく絞り出せた。帽子を取ってお辞儀をする。現れた黒髪に、店主は更に吃驚したような顔になり、がたりと椅子から立ち上がる。居並ぶイーゼルを掻き分けるようにして、志野の前にまろび出る。


「あの…」

「これはこれは、驚いた。いやしかし…すぐに分かったよ」


老人が恭しく志野の手を取り、その甲にキスを送る。こちらの国に来て、最初は思わず手を引っ込めそうになった欧州の挨拶だ。日本の華族といえど、志野はここまでされたことがなかったのだ。それも、この一年でようやく慣れた。志野はにっこりと微笑んで、淑女のように膝を折った。


「突然押しかけて申し訳ありません、ムシュー」

「いやいや…まさかこんな風に貴女に会えるとは思ってもみなかったよ、マドモワゼル」

「…私のことを、ご存じなのですね」


どこか確信をこめて志野は尋ねた。


「勿論だとも。着ているものが違っても、すぐに分かったよ」

「……」

「貴女は――サクの、"女神"だね」

「は?」


出てきた言葉があまりにも耳馴れなくて、思わず目を丸くした。後ろでは、ふっと息を噴出すコレット。じとりと睨み返すと、慌てて目を逸らされた。しかし、目の前の老人はにこにこと志野を見上げている。


「ムシュー、私はただの東洋人です。あなたの言う大仰な呼称はとても似合いませんわ」

「まさか。君はサクの絵を見ていないからそんなことが言えるんだね」


あの焦がれたような瞳に映る御嬢さんを、と老人は言う。そのまま手を引かれた。志野が「えっ」と思わず日本語で驚きの声を出すと、主人は楽しそうに片目を瞑ってみせた。


「ここで貴女に会えたのは何たる奇跡だ。来なさい。貴女に見せたい絵があるんだ」

「絵、ですか?」

「今はジャポネがモードの最先端だ。東洋人の絵は売れるから、積極的に探しているところなんだ。けれど、この絵は私が買い取らせてもらったよ」


導かれるのは店の奥。恐らく、一般の客は入れない。扉を抜けて、応接間らしき部屋に入る。上客との接待に使われるのであろう、暖かなそこに、小さな額が見えた。


「私はね、御嬢さん。こんなにも作者の気持ちが汲みとるように分かる絵を、未だかつて見たことがない」

「……」

「一目見て分かる。これは、君だね。そして、これを描いたサクは――こんなにも、君に焦がれている」


壁には絵が掛けられている。それは、油彩だった。けれどまるで水彩のように透明感がある。一面緑で、ところどころに見える白の点は、あの河原に咲く野菊だろう。

そこに足を崩して座す一人の袴をはいた女。黒い髪を半分だけ結い、憂うような横顔を見せている。

――紛れなく、それは志野だった。


「…お嬢様」


傍にいたコレットが、感嘆のため息をついている。透き通った肌の色が、志野が深窓の令嬢であることを物語っていた。


「私は、これを見た時、思ったんだよ。触れられる距離にいるのに、簡単に触れられない。何ともどかしいのか、と」


瞬きを、志野はすることが出来なかった。それをした途端、何が零れ落ちるか分かっている。そんな志野を見て、老人は言う。


「サクが言っていた。これは"郷愁"なのだと。今立っているこの土地が、自分の生まれ故郷なのに、と笑っていたけれどね」


我慢しようと思っていたのに、ついにポロリとそれは溢れ出る。日本から遠く遠く離れたこの土地に、確かに日本残り香がする。それは、志野の中にある、ふるさとへの思いも溢れださせるのだ。

川のせせらぎ、河原の草いきれ、鳥の声、花の香り、そして彼の声。それが面前に迫りくる。色んなものが混ざり合って、志野はただただ、涙を流した。


見ただけで作者の気持ちが分かる、それは真実だった。作者は――朔之助は、こんなにも焦がれる気持ちを抱えている。

志野に、日本という国に。あんなに辛い場所であったはずなのに。


いつの間にか、応接間には店主の老人も、コレットもいなくなっていた。午後の心地よい日和が窓辺から柔らかく部屋を包んでいる。志野は随分と長い間、己が描かれた絵に向かい合っていた。


この絵の女は、一体何を想っているのだろう。何を憂いているのだろう。それはそのまま、朔之助への想いにも繋がる。

彼は今、何を想っているのか。

かたりと、志野は座っていた椅子から立ち上がった。もうその瞳に、涙は浮かんでいない。




***



扉を出ると、画廊の隅で老人とコレットが茶を喫していた。老人はアドルフといい、この一帯では名の知れた画商だという。朔之助は半年ほどにこの店に来た、と教えてくれた。


「絵を売りに来たのですか?」

「いや、それもあったろうが、うちの孫が気に入って連れてきてね。まあ、サクも色んな画家の絵を見たいといっていたから、よかったのだろうが」


ここには古い絵から、新しい作家のものまでたくさんあるから、と言い、店の中を見渡す。この画廊は入った瞬間から一面絵で埋め尽くされているから、吃驚したものだ。ごちゃごちゃとしているのに、どこか落ち着いた雰囲気なのはこのアドルフの雰囲気そのものなのだろう。


「まだ絵で身を立てるには実力不足だと言っていたが。とんでもない。彼の絵は、彼の思考、彼の口そのものだね」

「…口?」

「彼は多弁ではない。しかし、その代わりに絵は多弁だ。少し前のパリでは、技法がもてはやされた時代もあったが、我々は別に緻密な宗教画を求めているわけでもない。そういう意味では、サクの絵は身近で…そう、とても親近感がある」


随分とアドルフは朔之助の絵をかってくれているらしい。志野に絵の良し悪しは分からないが、確かに、初めて会った時から朔之助の絵は身近だった。

紅茶を一口すすり、志野はおずおずとアドルフを窺った。


「それで…あの、彼は…今もこの店に…?」


ずっと聞きたかったことだ。その為にここへ来たようなものだった。


「時々、絵は持ってくるけどね…実は一週間ほど前からパリを離れているんだ」

「え!!」


ガチャン、とカップをソーサに押し付けてしまい、耳障りな音が鳴る。思ってもみない返答に、ついつい素の日本語が出た。目を丸くする二人に「すみません…」と一応言ってはみても、志野の心臓は冷えていく。期待していただけに、思った以上の落胆が志野を襲う。


「アルル――南のプロヴァンス地方だ。前から興味があったようで、『ちょっと行ってくる』と、うちの孫と一緒に」

「ちょっと、て…」

「正確な日数までは」


がくりと項垂れてしまうのは、もうどうしようもない。


「ファン=ゴッホが過ごした場所なんだ。ゴッホはジャポニズムを愛していたが…アルルにその風景を見出していたことは、そこそこ有名な話だよ」


サクはゴッホが好きでね、と続けるアドルフの声を志野は半分以上聞いていなかった。志野はかの有名なゴッホなる人物を知らない。絵描きであることは想像できるが、それはさておき、朔之助はどこかで日本を求めているような気がしてならない。


(あんなに、居心地悪そうにしていたのに…)


志野は、ため息をついてコレットを見やった。


「…どうします?お嬢様」


その声に込められた思いを察することが出来ぬほど、志野は空気が読めない娘ではない。


「アルルには私一人で行きます。貴女はここに宿でもとって、待っていて頂戴」

「女の一人旅は危ないよ」

「おじ様。私はあの人に会う為にここに来たのです。確かに滞在日数はぎりぎりですが、あの人の帰りを待って、無為に過ごすことの方が無駄だわ」


アルルまで、馬車を飛ばせば一日半、汽車を上手く乗り継げば十七時間程で着く。中規模な町であるから、そこまで彼の行方を探すのは苦にならないだろう、というのは希望的観測だった。今まで付き合ってくれた高齢のコレットに、これ以上無理を言うつもりもなかった。令嬢のようなドレスを脱いで村娘を装えば、出稼ぎの類と思てくれるだろう。

しかし、アドルフは眉をしかめて首を振った。


「どのみち若い娘御だ。危険なことに変わりはない…どれ、私がついて行ってやろうかね」

「けれど、この画廊が…」

「息子に任せるさ。この年だから、いつも店に出張っている訳でもない」


暇なんだ、要するに、と仏蘭西の老紳士はこともなげに言う。志野の躊躇いなど、一笑に付している。


「アルルは良い田舎町なんだ。休暇には丁度いい」


その声は、どこか気楽に行こうと言っているような気がした。志野があまりにも鬼気迫る表情をしていらからか。ジャポネーズは生真面目すぎるのだと冗談さえ言った。

志野は毒気を抜かれた。ふう、と深く息を吐いて椅子にもたれる。いいのだ、はしたないと叱る人もここにはいない。


本当はここで朔之助に会えることを期待していた。けれど自分は一足来るのが遅かったらしい。けれど、少なくとも、朔之助を知る老人に出会えたことで良しとすべきなのだろう。そう思う方が、確かに気が楽だった。今回もし会えずとも、巴里には来ようと思えば来れることが分かった。こうして人脈もできた。


「今日はアルル近くまで行く鉄道は終わっているだろう。明日は朝一のものに乗って向かうとしようかね」


朝早くなら、一日はかかるまい、と非常に呑気だ。また馬車かと思っていた。鉄道と分かれば、これもまた気が楽だった。



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