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月に沈む  作者:
第二部
17/29


パリの夜明けは、ひどく冷える。部屋の中ですら吐き出す吐息は白くて、起き出した寝台の上で、ぶるりと身震いした。夜通し暖炉の火を焚くと中毒で死んでしまうため、熾火の中で身を縮めて眠るのだが、それは大の男にとって大変惨めなことだった。そして、この粗末なアトリエは隙間風がよく入る。


彼――朔之助は寝台から足を下ろして、すぐに毛糸の上掛けを羽織った。アトリエとして使うこの部屋は、寝食をする居住空間でもあった。だから、いつでも油絵の具の匂いが、木枠の匂いが、黒鉛の香りが充満している。

錆びついた両開きの窓を開け、その匂いを逃がすと、地平線の向こうに太陽が顔を出す時間だった。真冬の突き刺す空気が、ぴりぴりと頬に染みる。商家の見習いが起き出し、賄い女が朝食をつくる時間。朝方の靄はこのパリの冬の朝をどこか暗い印象にさせていた。


本当のところ、もう少しゆっくりと惰眠をむさぼり、近くの安い宿屋兼カフェで朝食を食べたかった。けれど、今日のこの日ばかりはそうは行かない。朔之助が寝衣から、粗末なシャツとベスト、スラックスを履いたところで、アトリエのドアがコンコンと鳴った。


「…はい、開いてる」


誰かも確認せずにそう言えば、ドアの向こうから呆れた声が返ってきた。


「おいおい、俺がもし凶悪強盗犯なら、すぐさま押し入ってあらゆる金品盗んで、証拠隠滅にお前を撃ち殺すところだぞ」


そう言いながら入ってきたのは、朔之助と同年代の青年――まばゆい金髪に、エメラルドの目をした、美しい顔の青年だった。

彼の名はケヴィン・ヴァシュレと言った。一言で言えば、パリの中でも長く続く画廊の跡取りだった。そして些か軽薄で、金持ちのくせにこざっぱりとしており、かつ朔之助の絵の評価をしてくれる、どこか変わった男だ。


ケヴィンと出会えたことは、朔之助のパリ生活の中で、最も運のいい出来事だったと言える。


街中には、散歩や人々の目を楽しませる公園や庭園が数多くある。景色が良いとなれば、当然絵描きは多く集まった。売れない若き絵描きたちは、公園や川のほとりでデッサンや習作に励み、やがて己にしか出せない表現を磨いていく。パリに来たばかりの頃の朔之助も、例に漏れずその中の一人であったことは、言うまでもない。


まずは自分の絵がどんな評価を受けるのか、興味本位で画廊や画商に持ち込んでみた。結果は勿論、全く相手にされなかった。予想はしていたとはいえ、落ち込まなかったと言えば嘘になる。日本を出るときに古物屋に売って得た金銭では、2、3か月生活できればいい方だ。ここで絵が売れれば、生活は一気に楽になる。

しかし、そう簡単にいくはずもなく、苦労して仕上げた絵も二束三文にしかならなかった。ここで朔之助が持ち込んだ絵は、風景画が殆どだった。日本で描いていた、桜や日本の風景。ジャポニズムが流行っているとはいえ、西洋風に描かれた日本の風景は、あまり目の肥えたフランス人にはあまり受け入れられなかった。


安いアトリエを何とか見つけて、朔之助は新聞の挿絵の仕事をいくつかこなしながら、絵を描いていた。早く何とかして生計を立てたいと思う一方で、自分の本当に描きたいものが認められない。人々に受け入れられるのは、いわゆる「流行」に則ったもので、それは朔之助が望むものではなかった。

上手く行かない現実にほとほと疲れた時、朔之介はよく外に出て、河辺でデッサンを描いていた。決まって描くのは一人の少女だった。

上手くいかない時、むしゃくしゃしてしまう時、疲れていた時、少女――志野を描いていると、不思議と心が落ち着いた。


彼女を一人、日本に残しておきながら、こうして焦がれるように描きつづける。絵を描く、いつか見せるという約束しかしていない。

もしかしたら、もうこんな男のことなど忘れて、違う男と結婚しているかもしれない。幸せな家庭を築いているのかもしれない。

そんなことを思いながらも、勝手に黒鉛は彼女の姿をうつしだす。共に過ごした時間は僅かであった。それでも、よくもこれだけ描けるな、と感心する程多くの表情の志野が生まれていく。


これでは妄執だ。こんなに彼女を描いてどうなるのだ。

一心不乱に描いていた時、ふと、そんなことに思いついて、愕然として黒鉛を持つ手を下した。


――ケヴィンに声を掛けられたのは、そんな時だった。


『川を前にして、絶望した表情で、同じ女ばかり描き続けるサクが、面白くて』


声を掛けた理由はそんなものらしい。そんなに自分は鬼気迫る表情をしていたのか。それを面白がるとは、ケヴィンもいい根性をしている。

河原で声を掛けられてから、デッサンを見せろと言われた。"志野の"デッサンを、求められた。

それなら事欠くことはない。画廊の跡取りだということを聞いてからは、この機会を逃してはならないという本能に従い、恥もかなぐり捨てて全て見せた。


笑う顔、怒る顔、憂う顔、月の中で、朔之助を見上げた、毅然とした顔――


『お前、何故この少女をニホンに置いてこれたんだ。こんなにも求めていて、よくそんなことが出来たな』


素直に驚かれた。朔之助も、改めてそう言われると、苦笑しかできない。


『絵描きとして認められるためだ。それしか、言えない』


それ以外の理由がない。あの時の自分は、身分が無いも同然な華族の庶子でしかなかった。志野と共にありたいと思うことすら、無理だった。


『それならば、何らかの地位が得られればいいと思った。華族の地位を得るのは無理だ。僕は、半分フランス人の血が混じっているから。となれば、あとは絵を描いて、地位を得るしかない』


それも来て早々、躓いている。自分の絵が簡単に売れるとも思っていなかったが、これでは何年かかるか。そこまで語ると、ケヴィンは急に真剣味を帯びた目を朔之助に向けた。


『お前、この少女の絵を描け。売るものじゃないと勿体ぶるな。お前の本気はこの少女の中にしか感じられない――今は』


これが、朔之助の中での転機だったと、今になってそう思う。


***


所は戻って、アトリエの中。朝も早くから押しかけてきたケヴィンに、朔之助は小首を傾げる。


「強盗も何も、この部屋には金になるようなものなど何一つないぞ」


そんな部屋に強盗に入っても、意味がないではないか。


「あるんだよ!絵が!」


確かに、絵ならアトリエの中に山とある。パリに来て一年と半年。描き溜めた絵はそこそこの数となっていた。ケヴィンの教えの通り、この半年は志野の絵ばかり描いている。そして不思議なことに、きちんと絵に描いた日本人である志野の絵は――売れた。


といっても、画廊に置いてもらえる、というだけだ。しかしそれでも、朔之助にとっては僥倖だった。心の中で大切に想う志野を、他の誰かと共有しているという複雑な感情があったのは、最初だけだった。志野を売り物にしてしまった罪悪感は、確かにあった。

けれど、ケヴィンの祖父でもある画廊の主は、朔之助の描いた志野を見て、柔らかく笑んだ。

――いい絵だ、と。


『君は、こんなにもこの絵の少女が好きで、恋焦がれているんだね。言葉はいらない。この絵だけで、その想いがよく伝わる』


だから、いい絵だ、と。朔之助は求めている絵は、そういうものだと、気づいた。何も言わなくても、感情が絵から伝わる。人間である限り、言葉は必要だ。けれど、絵は言葉を介さない。どんな国の、どんな人種の人が見ても、伝わるものが描きたい。

朔之助が持つ絵に対する想いを、今、はっきりと自覚できた瞬間でもあった。


「で、準備は出来たのか?」


勝手にイーゼルの前に置いてある木の丸椅子にどかりと腰かけ、ケヴィンは朔之助に尋ねた。その足元には、一つのカバン。昨夜、寝る前に用意していたものだ。朔之助は頷いて、目線でそれを示す。


「なんだ、たったこれっぽちか?」

「お前のように有り余る金があるわけでも、溢れかえる着替えが必要なわけでもない。これで十分だ」

「おいおい、お前の滞在はたったの三日だったか?」

「洗濯すればどうにでもなるだろう」


気を許した掛け合いも、この半年で大分慣れた。この地で――否、この人生で初めてできた友人と言ってもいいだろう。最初は敬語だった。自分の絵を認めてくれた人であったから、そうしていた。

けれど、ケヴィンはそういう堅苦しいものは嫌いだったらしい。いかにもさっぱりしている彼らしい言い分だ。

気づけば、釣られるように朔之助も飾りげなく話せるようになっていた。志野といい、ケヴィンといい、朔之助が大人しい分、激しい性分の人が集まるらしい。


「さて、馬車の出発は三十分後、朝飯は各自調達、顔はよく洗っておくように」


それだけ勝手に言い置いて、ケヴインは部屋から出ていく。何とも面倒見のいい男である。


今日、これから朔之助はケヴィンと共にパリの街から発つ。といっても、同じ国の中、南仏プロヴァンス地方へと向かうのだ。フランスの中心から、海が迫るずっとずっと南の田舎街。

アルルという。穏やかな気候で、古代遺跡も建ち並ぶ歴史ある街だ。アルルの街は数年前に亡くなった、朔之助が憧れる画家、ゴッホが療養のために訪れた土地でもある。


『アルルはまるで日本の夢のようだ』


と、かの画家はそう語った。光あふれる南仏は、ゴッホが夢見た日本の空気を備えていた。

その話は、昔から知っていた。有名な話だ。

アルルに行きたくなったのは、何故なのか、ケヴィンに聞かれたとき、朔之助は上手く答えられなかった。妄執の最中、彼女に少しでも近しいところへ行きたかったのか。憧れの画家が旅した地を自分も訪れてみたかったのか。

結局、「パリは寒いから」と変な答えをしたが、ケヴィンは分かっているらしかった。


『サクの女神はニホン人だからなぁ。よし、俺も行くぞ』


さすが画廊の跡取り。絵に関することの知識は計り知れない。そしてちゃっかりと自分も旅の支度を整え、ぼやっとしている朔之助の代わりに宿を手配し、汽車の券まで取ってくれた。

そして、年明けの刺すように空気が冷たいこの日。フランスに来てから初めてパリを出ることになった。正直、パリに来たはいいものの、大都会と人の多さに少しばかり嫌気もさしていた。

ここらで気分転換にもこの小旅行はちょうどよかったのだ。旅程は移動日を含めて一月の間。


朔之助は言われた通りに顔を洗い、階下のカフェでパンと珈琲を包んでもらい、慌ててカバンを持って、住み慣れたアパートメントを出たのであった。


――これが、志野がパリに来る一週間前の出来事である。


少しばかり近づいた二人の距離は、また、少しだけ離れてしまう。しかしながら、朔之助はこのことを勿論、全く知らないままケヴィンの待つ馬車に乗り込んだ。黒煙を吐く汽車が待つ駅へ、出発の時間を気にしながら向かう。


そして志野もまた、一週間の時間ののち、この駅へと降り立ったのである。


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