七
「ありがとうございます。マギー先生。馨さんとジェシーさんには私からきちんと謝ります。そして…」
「一週間か十日程、貴女は風邪をこじらせて臥せっている、ということにしておいてあげるわ」
志野の後を受け継いで、マギー先生は片目を瞑り、さらりと言ってのける。開き直った志野が言いそうなことなど、お見通しだったらしい。どうもここ最近は、猫をかぶるのが下手になったような気がする。
志野の本質を見ても誰も困らない土地に来たからか、本性を晒すことに抵抗を感じなくなったからか。どちらかと言えば、周囲の人が本当の志野を歓迎してくれるからかもしれなかった。
「それとも、語学の実地研修ということにでもしておこうかしら?」
マギー先生流英国式の冗談なのか、志野はそれに苦笑で返す。
「一週間で、帰れたらよいのですが…」
英国は日本と同じ島国だ。陸続きの土地なら良かったのだが、あいにくと港から船に乗らなければあちら側の大陸には渡れない。海を渡った先にある仏蘭西へは、船と馬車を使って丸一日と半分以上はかかってしまう。そう考えれば、実質朔之助のことを探すのに費やせる時間は4日が限度だろう。
しかもこの時期、英仏関係はあまり良いとも言えず、仏蘭西ではまず英語は「通じにくい」という。志野も仏蘭西に渡った時のために仏語を学んでいたが、まだ流暢に話せるほどにはなっていない。
「いいわ。私の家の馭者と乳母を同行させましょう。乳母と言っても、もう六十歳になるから後見、というところね。馭者もフランスへは行ったことがあるから、道案内くらいにはなるでしょう」
「そんな…どこまでしてもらう訳には…」
「貴女ね、頭は賢いくせにやっぱり貴族のお嬢様なのね。ここは日本ではないのよ。まずね、東洋人は目立つの。スリや誘拐にも合いやすいわ。仮にも日本から貴女を留学生として預かる身として、そして貴女の出国を手助けすると決めたのなら、この位当り前よ」
有難く受け取りなさい。貴族の女であれば。
これは義務の内なのだとマギー先生は言う。
志野がこれから成そうとしていることは、それ程重い事なのだ。父と母を裏切ってまで、手に入れたいこと。自分の知見を広め、朔之助に会う為に、志野は母国を出てきた。目的を違えようにしなければならない。今志野がすることは遠慮ではないのだろう。
ここまで運に恵まれているのであれば、志野はその幸運を享受する必要がある。そして、間違っていないのだと信じなければならない。
「分かりました。肝に、命じます」
深く、貴族の礼を取る。武者震いだろうか。志野は己の足が震えるのを止めることが出来なかった。
もう後戻りはできないのだ。それこそ家族を、国を捨てるほどの勇気がいる。
もしかしたら、国境で捕まるかもしれない。遠い東洋の国の女が、供がいるとは言え、海を渡って隣国に行く必要はどこにあるのかと、誰もがそう思うだろう。けれど、志野にはこの捕まえた可能性を手放す訳にはいかなかった。どれだけ困難であろうと、ひたすら前に進むしか、道は残されていない。
くじけることを志野は己に許していない。心のなかで己を必死に励まして足を前にだすしかないのだ。
***
決意を固めた言っても、すぐに仏蘭西へ渡れるわけではない。国と国の間を渡るには許可がいるし、船の券の手配や巴里への旅程の確定…その他雑多な申請の数々。それらのほとんどをマギー先生の協力を得て、志野が渡航をするのに不安がないように整えてくれた。一生かかっても恩が返せないかもしれない。それ程に、先生は志野にとても協力的だった。
また、二人の友人、馨とジェシーも志野の"仮病"に一役買ってくれた。
「シノがフランスへ行っている間、私たちが先生方の目を逸らせておいてあげる」
「そうそう。渡航許可書をもし見られても、期間があるし、長期休暇の小旅行のためとでも言っておけば良さそうね」
「でも、渡航の印鑑を押されてしまうわ…」
やはり、長期休暇になるまで待とうか…と志野が不安げになると、ジェシーは一笑に付した。
「そんなもの。"不注意"で水を零してしまったら仕方ない。お国の使節と一緒に来たのだから、再発行くらいはしてくれるでしょう」
「そうそう。"不注意"でね」
「なんなら一生ここに身を沈める覚悟くらい、してしまってもいいかもね」
そんな言葉にも、馨はうんうんと笑顔で頷いている。最初の頃は父母恋しさに涙を流していた少女はどこへやら。ジェシーに便乗して、嬉しそうに志野を見て、「火で燃やしてもいいかもね」と物騒なことを言いながら暖炉に薪をくべた。季節は霜月に入り、もう上着なしには外にも出られない。
既に、この国へ渡る時に、祖国へ帰らないかもしれない、否帰ることができないかもしれない、という思いは抱いていた。
年が明ければ、志野は十八になる。それを過ぎると華族の娘の中では嫁ぎ遅れの部類に入ってしまう。本国、大日本帝国から派遣された留学期間も残り半年ほど。故郷からは父母からの手紙もよく届くが、志野はあまり返事を書かない。
父母を想えば、今これから志野がしようとしていることに迷いが出そうな気がして。里心は、時に志野の心を癒してくれるが、同時に臆病にもさせてしまうのだ。
それが怖くて、この国に来て必死に一人で立とうとしていた。
けれど。
「…貴女をあんなにも戸惑わせる殿方なのでしょう。ここまで来たのよ。悔いを残さないで」
「恋する方の為に国を二つも飛び越えるなんて、とっても素敵…!」
志野のしようとすることを非難せず、励ましてくれる二人がいる。協力者もいる。自分は一人で頑張らなくてもいいのかもしれない――と、初めて志野は緊張を解いて、口元を綻ばせた。
「…あら」
「まあ」
茶卓の正面。友人二人は志野を見て目を丸くさせた。初冬の柔い日和がゆっくりと射し、志野の頬を染める。今まで、どこか追い詰められたような冷たい表情をしていた志野が。
今、ようやく、柔らかく笑んでいる。力が入っていた、ほっそりとした顎先に射していた影が払われる。
「シノ。貴女今、すごく、貴婦人に見えるわ」
すごく、堂々として見えると、本物の貴族の女だと、ジェシーがそう言ってくれる。以前は、そんなことを言われても、きっと謙遜しかできなかった。裏表のある性格もきっと、自信のなさを押し隠すためのものだったのかもしれない。それが取り払われた今、志野はそれをきちんと受け入れることが出来る。
「…ありがとう。お二人とも、本当にありがとう」
固く三人で手を結んだ。そんな風に信頼関係を築けていることに、志野は本当にここへ来て良かったと心底そう思った。コルセットで締め上げるバッスルドレスも、踵が高い靴も、ふちが広い帽子も、窮屈に思っていた。けれど、それに耐えつつも、家政よりも勉学に励んだこの日々は、やはり志野を裏切らなかったのだ。志野に知識だけではなく、代えがたい友情まで与えてくれた。
三人は昼下がりの窓辺、友情の誓いを交わしたのだった。
そして志野はこの日の夜、寮を発ったのであった。
***
ガタン、という振動を感じて目を覚ます。座りながらうたた寝をしていたせいか、首が軋むように痛い。
思わず乙女らしからぬうなり声を上げながら項をさすり、志野は身を起こした。と、視線の先、馬車の小窓の向こうが薄く白んでいるのが見えた。間もなく、夜明けなのだろう。
「目が覚められましたか?」
馬車の影からひっそりと声を掛けられる。そちらへと目を向ければ、初老の英国人女性が志野を見つめている。マーガレット女史の乳母であり、世話役でもあるコレットという。つい二日前、マギー先生から引き合わされたばかりであった。一見厳しそうな面持ちをしているが、一緒に過ごしてみれば面倒見のいい女性だということがすぐ分かる。今も志野が寝落ちをしてしまっても、こうして見守っていてくれた。
「ええ…夜が明けますね」
「休まず進んでこられましたから、あと三時間ほどもすればパリに着くでしょう」
三時間。それを聞いて志野はため息をつきたくなった。もう、かれこれ三十時間は何かしらの乗り物に乗っている。馬車、船、少し歩いて、また馬車。
ドーバー海峡を渡る船は、気のせいかもしれないがひどく揺れた。脳みそからぐらぐら揺れる感覚を志野は初めて味わった。英国まで来た船は大型だから、あれでもまだましな方だったのだと知る。
けれど、手段もお金も限られている志野は、漁船も二回りほど大きいだけの船に乗るしかなかったのだ。
結果、波に揺られて青い顔になり、今は休む間もなく古びた馬車に乗っている。苦行だ。
華族のお嬢様である志野には、およそ経験のないことばかりだった。首や腰がばきばきに固まることも、寝台に横にならずに眠ることも。けれど、そこまでして巴里に行く理由が、志野にはある。
「夜通し、走っていただいたのですか?」
「まさか。夜中に一度休憩はしましたよ」
お嬢様は気を失うように眠っていらっしゃったから、と苦笑される。余程深窓の令嬢に見えるらしい。
志野は実のところそんなに可愛らしい者ではないことを、この世話役には分かってもらわねばならない。
頬を少しだけ恥ずかしげに染めて、志野は気まずく窓の外に目を向けた。か弱く、とんだ間抜けに映っているのだろう、自分は。それでもコレットは孫を見るかのように志野を見守ってくれている。
「けれども、日本国の貴族のお嬢様をこんな粗末な馬車でお連れすることになるなど…本国のお父様が聞いたら卒倒しますわね」
「うちは単なる成り上がりですから…結構、図太い方ですよ。まだ庶民的な方です」
「それでも、板に布だけを敷いたような馬車など無縁でしょうに」
確かに、日本で志野が乗っていた馬車は、座面にも背面にもたくさんの綿が詰められていた。
それを懐かしいとは思う。けれど、不思議と焦がれたりはしない。そういう意味では、志野は"お嬢様"ではなくなってしまった。
そして、あの夜会の毎日や女学校での華やかな生活に戻りたいとも、思わなくなっている自分に気付く。
「私には…このような荒野を駆ける生活の方が、性に合っているのかもしれません」
もう、どこにも閉じ込められない。華族である恩恵は受けられないが、それはそもそも志野のモノではない。父が手に入れたものを家族である自分も享受しているに過ぎない。
コレットはそんなことを言う志野を、特段奇異の目で見たりはしなかった。さすがマギー先生の乳母である。こんな言い分には慣れっこなのかもしれない。
英国では、日本よりも余程庶民が声を上げて主張している。そして、それを認められた歴史を持っている。大日本帝国憲法が公布されても、英国とは根本が違う。生まれ故郷を出て、志野はまざまざとそれを思い知っている。
「ぬくぬくと私は育ちすぎました。今の私にはこれが"普通"なのでしょう」
勿論、馬車を一つ借り上げて走らせることは庶民には難しい事だ。志野が華族の子女として学を取り、知識があるマギー先生に出会わなければ無理だった。
どこか矛盾した思いを抱えながらも、志野は振動が響く馬車の壁にこめかみを押し付けて目を閉じた。
――あと少し、あと少しで巴里に入る。そしたら、一番に画商を尋ねよう。どこにどんな画商があるか分からないから、街を歩き回らなければ…
考えながら、志野は再びすとんと意識を落とす。
「夜明けだ、マダム」
馭者の、そんな声を聴きながら。