四
一瞬、時が止まる。開け放たれた窓から入り込む温い風が頬を撫でた時、志野はようやく指先を動かすことが出来た。
「…留、学…?」
「お国の遣欧使節がこの秋に欧州へ発つ予定です。お触れでは、各学院から留学生を募って、この機に随行させるようです」
いわば、将来への投資ね、と学院長はこともなげに言う。
「うちからも候補を、と言われてね。貴女を推薦させていただこうかと」
「何故、私を…」
戸惑う志野に、可愛いものを見たような笑みが向けられた。
「津田様を、貴女はご存じ?」
「もちろんです」
津田様――津田梅子女史は、明治初期に政府の欧米使節団に随行した、女子教育界の女傑で有名な人物である。米国のみならず欧州にも渡り、女性の地位向上に尽力されている。女学校で学を積む者ならば、誰もが知っている。
「その津田様がつい先日、英学塾を開設されてね。この明治の御世、女子教育には学生の研究心と教師の熱意、更にこれからは人間としてのあらゆる面での精神力の向上が必要と述べられたの。私も同感よ。今の女性に必要なのものは、歌舞音曲や佇まい、家の仕事だけではない。男性と同じように高等教育を受けることも必要になるの」
最後にひたりと目が合った。志野は心臓の奥がどくりと波打つのを感じた。それは嫌な動悸ではなく、どこか歓喜に満ちたものだった。奇異の目で見られてきた勉学や読書の結果が、今まさに、花開こうとしているのだ。
「華族の子女の中で、貴女一人が研究心があり、人間としてのあらゆる面の成長に期待できる生徒だと踏んだの。だから、推したの」
「けれど…国費の留学であるなら、華族の私である必要は…」
「必ずしもないわね。けれど、この学院内で平民の学級や商人の子女で推薦に値する人物はいなかった。学院全体で見た結果です」
貴女は外国に遣っても国の恥にならない振る舞いを見せてくれるでしょう。
行先は、英国。あちらの学校に通いながら、語学や女性教育の実情を見てこの国に持ち帰る。
話される内容を聞きながら、志野は己の胸を押さえた。
――嗚呼、ようやく。近くに行ける。国は違えど、今よりは近くに行ける。
こんなにも早く機会が来るとは、思ってもみなかった。学院長室を辞して、志野はきっぱりと前を向いた。
自分のしてきたことに、何一つ、間違いはなかった。自信を持ってそう言える。
神は、志野に朔之助の近くに行く機会を与えてくださったのだ。帰り道の最中、氏神の神社に立ち寄り、お礼参りをすることを、志野は怠らなかった。
***
「…許さん」
「お父様!!」
留学の推薦を告げられたその夜、書斎で志野は父と相対していた。勿論、帰っていの一番に父に報告をした。そして、この反応である。予想の範囲内ではあるが、ここで挫けてはならない。これは志野の戦いなのだ。
「お前にはいずれかの華族を婿に迎えてもらう。あるいは、嫁いでもらう。それ以外に選択肢はない」
そう言い切ると、父はそっぽを向いて窓の外を眺める。否、睨みつけると言ってもいい。全く志野の声すら聞こうとしない、それを体現していた。助けを求めるように同席していた母を見ると、こちらも呆れたようにため息をついている。
勿論、自分の夫に向けてである。
「お父様…」
「聞かんぞ」
「どうして、外国へ行くことがいけないの。英国は確かに遠いけれど、船旅さえ乗り越えれば、然程危険な旅では…」
「そういうことではない」
目も見ないまま遮られた。その言い方の強さで、お前の目的は別にあるのだろう、と言外にほのめかされる。
それは、間違いではない。けれど、それだけでもない。そういった複雑な心境を今ここで認める訳にはいかない。それこそ許してはもらえない。
「お父様、私、きちんと英国語を学びたいの」
これも嘘では決してないのだ。自ら学ぶ中で、英国語は今後必ず必要になるだろうと、そう思うようになっていた。それに、学ぶことが志野は楽しいのだ。外国で学ぶということも、志野を突き動かす一つである。
「お父様、これからの大日本帝国は諸外国の影響で、列強の仲間に入りつつある。男も女も、教養が必要なのは昔からお父様も知っておられたはずです」
このままでは、日本は諸国の中で極東の蛮族と見下されるままだ。だから、父は志野も佳野も揃って学校へと行かせたのだ。これからは女性にも教養が必要だと言っていたのは、他でもない、父である。それを、父本人もよく分かっている。
「あなた」
そこで、声をかけたのは、今までずっと黙って見守っていた母だった。志野の横に来て、そっと肩を抱いてくれる。温かいその手に志野は励まされた。自然と、頭を下げていた。
「お願いします。私は、『私の為に』英国へ行きたいのです」
「あの男の為ではないのか」
「違います」
それだけはきっぱりと言い切った。
「『私の為』でしか、あり得ません」
学びたいのも志野。そして、追いかけたいのも、再び会いたいのも志野自身の為。
朔之助は、恐らくそんなことは望んでいないだろう。だから、決して彼の為ではないのだ。
「あなたの負けのようですねぇ」
「おい、お前…」
「あなたが女学校へと入れたのですよ。志野に、お裁縫や芸事だけではなく教養を与えたのは、あなた」
志野は驚いてめをぱちくりとさせ、母を見やった。母が、父に逆らったことにまさしく驚いたのだ。ランプの灯りがゆらりと揺れて、母の笑みも揺らす。
基本的に、母は父に逆らわない。それどころか、女は男に逆らわないのが、この国の嫌な風習だ。母も普段は従順に夫に尽くし、子の養育を担う存在であった。それが普通なのだ。
この時代の女学校では、華族の妻はそうだと教えられる。志野の思いや考えの方が珍しい。けれど、学院長はそんな志野の考えを認めてくれた。だから志野は今、自信が持てる。
「そもそも英国には、この子が求めている御方はいらっしゃらないでしょうに」
母はそう言ったが、内心志野はひやりとした。機会がもしあれば仏蘭西へ行けるのではないか、くらいのことは下心にそう思っている。英国から仏国へと渡るにはどうしたらよいのか、と勿論考えた。母は本心の知れぬ顔で再度にこりと微笑んだ。
「あなた、この子が行く道は、この子が決めてもいいのではないかしら」
「しかし、お前…」
「どうせ今この子にお見合いをさせても、するすると躱すことは分かりきっておりますわ」
ううむ、と父はうなる。
「あの御方がいないのであれば、この子はどの殿方も選ばないでしょう」
母とは、こうも娘のことを知り尽くしている存在なのか。志野は心中で白旗を振った。きっとこの母に、己は一生敵わない。それはもしかしたら、父も一緒なのかもしれない。
しばらくの沈黙の後、父は重々しく口を開いた。
「志野」
「…はい」
「行くと決めたからには、きちんと学んで帰ってくることが条件だ。それまで、半端な帰国は許さない」
「はい」
「あと、あの男に会うことも許さん」
「……」
ばっちりと釘を刺される。けれど、会うも何も、志野は明確な情報を持ち得てはいない。それでも意地でも「是」とは言わなかった。そう見えるように、しゅんとした顔をして俯く。一応は分かってくれたと勘違いしてくれたのか、父は痛ましげな顔をして、志野の頭に手を置いた。「励みなさい」と、そう言って。
後ろで母が呆れたようなため息をついたことは、気にしないことにした。この世は、こうでもしていないと、非常に志野にとって生き辛い。朔之助が、そうであったように。
多少ずる賢くなければ、己の求めているものなど、何一つ手に入らないことは、分かっていた。
例え、愛おしい肉親が相手だとしても。
***
それから、日々は飛ぶように過ぎて行った。これまで以上に英国語を学ぶようになり、あちらで過ごすための洋服もいくつか見繕った。外務省には旅券を発行する為に赴き、父や母ですら持っていないものを手にした時は、さすがに身震いした。これはそう簡単に手に入れられるものではない。国費での渡航であれば尚更だった。
どんどん準備が進む中で、本当にこの国を離れるのだという実感も湧いてくる。
それを思うと、あんなに胸を踊らせていたのにも関わらず、気が沈むこともある。けれど、これはもう己が決めて覆すことができないのだと腹をくくって、無理にでも奮い立たせた。
母はそんな志野の気持ちを分かっているのか、時折志野を外に連れ出して気分転換させてくれた。勿論、佳野ももれなく着いてくる。志野の本当の思いも何もかも知っているのは、佳野なのだ。
こっそり、二人で仏語も勉強した。勉強すると言っても、こっそり書斎から仏語辞典を持ち出して、単語を覚える程度だが。二人して仏語の複雑さに眉をしかめては、本当にやっていけるのか不安になったりもした。それでも、佳野の天性の明るさには助けられた。
「お姉さま、いざとなれば私がお婿さんを迎えますから、安心して」
と、出発の前夜、こっそりと耳打ちをしてくれた。二人で寝台に潜り込み、夜遅くまで語り合った。秋の風が時折窓の隙間から入り込み、虫の音も忍び込む。もうすぐ、朔之助と別れてから、一年が経つ。
長いような、短いような一年だった。
その間、あの人の顔を志野はことあるごとに思い出していた。絵を描く真剣な横顔、志野を見た時のふにゃりとした笑顔、そして己の過去を嘆く姿。
本当は、忘れてしまわないか、怖かった。薄れてしまわないか、遠くへ行ってしまわないか。必死に思い出して、必死に留めようとしていた。
「お姉さま、必死に生きていらしたわ」
そう、確かに志野は必死だった。その必死さが少しでも報われるのであれば、志野のその生き方を、志野は肯定できる。肉親を裏切ることになろうとも、その覚悟はとうの昔に出来ている。そしてそんな志野を、佳野は間違っていないと認めてくれた。
「必死なお姉さま、とっても素敵でしたわ」
真っ暗な部屋の中、向かい合う姉妹は顔を見合わせて、ふふと笑った。
「そうかしら。とっても格好が悪いの間違いでは?」
「そんなことありません。今も昔も、私のお姉さまは一番素敵なお姉さま。表裏の激しい性格も含めて」
少しいたずらっぽい声音は佳野の明るさを表している。
「…ありがとう…本当に」
呟いた声は眠ってしまった佳野には聞こえないだろう。けれど、志野はそう言わずにいられない。
今、胸を満たす想いはそれしかなかった。