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月に沈む  作者:
第二部
12/29


「――森川様!!」


その名を呼べば、人ごみの中でぴたりと人影は止まった。不思議とその中にいても飲まれない雰囲気がある。志野の声にゆっくりと振り向くのは、壮年の男。あの夏、初めて夜会で挨拶を交わした。

朔之助の父――森川幸助だった。


「君は…」

「瀬澤道恒の娘、志野でございます」


軽く膝を折って挨拶をする。森川伯の隣にいるのは奥方だろう。あの時はちらりとしか目にしなかったが、美しい顔は遠くからでも分かるものだ。ちらりと伯が目で合図すると、奥方は心得たように一歩下がった。

その時になってようやく、夫婦水入らずの時間を邪魔してしまったことに気付く。


「申し訳ございません。年の瀬のお休み中ですのに…」


眉尻を下げてそう言うと、伯は「いや」と口ひげを触って目を伏せた。


「こちらこそ、愚息が君に迷惑をかけたようだ。許してくれ」

「そんな…」


思いがけず伯から朔之助の話をされ、志野は目を見開いた。しかし、森川伯は苦り切った表情で声をこぼした。


「よもや、妾の子が有力華族の令嬢に声を掛けるとも思わず。私の監督不行届だ。君の名に傷がつかず、良かった」

「森川様、私は…」

「あれは、この国へ来てはいけなかったのだ。奇異の目で見られ、蔑まれる。仏国へ戻ると聞いた時、これでよかったと思ったのだ」


まるで懺悔のように伯は志野に向かって捲し立てる。それは今まで朔之助に言えなかった悔いを述べては、志野に許しを乞うているかのようだ。けれど、当然のように志野はすべてを許す立場にない。むしろ逆だろう。今はまだ、朔之助の姿を追い求めている亡者にすぎないのだ。


「森川様、聞いてください」


静かにそう告げると、伯はようやく押し黙った。その向こうで奥方が訝しげにこちらを伺っているのが分かる。


「私、あの方がこの国に来てくれて、心底よかったとそう思っています。あの方は、私から何も奪いはしなかった。逆に、たくさんのものを私に与えてくれた。だから…」

「……」

「だから私は、いつになってもあの方を忘れられずにいるんです。恐らくこのまま、父の言うなりに他の肩と結婚しようと、私の名に傷がつこうと、ずっと」

「それでは、貴女が不幸になる」

「いいえ」


志野はきっぱりと断言する。それだけは分かる。

朔之助が黙って去ってしまって、悲しかった。気持ちだけを置いて行ってしまって、憎らしかった。けれどそれは、決して不幸ではないのだ。


その時、急に目の前の霧が晴れたような気がした。ああそうだ、決して志野は不幸ではない。明確な目標はまだ消えていない。その手がかりが、今、「目の前」にあるのだ。


「森川様。あの方の居場所を教えてくださいませ」

「まさか」

「私があの方を幸せにします。あの方を私にください」


そう言い切った志野に、森川伯は目を見開いた。目の前の少女から、迷いが振り切れたような、溌剌とした笑みがはじける。志野を驚きながら眺めつつも、伯は困ったようなため息をついた。しかし、迷惑そうな表情はされなかった。


「あの子は――朔之助は、君の前ではどんな風だったのかね」

「いつも、絵を描いておられました。けれど、笑いつつも、いつも悲しそうな目をして…言っていました。『居場所はない』と。そんなだから、想いを伝えあっても、いつもどこか遠かった。私は、あの方をいつまでも遠いままにしておくつもりはないんです」


森川伯も、朔之助と一緒だった。どこか悲しげな目をしていて、それはもしかしたら、仏蘭西で出会ったかつて愛した女を思い浮かべていたのかも知れない。この人は、確かに異国の少女を愛していたのだろう。

だから、同じ顔をした朔之助を家に迎え入れた。悲しい目をさせても尚、閉め出すこともできなかったに違いない。

けれどそれは、きっと朔之助を幸せにはしなかった。迎え入れられた家の中で、彼はいつも誰かに顧みられたことがない。すぐ隣りにある家族の温かさに混ざることができない朔之助は、だからいつも悲しかったし寂しかった。


「…あの子を…好いていてくれるんだね」

「ええ、とても」


森川伯は、意を決したように朔之助がいる国のことを教えてくれた。

仏蘭西・巴里。その街中に工房を借りているらしい。


「詳細は…すまない。私も知らないのだ。あの子は何も告げずに行ってしまったから」


旅の資金は受け取っても、仕送りは断ったようだ。


「それで構いません。あの方が遠い地で、生きていることが確かなのであれば」

「…有難う。あの子を、愛してくれて、有難う」


ほんの微かに森川伯は安堵の表情を浮かべて微笑んだ。その時、志野も気づく。


(大丈夫だ。きっと、あの人はこの人に愛されている)


志野は丁寧に二人に礼を言って、その場を離れた。特に奥方は気に留めなかったらしく、ちらと志野を見ただけで、何かを言われることはなかった。


新年に向けて、境内はさらに人が増えてきている。

志野は森川伯からもらった朔之助の居場所を大切に心の中で繰り返しながら、人波をかき分けたのだった。


「どこに行っていたんだ」

「申し訳ありません。あまりに人が多くて迂回していたら迷ってしまって…」

「夜半なのだから、あまり一人になるのではありませんよ?」

「はい、お母様…」


しおらしく目を伏せておけば、母はともかく、父は簡単に騙されてくれた。母はやれやれとため息をついている。いい加減、父も娘のこの二重人格に気付いても良さそうなのに、とその目が語っている。とりあえず、このままの方が今後も動き易いので知らぬふりをして、除夜の鐘を突く列に並び続けた。


ふと、妹の佳野も志野の方をじっと見ていた。小首を傾げると、徐に手に持っていた甘酒を差し出してきた。

「これ、お姉さまの分よ」と。まだ温かいそれを、志野は有難く受け取って口に含んだ。口の中に広がる優しい甘さと同時に、胃の腑がじんわりとぬくもる。


(そういえば、あの人は苦手だと言っていたっけ…)


知らず口元に浮かぶ笑みを静かな面持ちで見るのは、母と佳野ばかり。


「お姉さま」

「なぁに?」

「何か良い事でも?」


唐突な問いに、志野はぱちくりとさせ。「いいえ、別に」とだけ言ってまた微笑んだ。

良い事――そうだ、自分は、掴んだのだ。愛おしい人の、遠い行方を。

鐘を突き、真夜中を超えると、次は地主の神社へと向かう。そこで志野は一身に願ったのだ。あの人の無事と、いつかの再会を。

一人、ずっと、佳野に腕を引かれるまでそうしていた。



***



新年を迎え、志野は十七歳となった。厳しい冬を越し、芽生えの季節が来ると共に、志野は高等女学校の最終学年になっていた。これは、志野にとってはある意味期限が来ることを指し示している。

嫁入りか、はたまた婿を迎えるのか。最終学年ともなれば、周囲は縁談がまとまったであるとか、卒業を待たずして祝言を挙げるだとか、そのような話題で溢れかえる。


そもそも、志野が属する学級は華族の子女が多いことから、良妻賢母を育てるためにあり、本科よりも裁縫や所作を学ぶ時間も多い。そんな中で志野は一人、外国語の勉学に一層励んでいた。勿論、浮いてしまうのは仕方がないと志野も分かっている。


婚約者とどこに出かけただの、あの夜会は素晴らしかったと言っている隣で机に向かい、書物を読む姿は教師の目にもついたのだろう。


それは、春の盛りを少しばかり過ぎた頃だった。


「――瀬澤君。学院長先生がお呼びですよ」


志野を呼んだのは英国語の日本人教師だった。五年生になってからは、英国語の授業も減り、目にするのは久しぶりだった。集中して読んでいた本から目を上げ、数瞬何事かと瞬いた。


「…はい」


勿論、教室中の注目を集めてしまった。志野はそそくさと自席を立って教室の出入り口へと向かう。教師は目だけで合図すると、志野を促して歩き始めた。

木造の廊下はきしきしと二人分の足音を響かせた。時刻は放課後となったばかりのためか、幾人かとすれ違う。皆一様に志野が教師と連れ立って歩く姿に、ちらりと目をやってくる。


やがて奥まった一室に案内された。木製の札には「学院長室」と毛筆で書かれている。教師はコココンと、三回扉を打つ。すぐに向こう側から「はい」と答える声がした。


「瀬澤志野をお連れしました」

「…お入りなさい」


教師はノブを握って向こう側へと開く。中からは春の夕暮れの光が溢れだしていた。促され、志野は目礼してから「失礼いたします」と室の中に足を踏み入れた。

実は少しばかり緊張している。学院長の姿を見たのは、入学の式典での挨拶の時、その時一回だけだった。


女性教育に力を入れているその人は、女性だ。凛とした佇まいは、自らも華族であることを示している。

その人と対することに、とても平静ではいられまい。けれど志野はそれを表面には出さないようにして、膝を折った。


「お呼びと伺い、参上いたしました。瀬澤志野でございます」


淑女の礼を取り、顔を伏せた。「お顔を上げなさい」という許しが出てから、ようやく姿勢を正す。学院長は軽く頷くと、志野に近くに来るように促した。


「突然ごめんなさいね。驚いたことでしょう」

「いえ…」


そんな事はありません、と言おうとして口ごもる。驚かなかったと言えば、それは嘘だからだ。


「素直な御嬢さんのようね」


一瞬にして見破られた。志野は仄かに顔を赤らめて、諦めの息をつく。すると楽しそうな笑い声を学院長が上げた。この人の前では己を繕っても、無駄なあがきのようだ。ひとしきりの笑いを収めると、学院長は椅子から立ち上がる。


「貴女の噂は教師陣から良く聞いています。華族の令嬢であれど、歌舞音曲よりも、語学や読書を好むのだと」

「恐れ入ります」

「成績も昨年の冬から上がっているようですね。皆の良い手本になっていると」


手本かどうかは分からないが、成績が上がったことは事実だ。

一体何の話なのだろう。眉をしかめたのですら、学院長には見えたらしい。


「単刀直入に言った方がよろしいようね」


笑みが消えた。彼女はすっと志野を見据える。心なしか背がしゃんと伸びた。背筋を正した志野に「まずは少し質問をさせて頂戴」と学院長は言った。


「貴女、ご婚約者は?」

「おりません」

「あら、それは不思議ね」

「父は若干諦め気味のようですが。けれど、卒業をすれば適当な相手を見つくろうでしょう」

「それでは急がないと」


要領を得ない問いに、志野はとうとうあからさまに目を細める。しかし、そんな志野を意に介さず、さらりと学院長は言い放った。


「――貴女、留学をしてみませんか」



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