二
約束の一刻を目前にして、志野は何とか書庫の窓を這い上がることが出来た。そのまま待っていたのだろう、佳野は志野の姿を認めると安心したように息を吐く。危なっかしく窓枠を乗り越える姉を手伝い、そして、志野が小脇に抱えているものを見て、目を丸くした。
「御無事で何より…お姉さま、それは?」
「ん?ああ…馬鹿な男の忘れものよ」
四角い何かは、書物なのだろうか、絵なのだろうか。それを佳野が見ることは叶わなかった。
窓を閉め、きっちりと鍵を掛けた時に、遠くの方でボーンボーンと振り子時計の音が聞こえてきたからだ。志野は改めて佳野にお礼を言うと、そそくさと部屋へ戻ろうとする。行きと同じようにこそこそ二人して廊下を行きながら、結局佳野はそれを見ることを諦めたのだった。
その代わりだろうか。志野は部屋へと入ると、小声ながらきっぱりと佳野に言い放つ。
「佳野。私、決めたわ」
「何を、でしょう」
ひっそり部屋についていたランプの灯りを受けて初めて、佳野は姉が泣き腫らした目をしていることに気付いた。けれども、もうそこに光るものは残っていない。す、と切れ長の瞳をきらめかせる姉を、佳野は心底美しいと思った。思わず息をのむほど、彼女の姉は壮絶に美しかった。
そんな佳野の視線を受け、志野はきゅ、と胸に抱えるものを抱きしめて、顔を上げる。
「私、あの男を一発ひっぱたいてやるって」
***
一発ひっぱたいてやると、決めた。さて、決めたはいいが、どう実行するのか。朔之助はすでに海の上の人だ。あの絵を壁に立てかけて、志野は一晩考えた。
恐らく、彼は仏蘭西へと発った。故国と言っていたから、そうなのだろう。
(仏蘭西…どうやって行くのかしら…)
まず、そこからして分からなかった。
この時代、外の国へ行くには相当な労力がかかる。
まずは資金。外国へ行くには外務省の海外旅券を手に入れる必要がある。申請の手数料はおよそ50銭(約1万円)。木村屋のあんぱんが50個ほども買えてしまう。勿論、今の志野に自由にできるお金など一銭もない。
何か欲しい時には父や母に言わなければならない。そもそも、志野一人で外務省に申請に行ったとして、親の許可なしに旅券が発行される訳もない。
次に旅程だ。横濱港から仏蘭西まで、埃及を経由してゆうに一か月以上かかる。
それを一人で乗り切ることはさすがに難しい。無事に欧州に辿り着けたとして、仏蘭西の首都・巴里は内陸の地だ。どうやって港からそこまで行くのか。
そして何より志野は仏蘭西語ができない。英語ですら習いかけであるのに、向こうに行ったとしても意思疎通が満足にはできないだろう。朔之助は恐らく首都にいるだろうが、どうやって探すのかも問題だ。
そこまで考えて、志野は頭を抱えた。とてもとても、ひとりで渡航は無理だ。
遠い江戸時代には「密航」という手段で大陸に渡った者もいたが、華族のお嬢様である志野にその考えはなかった。
いきなり躓いてしまった。正攻法で、なおかつ父に口を出させない方法はないものか。やはり、大人しく待つよりほかないのか。
(…いいえ。駄目よ)
決めたのだ。男たちの会話だけで物事が進み、志野はほったらかし。そんなのはもうたくさんだった。
朔之助を見つけ出し、一発ひっぱたいてやらないと気が済まない。だから、待ってなどいられないのだ。このままここにいても、早晩知らない華族のお坊ちゃまと結婚させられてしまう。
そうしたら、待つことすらできなくなる。己の望みを叶えられなくなる。
(やはり、行かなければ)
薄暗闇の中、夜が明けようとしている。結局一睡もできなかった。志野はゆっくりと起き上がり、前に垂れてきた髪の毛を払う。ひんやりとした床に素足をつけて朝日をいれようと、そのまま窓にかかった遮光布を引いた。
朔之助がこの窓の下にいたことが、はるか昔に思える。あの時、朔之助はこの国を離れることを覚悟していたのだろうか。きっと、そうなのだろう。彼は、優しい顔で微笑みながら、どこか遠いところを見ているような気がしていた。
ちょうど想いを伝えあった時から志野はそれが気になっていた。近くにいるのに、どこか遠い。
結局はこうなる運命だった。けれど。
(…諦めてなんか、やらないわ)
何度も何度もそう言い聞かせないと、心が折れてしまう。それを必死で我慢しながら志野は唇を噛みしめた。徐々に昇る朝日が庭を照らしても、志野はなかなかそこを動くことができなかった。
視線はふと固く閉じられた衣装棚の方へと向く。戸を開けて一番奥のひと目が付かない所に風呂敷包みがある。
結局のところ、絵は衣装棚の奥に風呂敷に包んで隠すことにした。これこそ見つかれば取り上げられてしまう。何としてでもこの絵を守る必要がある。
迎えた朝は、少しのやるせなさを乗り越えれば案外とすっきりとした気持ちで志野は受け止めることが出来た。衣装棚の奥の風呂敷包みを見やって、そっと戸を閉める。
それからは、いつもの通りに小袖に腕を通し、袴の紐を締めた。鏡の前に座って髷を結おうとして、己の顔があまりにも浮腫んでいることに気付いてため息が出る。あれだけ泣いたのだ、当たり前だろう。
こんな顔をしていたら笑われてしまう。誰に、と思いかけて頭に浮かぶのは一人だけだ。こんなにも日常の中に彼が溢れている。
(冷たいお水で顔を洗おう…)
女中に声を掛ければ井戸から汲みたての水を持ってきてくれるだろう。髪を結うことは諦めて腰を上げた。そろそろ朝餉の時間にもなってしまうので、階下に行きがてら顔を洗うことにする。今は誰かに世話を焼いてもらうことすら、億劫でならなかった。
志野は静かに自室の扉を閉めたのだった。
***
女学校へ行くと、様々な友人や教師までもが志野の顔の惨状を心配してくれた。それを徹夜で勉強していたのだと誤魔化して、志野はいつも通りに授業を受けた。
今の志野にはそれしか出来ない。そうしながらも、朔之助を追いかける方法を、日々考えるしかない。
「志野さん、今日の学校の後はお暇かしら?もしよろしければ――」
「ごめんなさい。お父様から寄り道は禁止されてしまったの。遊びすぎですって。お休みの日以外は難しそうで…」
課題の本を広げつつそう言うと、華族のご令嬢たちはぱちくりと目を瞬かせる。その目はこう語っている。
――そのようにお勉強ばかりせずとも良いのではないかしら?
彼女たちの言い分はよく分かる。華族の令嬢に行き過ぎた教養は望まれていない。何しろ、彼女たちは商売をする必要も、読み書きを過度に上達させる必要もない。この学校に入るのも、華族ならほぼ無試験だ。
華族令嬢は手芸や歌などの芸事に秀でていれば良いのだ。求められているのは、同じような階級の男子と結婚し、後継を生むこと。
貞淑に、お行儀よくしていれば良い。結婚相手は親が決めてくれる。
志野の父は新興華族だから、元々は士族(武士)の出だ。いつか、教養は必ず必要になると、志野の父は常々言っている。だから、いつも試験の点数には目を光らせていた。外国語も、読み書きも、難解な数字の計算も、志野は幼い頃より必死になって取り組んだものだ。
かと言って、芸事の練習が疎かになるわけでもない。母は志野と佳野をよく舞踊の稽古に連れて行ってくれる。志野にとっては、知らない知識を吸収することも、女性らしい所作を練習することも同じくらい大切だと、そう思っている。
追い詰められた今、志野が手を出したのは勉学の方だった。何に繋がるかも、正直今は分からない。それでも一心不乱になれるものが欲しかった。
「そうですの」と、友人たちは首をかしげながら志野の席から去って行った。志野は再び英国語の本を開き、文章を読みつつ頭の中で訳していく。英国は、欧州の中の国。朔之助がいるのは、おそらく欧州の中の仏蘭西だろう。彼の祖国だ。
勉強を頑張る分だけ少し、近くなった気がする。それだけでも今の志野には慰めだった。だから、これに打ち込むより他には何もないのだ。
***
そうやって、志野が勉学に打ち込むようになって、三月程過ぎたころ。季節は冬を迎え、年の瀬が迫っていた。朔之助の情報は今だ分からないまま。
暖かい暖炉の灯にあたりながら、志野はぼんやりと頬杖をついていた。時刻は午後の22時を過ぎたころ。今宵は除夜の鐘を突きに行こうと、父が話していた。父はあのように現実的な物事の考えをしながら、一方で信心深い面もある。こういった行事は欠かさず行っているのだ。
今夜は馬車も使わず、一市民に紛れて参拝する予定だ。志野と佳野の二人は、毎年寺で振る舞われる甘酒を頂くことを楽しみにしている。今、紺の絣に着替えた志野は、佳野や両親の準備が終わるのを待っているところだった。年が明ければそのまま神社に初詣に行くため、お願い事は何にしようか、とも考えていた。
父に言わせれば、初詣は己の願いを祈るのではなく、日々の恵みをまず神々に感謝しなければならない、らしい。
けれど、年頃の志野には、自然と己の願いや望みが溢れ出てしまう。それも仕方のない事だった。
「お待たせ、志野」
と、そこで扉が開いて両親と佳野が顔を出した。
「外は寒いわよ。肩掛けを羽織っていきなさい」
母の言ったことは本当だった。夜中ともなると冷たい北風が吹きつけて、志野は思わず首をすくめた。それでも瓦斯灯の仄かな灯りが道を照らし、参道に溢れる人々の姿で幾分寒さも和らぐように感じる。近くの寺には、同じように除夜の鐘を突きに来た人々が列をなしていた。
「まだ大分並ぶわねぇ。私、先に甘酒をもらって来てもよろしい?」
現金にも佳野がそう声を上げ、家族の苦笑を買った。
「一緒に行くわ。佳野一人じゃ迷い子になるもの」
「では、頼むよ。志野」
両親二人は鐘つきの列に並んでいてもらうことにし、姉妹二人は手を取り合ってそこを離れた。しばらく歩くと甘い香りが鼻を掠めた。前方には提灯がともしてあり、明るく人の声が上がっている。そこにお目当てのものがあるとすぐに分かった。
「お姉さま、あちらよ!」
ぐいぐいと佳野が手を引くが、人が多すぎてなかなか先に進めない。
「ちょっと、佳野待って…きゃっ」
案の定、横から入ってきた参拝客に、不意に二人の手が離れてしまう。
「佳野!」
あまりの人の多さに、あっという間に志野も人波に押し流されてしまった。父と母がいる鐘楼からも、甘酒の提灯からも離れてしまった。何とか人波から離れて、参道の端に出る。
はあ、とため息をつくと、うなじを汗が伝った。寒い冬でもこれだけ人が集えば逆に暑い。
もう、甘酒も諦めて迂回しながら鐘楼まで戻るしかない。手巾で汗をぬぐいつつ、人波を避けようとした、その時。
ふと、見知った横顔が視界をよぎる。
まさか、と思い、咄嗟に手巾を取り落しても、それさえ気づかず目と足がその姿を追う。人が多い、けれど、何故か目が離れない。これを逃しては駄目だと、志野の本能がそう叫んでいる。
「待って…」
下駄のつま先が人々の足に踏まれそうになっても、人の肩にぶつかっても、ぶつかった人に声を上げられても構わずにその姿を追い、志野は大きく口を開けた。