一
久方ぶりにきちんと夜着に袖を通し、鏡台を前に座る。女中は丁寧に髪を梳り、余計な水分も手拭で吸い取ってくれた。朔之助が褒めてくれた黒い髪が艶をおびる。
不意にぶるりと秋の涼しさに身を震わせれば、よく気の付く女中は肩掛けをそっと志野にかけて部屋を辞していった。
部屋の鍵はもう掛けられていない。しっかりと食事を取ったからか、もう吹っ切れたと思われたのか、父の判断はそんなものだった。
当たり前だ。朔之助はもうここにはいないのだから。この国中、どこを探しても無駄だろう。
少々納得のいかないところはあるが、事実は事実だ。ふん、と鼻息を漏らして志野は寝台に腰を掛けた。
燭台の灯はもう絞られている。時刻は夜更けとなりつつあるので、さすがに今宵はもう眠ろうと上掛けをめくる。
トントン、と優しい音が聞こえたのはそんな時だった。はっとして窓を見やるが、音は部屋の戸から聞こえてくる。
(…あり得ないのだから、しっかりしないと…)
朔之助の訳がない。諦めたように頭を振って「はい」と返事をした。
「お姉さま?起きていらっしゃる?」
「佳野…?」
妹の佳野だ。明日も女学校があるのに、まだ起きていたらしい。志野は寝台から降りて、戸口へと向かった。
「どうしたの」
戸を開けると、志野と同じように夜着に肩掛けを掛けた妹が立っている。少しばかり後ろめたそうな目は学科試験の教えを乞う時の目に似ている。が、学科試験は少しばかり先のはずだ。しかも部屋の中に入れると、誰かに見られていやしないかときょろきょろする不審ぶり。
「なぁに。鍵がかけられていないのなら、私の部屋に来るくらい見咎められないでしょうに――」
「お姉さま。これを」
志野の声を遮るように、佳野はすっと胸元から一通の封筒を取り出した。肩掛けを握り締めていたのは、どうやらこれを隠すためだったらしい。飾り気のない真白のそれを見て、志野は目を細めた。
「手紙?一体何方から…」
「森川様です。森川…朔之助様からです」
「……」
一体どこで。ひゅっと息を吸い込み、その思いは言葉にはならなかった。目の前の封筒を凝視したまま、志野は詰めていた息を吐き出した。
「あの…あの夜ね」
「ええ。本当に、あの時は偶然だったんです。夜風を入れようと窓を開けたところにあの方から声を掛けられて」
「私の部屋を教えたんですってね」
「そう。その時に、『ほとぼりが冷めたらこれを姉君に渡してほしい』と」
「ほとぼりって…」
冷めるどころか大爆発している。思わず力が抜けて呆れかえる。佳野は、恐らく自分の父が姉に何を言ったのかを、正しく理解したのだろう。父にとっては、もう「ほとぼりは冷めた」のだ。
だから志野の部屋の鍵も掛けられなくなった。
けれど、志野にとっては――
「お姉さま」
佳野の声に志野は我に返った。相変わらず佳野の手には封筒が握られたままだ。受け取れと、差し出されたまま。迷ったのは一瞬だった。
結局志野は封筒に手を伸ばした。
ふと、この手紙の中には別れの言葉が綴られているのかもしれないと思う。惑う手に焦れたのか、佳野は無理やりにでも志野に手紙を握らせた。
「もう、お姉さまらしくもない。早くお読みなさいな」
「佳野…」
「私はこれをお姉さまへと託されたのです。本来私が持つものでもありません。それに、気になるのでしょう…?お早くお読みください」
手にした手紙はとても簡素だった。一昔前であれば、短冊だけでも事足りていたのかもしれない。それ程薄くて、頼りなかった。そこら辺の紙問屋で買い求められたのだろうそれは、肌触りもいいとは言えない。
意を決して、志野はその手紙を開いた。糊付けさえされていないそれは、簡単に開く。
そして中に入っていた便りは、更に簡素だった。
『工房に、貴女への贈り物がります』
西洋の羽ペンで書かれた文字は、日本の紙の質に合い辛いのか、ところどころ滲んでいる。その一文のみがすらりと紙の中央に書かれているだけだった。
「あの人…日本語が書けるのね」
短すぎる文に思わず呆気にとられ、ついそんな言葉が口からこぼれた。
「あら、なんて書いてあったのかしら?愛のお言葉?」
横から佳野が口をはさむ。しかし、勿論そんな甘いものではない。むしろ業務連絡だ。それでもあの人がこの紙に触れたのだ、文字を書いたのだと思うと、自ずと手は愛しげに紙を撫でているのだ。そして意を決して、手紙を夜着の袂にたくし込んだ。
「…お姉さま?」
「出かけるわ」
「え?」
「裏口なら開いているかしら」
「それは…内鍵ですもの。開けるくらいなら…でも、お姉さま。いくら何でも危のうございます、夜なのに外に出るなんて…」
「曇っているから、そこまで明るく照らされはしないでしょう。悪人に見つからなければ、悪人は私に無体なことなど出来やしないわ」
それに私、街中に行くのではないもの。志野が衣装箪笥を開けながら言えば、佳野は慌てて志野の夜着の袖を引く。
「そんなの屁理屈よ」
「屁理屈だろうがなんだろうが、構わないのよ!」
叫んで志野は夜着の帯を解いた。衣装が収められている戸棚に向かい、たとう紙に包まれた着物を取り出す。今では洋装の方が楽だが、いささか目立つため、この地味な絣の単衣を着ることにする。
「佳野、お願い。必ず一刻で戻るから。行かせて頂戴」
「お父様やお母様、中村に見つかったらどうするの」
「お叱りは受けます。もう、受けているもの。もう一回くらい増えても変わらないわ」
「お姉さまが暴漢に襲われたらどうするの」
「巾着に文鎮を二つ三つ入れて行きましょう」
それでも駄目ならその時はその時よ、と志野は帯を締めた。何故か、今行かないといけないような気がした。明日朝までなど待てるはずもない。今夜行かなければ、きっと後悔する。
そんな想いを朔之助の手紙が駆り立てている。
文机の引き出しをあけて、目についた文鎮やら先のとがった万年筆やらを巾着に放り込む。
本当にそれで暴漢を殴りつける気かと佳野は目を丸くした。勿論、志野は本気だった。その瞳を見て、佳野は諦めるように息をついた。
「…一刻ね。それでお姉さまが戻らなければ、従僕にでも言って見に行ってもらうようにしますからね」
「ええ。それでいいわ。佳野、ありがとう」
「まさかお姉さまが恋に溺れるなんて、思いもよらなかったわ」
「…それは私もよ」
そう言うと、早速志野は巾着を持って窓に向かう。滑車付の窓を上に上げれば、雨上りのしっとりした匂いが部屋の中に入り込む。屋敷の裏口を使おうと思ったが、台所に通じているため見つかる可能性が高い。
正面玄関など以ての外だ。志野が何をしようとしているのか感づいた佳野は、慌てて姉を引きとめた。
「もう!何もお二階から出ることないでしょう!ちょっとは冷静になってください、一階から行けばいいでしょうに」
一階の図書室辺りなら人目はないと説いて志野を思い留まらせる。「そうね」といきり立った己を恥じるように、割れた単衣の裾を直した。二人してこそこそ廊下を進み、階段を下り、また廊下の奥まで進めば、あまり人に使われていない書庫がある。志野の祖父が江戸の頃より貯めていた書物が収められている。
祖父亡きあとは書庫のまま人が入ることは少なくなった。
扉を開けると埃が宙を舞う。湿気に目をしかめつつ部屋の奥に向かうと窓にはカーテンが引かれていた。開けられることのない窓を開くことに苦心はしたが、何とか二人がかりで成し遂げることができた。
「佳野。もういいから部屋に戻りなさい。見つかると貴女まで軟禁生活よ?」
窓枠を跨ぎながらそう言うと、佳野は「もう片足突っ込んでいるのよ、最後まで付き合います」と勇ましい言葉が返ってきた。早く行けと手まで振られる。「待っている」と。
危なっかしく芝生に足を下ろし、志野は割れた裾をもとに戻した。
佳野の言葉を背に志野は暗闇の中道を行く。月の光も少ない、提灯さえもない、行く道のこれが始まりであった。
***
曇りがちな夜は、思っていたよりも暗い。普段のランプの灯りに慣れているからか。近頃が瓦斯灯も増えたが、この川べりの道にはそのようなものはない。時折風に雲が流されて月が顔を出すと、一瞬だけ周りも明るくなる。夜中にこんな道を歩く人はいない。いるとすれば盗人くらいか。
闇の中には川のせせらぎしか聞こえない。出来るだけ足音を立てずに志野は先を急いだ。
幸いなことに家人にも不審な人にも見咎められることなく、見知った景色に辿り着くことが出来た。この頃になれば薄闇にも目が慣れ、河原の工房の姿もすぐに見つけられた。
ここまで来れば足音も何も関係ない。足は自ずと早くなり息は上がり、胸の鼓動は否応なしに高まった。
もしかしたら、と思うことを志野は止められなかった。朔之助がいるのではないか、と。
けれど思い切って扉を開けてみても、やはり中に人の気配はなかった。あんなに雑然としていた工房はがらんとしている。もう本当に、彼はいないのだと思い知らされた。
思わず志野は、胸を弾ませたまま膝をつきそうになった。
(…居る訳がないのに…)
今まで張りつめていた何かが崩れそうになる。喉元に苦しげな嗚咽がせり上がった時、ふと視界の隅に見慣れた木枠があるのをみとめた。そう、彼が絵を描く時、あの木枠に画板を立てかけていた。
がらんとした空間の中、木枠――たしか、『イーゼル』と言っていた――だけが取り残されている。不自然に、窓の方を向いてた。
志野の足はゆるゆると木枠に引きつけられた。あんなに急いでいたのに、もどかしい程に時間がかかる。
見るのが怖かった。けれど、志野はそれを見なければならなかった。
その木枠には、絵が立てかけてあった。傍の木椅子の上には小ぶりなランプもある。朔之助は、絵が見えにくい夜に志野が来ることを予想していたようだった。思わず苦笑して、有難くランプをつける。
正面に回り込むと、志野の目に絵が映った。
「…これ…」
目に飛び込んできたものは、一面の藍。そして、真ん中にぽかりと浮かぶもの。
「月…?」
黄金の円は、今宵は見えない月。それは、とてつもなく大きいものだった。森の中なのか、緑や芝も見える。そしてその月の下にたたずむ影。
飲み込まれそうな月の下、その人は毅然とこちらを見上げている。女性だということが分かる。
なぜなら、志野もよく目にする夜会服をまとっているのだから。
(この服、どこかで…)
そう、志野には見覚えがあった。夜闇に映える薄紅は、あの真夏の夜の夜会で志野が森川邸に着て行ったものだ。そこで、朔之助の姿を探した…
「これ、私なのね…」
あの夜の、志野だった。彼の目にはこんな風に映っていたのだ。それを知る、と同時に志野はとうとう床に膝をついてしまった。見上げるように絵を見る。
木枠には小さな紙片も添えられていた。"月に沈む"――と。
絵の題なのだろうか。つい感傷的になってしまい、それに手を伸ばす。この月の光に沈みこんで、何もかも忘れてしまいたかった。けれど、絵の中の毅然な志野はきっと、それを許さない。
光の中背筋を伸ばして立つ、それが彼の中の志野なのだ。
ランプの灯りに紙片を照らせば、ふと裏にも何か文字が綴られていることが透けて見えた。
「…?」
裏を返すとそこには、流麗な大和詞があった。
"ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 我は忘れず 間なくし思へば"
「…あの夜の月を今日も、忘れられない。ずっと…貴女のことを…思っている、から…」
その『うた』は、遥か古の恋歌だ。それも、女から男へと送ったもの。どこか間の抜けた選択肢に、彼らしさを感じる。
そして、あの夜――志野が勇気を振り絞って朔之助を探した夜――を、彼も思っていたのだ。志野を、想っていたのだ。そして絵を描いたのだ。
円い月がなぜか滲む。己が泣いているのだと気付いたのは、随分経ってからだった。頬に伝うそれをぬぐいもせず、ただひたすらに月の中に立つ自分を眺めた。
そして、ふと苦笑を漏らす。
「私、こんなに強くないわ」
こんなにまっすぐ立てない。今の自分には、何かの支えなしには、あっという間に頽れてしまいそうだ。けれど同時に、この絵の中の女のようになりたいとも、思う。そうだ、この絵の女は、志野の希望だ。朔之助は志野に希望を託していった。
「こんなんじゃ、とても忘れられやしない…」
こんなものを残されたら、志野は朔之助を待たねばならないではないか――否。
すっくと志野は立ち上がった。外は上弦の月の薄闇。
けれど、志野の月は目の前にある。志野の目には、もう涙は浮かんでいなかった。
頬にわずかに残るそれをぐいと擦り、小さな絵を持ち上げた。
既に、意は決していた。