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月に沈む  作者:
第一部
1/29


月明り

見れば朧に舟の中

粋な爪弾き水調子

思い合うたる首尾の松


―俗曲「月明り」より


***



立てば芍薬

座れば牡丹

歩く姿は百合の花


高等女学校での志野しのの評判は、まさにそれだった。先輩のお姉さま方からは可愛がられ、後輩の女生徒には慕われ。何をやらせてもずば抜けていて、それでいて立ち振る舞いは楚々とし、気立ても良い。

これで皆から好かれない方が可笑しいというものだ。


加えて、彼女の生家もここら一体では有名である。実家の父は華族の当主、母は社交界の中心的存在、その二人の間に生まれたのが、志野と佳野かのの姉妹。

母の美貌を姉妹共に受け継いではいるが、おしとやかな志野とは正反対に、妹の佳野は底抜けに明るい女の子だ。少々我儘な妹にも、姉の志野は優しく、それがまた彼女の評判を良くしていた。


『瀬澤家のお嬢さんを嫁に迎える男は、さぞかし鼻が高かろう』


見合い話は日々舞いこみ、そんな噂は人々の間で囁かれていた。


「あぁもう、誰があんなひ弱眼鏡と結婚なんかするもんですか!」


――そう、彼女のこの本性を知らない者は。



『お姉さま、その困った二重人格、ばれた時が怖いですよ?』

妹の佳野はそう心配してよく声を掛けてくれるが。家でも完璧、学校でも完璧でい続けてしまえば、息が詰まる。志野にはこの鬱憤を晴らす拠り所が必要だった。その結果がこの裏表のある性格なだけで。

志野自身は、誰にも迷惑などかけていないから構わないという持論である。


楚々としておしとやか、と評判の彼女にはあり得ない歩き方で、学校帰りに隅田川沿いの道を闊歩する。

勿論、人の目は気にはする。自分の評判が直接家の評判にも繋がることは、志野も十分分かっているから。

周囲によく気を配りながら、手に持った風呂敷包みをぶんぶんと振り回していた。

――今のところ、この彼女の性格を知るのは妹の佳野のみである。


***


明治も三十年代になれば、一際騒がしかった文明開化の波もようやく落ち着いていた。先の清との戦で大勝した大日本帝国は、列強の仲間入りを果たし、景気も上向きだ。そのおかげで、志野の家庭も安定した暮らしを送れている。

良家の子女のたしなみとして、一級の高等女学校にも通わせてもらってもいる。人生好調、これで見合い話さえ毎日のように舞い込んでこなければもっといいのに、と思いながら志野は河原に咲く桜を愛でながら歩を進めた。

薄桃色の小袖に、深藍の袴、今流行りの西洋のブーツ。小気味良い足音を立てながら、気持ちの良い日和の元を歩く。

なのに、昨日母から見せられたお見合い写真――志野の言う、『ひ弱眼鏡』だ――のせいで、どこか心は晴れない。


(こんなに桜も綺麗で、やっかいなお目付け役も今日はいないのに)


普段ならお目付け役兼執事の中村と一緒に帰るのだが、「今日は学友の泉美さんからお茶に誘われたの」という真っ赤な嘘で久々に一人の時間を掴み取った。こうでもしなければ、志野が誰の目にも構わず裏の顔を晒すことは出来ない。


幸いなことに、この界隈には学校関係の者には出くわす可能性も少ないので、志野は存分に鼻歌を歌いながら風呂敷包みを振り回していた。

けれど、もう少しで道を曲がるという所で河原の土手に人影を認めた。花見の盛りは過ぎていたので、花見客ではないだろう。慌てて志野は居住まいを正し、目を細めてその人物をじっくりと見やった。


ざんぎりの頭、外に出るというのになんだかくたびれたシャツとズボン。それでも、皮の靴だけは綺麗に磨かれていて、日の光を反射している。段々近づいてくると、何やら白くて大きい四角のものを持って座り込んでいるのに気付く。


(――…あ)


つい吸い寄せられるように、志野は足を止めた。そして数瞬考えた後に土手を下り、その人の下へと歩いていった。真白く、四角い大きなものは、画用紙が束になったものだった。その画用紙に向かう人は、わき目も振らず一心に鉛筆でがりがりと描きたてている。後ろから近づいていって、覗く志野にもまったく気づかない程に。


志野も、何も悪気があったわけではない。ちょっとした好奇心。自分の家にも絵画は多数あるが、それを描く過程を志野は見たことがなかった。

純粋な興味があった。後ろから覗き込むと、そこに描かれていたものに志野は目を見張った。


「わぁ。綺麗な桜ですね」

「――…っ!!」


その人は、そこにある桜の木に背を向けながら、分厚い画用紙からはみ出るほどの立派な桜の木を描いていた。一見して、この河原に植わる桜の木々ではないことが分かる。どこか別の場所なのか。たった一本の鉛筆で描かれたそれは、志野の視線を奪うのに十分だった。


「…あの」


そこでようやく、それを描いた本人に目が行く。唐突に声を掛けられ、ひどく驚いたのか口がぽかんと開けられたままだった。シャツにズボン、磨かれた靴を身にまとっている。そして髪の毛は茶色くふわふわしていて、目も漆黒ではなく焦げ茶だ。


「あら、あなた西洋の御方?」


別段何も思わず志野が声を掛けると、その人はおっかなびっくりといった感じで、志野に向き直った。正面から見ると、体つきがしっかりしている男の人だと分かる。男の人といっても、少年ではない。二十代はいっているのではないだろうか。けれど、その容姿は日本人離れしていて、どこか女性めいて見える。

柔和な顔立ちだし、髪の毛はそこらの紳士のように油で撫で付けていないし。


「…いえ」


男は否定の言葉を口にした。


「あら、日本の方?」

「半分半分…です」


半分――混血なのだろう。それなら髪や目の色が違うことにも納得がいく。ふぅん、と志野は特段気にせず頷いて「見せて」と徐に言った。


「はい?」

「だから、それ。見せていただけないかしら?」


それ、と指差すのは青年が手にしている、画用紙の束。まだぽかんとしている青年に、志野はずいっと近寄った。


「あなた、絵を描く方なのでしょう?」

「はあ…まあ、そうです」

「そこには絵が描いてあるのでしょう?」

「え…ええ、ただのデッサンですけど」


そのデッサンが何であるかは、志野にとってどうでもいい。ただ、「見せて」と手を差し出した。少しだけ困った顔をしながら、青年は右手に持っていた画用紙の束を志野に渡す。

「下手糞ですよ」という少々照れの混じった声は無視だ。というか、反応できなかった。


一頁目から、彼の描く絵に目を奪われていたのだ。複数の線で描かれている物の一つ一つは、主に植物や静物だった。たまに、昼寝をしている子猫やお尻を向けて尻尾を振っている犬。最後の頁には、先ほどから描いていたのであろう、桜の木。


どれも素晴らしいが、この絵はとりわけいい。下から見上げた角度の大きな木は、頭上からひらひらと淡い花びらを落としている。ふと視線を感じて画用紙から目を上げると、じっと青年に見つめられている。

一心に絵を眺める志野を、一心に眺める青年。目が合うと、ふと笑みを零された。


「気に入っていただけたのですか?」


不意にどきりとさせられ、志野は慌ててもう一度視線を絵に落とした。


「…っええ。とても」


綺麗ね、と言って志野ははっとした。学校で使うような口調を使っていない自分に気づく。いつもなら、知らない人がいれば、こういう時は「綺麗ですわね」と纏めるところなのに。絵に引きずりだされてしまったかのように、偽らない口調になった。

それだけ、どこか無心になっていた。

志野はああ、と溜息をつきながら「…鉛筆一本で描かれているなんて、信じられませんわ」と、言い直す。

逆に白々しくなってしまって、とことん落ち込む結果になったが。すると、頭上で「あはは」と陽気な笑い声が聞こえてきた。


一気に形勢逆転。さっきまで、青年の方が気まずそうにしていたのに。今や、志野の方が立ち去りたくてたまらなくなってしまった。青年は唇に笑みを浮かべたままで口を開いた。


「お名前は?」

「は?」

「お名前ですよ、あなたのお名前」


二回繰り返されれば、馬鹿にされたような気分になってくる。志野は引きつる頬を何とか宥めながら、青年に画用紙の束をつき返した。


「申し訳ありませんが、見知らぬ殿方に名乗るような躾はされておりませんの」

「その見知らぬ殿方に勝手に寄って来たのは君のほうじゃないか」


返されて、ぐっと詰まる。彼は何も間違ったことは言っていない。ただ、自分の迂闊さを志野は呪った。落ち着かなきゃ、と志野は自分に言い聞かせて、ふっと息を吐き出した。


瀬澤道恒せざわみちつねの長女の、志野と申します」

「志野嬢。僕は森川朔之助もりかわさくのすけです」

「森川様」


呟くように言うと、目の前の朔之助は今度はうーんと首を傾げた。


「どうも…違和感」

「はい?」


ううん、と首を傾げて青年――朔之助はぐるりと志野の周りを一周した。


「あの…何なの」

「いや、違和感が」

「違和感?」

「ううん。いや、何か。志野嬢は生き辛そうだな、と」


徐に朔之助はそう言い放つと、呆気に取られている志野をじっくり見つめた。女学校に通っているから、異性とそれ程話すわけではない。父の知り合いのおじ様連中とは、よくあるけれど世間話程度してこなしてこなかった。

志野もじろじろと訝しげに朔之助を眺めた。つい、眉をしかめて。ここはぽっと頬を染めて目を背ける、という場面だということもすっぽ抜けていた。

そんな志野を見て、朔之助は「ああ、それだ」とまたいきなり笑いだした。この人、どこか頭でもおかしいんだろうか、と思い始めた時。

徐に朔之助はにこりと綺麗に笑った。


「そうしていた方が、君らしい気がする。おしとやかで、おとなしそうな君は、なんだか似合わないよ」


ぽかん、と志野は口を開けた。

何を言ってるのだ、この男は。綺麗な顔立ちをしておいて、言いだすことは無茶苦茶だ。志野が必死で作り上げてきたこの十七年間を、真っ向から否定したも同然。おしとやかで大人しい志野は違和感があって、佳野しか知らない裏の顔の方が似合っている、と。


「な、なにを…」


あまりにもあっけに取られて、思わず我を忘れそうになった。しかし、きょとんとしている朔之助を見て、一気に気が抜ける。なぜか、見てると真面目に怒る気も失せてくる。画用紙の束を片手に、数本の鉛筆は地面に

転がしたまま。てろてろしたシャツにズボンを穿いて、靴だけは異様に綺麗。茶色のふわふわした髪に、同じく茶色の瞳。

不思議なこの男は、不思議なことばかり口にする。

一目で、志野の表の性格を取り去ってしまったのだ。はあ、と溜息をついて志野は視線を落とし、手に持ったままの風呂敷包みを弄くり出した。


「志野嬢?」


上から聞こえてくる朔之助の呑気な声も、志野の気を抜く材料にしかならない。顔を見ても余計に無力感に襲われるだけだと、志野は足元を見やった。見れば、ブーツのつま先が砂のせいでくすんで見える。帰ったら中村に不振に思われるかしら、と思ったところではっと志野は気付いた。

こんなところで油を売っている時間はない。よく知らない異性と二人っきりでいるなんて場面を、誰かに見られたら…!

噂どころでは済まない。志野の父の、雷が落ちて家に閉じ込められてしまうだろう。


(ああ、そんなことになったらお先真っ暗だわ…!)


そうとなれば、もうここに居る意味はない。ばっと顔を上げ、朔之助に満面の笑みを見せた。


「森川様、申し訳ありませんけれど、もうお暇しますわ。大切な時間を潰してしまってごめんなさい」

「はぁ」


朔之助が不自然だと言った笑顔で、志野は綺麗に一礼した。いまだにきょとんとしている朔之助に一瞥を送ると、踵を返して元来た道へと戻る。

草を踏み分ける時に飛蝗ばったが飛び交うが、志野はこんなことに悲鳴を上げるような性格ではない。

とりあえず、ここを離れようとただ志野は足を前へと動かした。この道を通る時は気をつけよう、と肝に銘じながら。またしても風呂敷包みをぶんぶんと振り回して。


土で固められた道に戻った時、後ろから豪快な笑い声が聞こえてきた。愉快そうに、「あっはっはっは!」と。

そして。


「――志野嬢!」


その声のまま、嬉しそうに志野の名前を呼んだ。誰かに見られる前にここを離れようとした志野の努力など、まるで知らんふりだ。これには志野も振り返らずにはいられない。


「ちょ…あなた!やめてちょうだい!」


思わず素のままの表情で志野は眉を吊り上げた。草地に画用紙の束を抱えて立ったまま、朔之助は左手を上げた。少年のような笑顔で、ぶんぶんと手を振る。


「また、会いに来て下さいよ!」


河原に響き渡る、朗々とした、その笑顔とは似合わない声。志野は頬が熱くなるのを感じながら、「来ないわよ!」と大声で言い返した。

誰かに見られるかもしれないなんて、その時は頭の中には無かった。不思議な絵描きの青年に振り回されているようでならない。

ふん、とそっぽを向いて歩き始めると、またしても名前を呼ばれた。


「志野嬢!」

「何よもう!五月蝿いわね!」

「また次に逢った時には、絵に描いて差し上げましょう!」


それが、瀬澤志野と森川朔之助の出会いだった。



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