漂流者
その日は天気もよく、海は穏やかだった。
いい具合の風が吹き、ブラック・キャット号はゆっくりながらも海面をすべっている。現在のところ、航海は順調だ。
船上の仲間達はそれぞれの場所で思い思いにくつろぎ、船長の狼牙もまた何とはなしに海を眺めていた。
そんな狼牙の目に、何かが海を漂っているのが映る。単なる流木ではなさそうだ。
「あれは……人間、か?」
目は悪くないが、さすがに遠くてその形を明確に判断できない。
それでも、波間に見え隠れしていたそれは次第にキャット号へと近付き、やがてその姿がわかるようになる。
思った通り、人間だ。流木にしがみつくようにして漂っている。
ただし、生きているか死んでいるか、船の上からではわからない。顔を伏せているので性別もはっきりしないが、小柄な人間であることは推測できた。
自分に近付きつつある船の方を見ようとしないのは、意識がないのか。もしくは、首さえも動かせない程に弱っているのか。
死んでいれば木からすべり落ちそうなものだが、余程うまく引っ掛かっているのかも知れない。
「レット、あれを拾えるか」
狼牙は、海に糸を垂らしていたレットに声をかけた。
濃い茶色の短い髪がタワシだの熟れたイガグリだのとからかわれたりするが、れっきとした魔法剣士の青年である。
「拾うって何をだよ。お宝の箱でも流れてきたか?」
レットは別方向を眺めながら釣りをしていたので、狼牙が見付けた人間には気付かなかったらしい。言われた方向を見て、目を見開く。
「おいおい、ちょっと待てよ。こんな所で水死体なんて拾う気か」
「まだ死んでいるとは決まってない」
確かに、ここからでは何とも言えない。もし生きていたら、見殺しにしてしまうかも知れないのだ。
「そりゃそうだろうけど、釣り糸じゃ無理だろ」
「確かにな」
「俺に言わねぇで、自分で引き上げろよ。その方が早いだろ」
「状況がわからないうちに魔法を使うのは危険だ」
狼牙は魔法使いである。その気になれば、目標物を浮かせることくらい簡単だ。
しかし、相手は海の中。どういう事情で海に浮いているかわからない以上、安易に魔法を使い、かろうじて生きていた人間にとどめを刺すような危険は冒せない。
「ハッチから引き上げるしかないか」
「おう。その方が絶対早いぞ」
ボートで海へ出る時に使う出入口からなら、引き上げることができるはず。船から多少離れてしまっても、波を操作してこちらへ流れるようにすればいい。
それくらいの魔法なら、漂流者が生きていたとしても大きな影響はないだろう。
「どうしたの?」
狼牙達が連れ立って歩くのを見付けた女性が、二人の後を追って来る。
長く、少しくせのある赤毛をポニーテイルにしている彼女も、腕のいい魔法使いだ。名前はチェロルという。
「人間が漂流してんだ。生きてるかどうかはまだわかんねぇけど、このまま放っておけねぇだろ」
レットは、狼牙が見付けた、と付け加えた。
「狼牙、本当に人間なの? 実は人魚か海の魔物で、あたし達を騙そうとしてるんじゃないでしょうね」
「足は見えなかったが、どちらにしろ確認する必要はある」
何か仕掛けてこようと言うなら、返り討ちにするだけ。魔物だったとしても、この船を狙ったのが運の尽きだ。
そんな短い会話の間に、彼らは船底まで来る。レットがハッチを開けた。
「お、すぐそこまで流れて来てるようだぞ」
潮の流れも手伝い、漂流者はいい具合にハッチのすぐそばまで来ていた。
レットが流木の端を掴み、そのまま船の中へと引っ張り込む。漂流者が船内へ入ると、狼牙も手伝って床へと引き上げた。
「女だな」
先に漂流者の顔を見たレットがつぶやく。
「ねぇ、生きてるの? 真っ青よ」
引き上げられたのは、十三、四歳くらいであろう少女だった。
肩より少し長い黒髪が頬や額にへばりつき、髪の黒さと対照的に肌は白い。と言うより、青ざめている。かなりの長時間を漂流していたのだろうか。
「俺が診る」
狼牙が進み出て、少女のそばにしゃがんだ。
彼は医術の心得がある。この船の船長であり、船医も兼ねているのだ。
少女の肌は冷え切って冷たかったが、首筋に触れると確かに脈があった。
「まだ生きてる。大きな外傷はなさそうだが、このままだと体温が下がる一方だ。医療室へ連れて行く」
狼牙は服が濡れるのも構わず、少女を抱き上げた。そのまま上へ向かう。
「俺達、おかしな拾いモンしてねぇよなぁ」
不安そうにつぶやきながら、レットはハッチを閉めた。
「あの子、どこから流れて来たのかしら。ここ数日、この辺りに嵐は来てなかったはずだけど」
チェロルの言葉に、レットは黙って狼牙が向かった先を見たのだった。
☆☆☆
この船にはもう一人、翠嵐という女性の魔法使いが乗っている。長いプラチナブロンドにアイスブルーの瞳を持つ美人だ。
彼女とチェロルが手伝い、少女を乾いた服に着替えさせる。
手や足など、擦り傷や切り傷があったが、どれも消毒しておけばいい程度の軽いもの。
それらを狼牙が手早く済ませ、その後で少女に聴診器をあてた。
横でその様子を、十歳くらいに見える少年が見詰めている。
人間のように見えるが、実は魔獣だ。本性は黒ねこで、狼牙に使役される形でそばにいる。
出会った当初は名前がなく、黒ねこなのに、狼牙は白と命名した。名付けられた時は「なんで?」と思ったが、今は意味より音が気に入っている。
出会ってからおよそ十年。一緒にいて狼牙のすることを見ているためか、白はその辺りにいる人間より余程しっかりとケガの治療などができるようになった。
今も少女の手当てをする狼牙を手伝い、待機している状態である。
「……こんなことは初めてだ」
「初めて?」
狼牙のつぶやきに、白が聞き返した。
「どこも悪くないんだ。心臓の音もしっかりしているし、冷たかった身体も着替えてから正常になってきてる。水も飲んでいないようだし、肺からおかしな音も聞こえない。普通ならただ寝ているだけのようなものなのに……ひどく具合が悪い」
「ちょっと、狼牙。何なのよ、それ。どこも悪くないのに、具合が悪いなんて」
狼牙の診断に、チェロルから当然の疑問が出た。
「手はさっきより温かくなっているみたいね。だけど、確かに顔色はよくないわ」
翠嵐が少女の手に触れ、その体温を確かめる。
「なぁ、女の子を拾ったって?」
「溺れてたのか? 具合はどうなんだ?」
小柄な少年と、対照的に上背も厚みもある男が医療室へ入って来た。
「もっと静かに入って来なさいっ。病人がいるのよ」
そのチェロルの声も、静かとは言いがたい……。
赤地に紺の魚が泳ぐ模様のバンダナを頭に巻いている、小柄な少年の方はコウ。くりっとした黒目のせいか幼く見られがちだが、これでも二十歳だ。
コウの倍近く身長がありそうな男は、バルコーン。この船では最年長の三十歳だ。ガタイも、この船の中で一番大きい。
「でも、まぁ……病人と言っていいのかも疑問ね。狼牙の診断だと」
「あ? 病人じゃないなら、元気なのか?」
「お、なかなかかわいい子じゃないか。二、三年後が楽しみだ。どうしてこんな子が漂流なんて」
そんな会話の横で、狼牙が少女の顔や首、手などを調べ出す。
「おい、何か見えないか」
狼牙の言葉に、部屋にいた全員が少女に注目する。狼牙がわかりやすくするため、少女の手を少し持ち上げた。
「何か光っているみたいね。……糸、かしら」
翠嵐が言い、仲間達も目をこらす。
そう言われて見ると、少女の手首から光る細い糸が出ているようにも思えた。手首から伸びた糸は、宙で次第に見えなくなる。
不思議なのは、糸が見えているのに触ろうとしても触れないことだ。
「具合の悪さは、これと関係しているのかも知れない。これの先がどこにつながっているか、が問題だな」
「これにエネルギーを吸い取られてるのかな。でも、衰弱はしてないようだし……」
白が糸を捕まえようとする仕種は、ねこが遊んでいるようにも見える。
狼牙が調べようにも、糸に触れることすらできないのだからどうしようもない。医者にわからないのだから、他の仲間も手の出しようがなかった。
いや、これは医者の領分ではなさそうな状態、と思われる。
さて、これからどうするか、と考え始めた矢先。少女のまぶたが動いた。
黒く濡れた瞳が現れる。だが、意識はまだぼんやりしているようで、その目は焦点が定まっていない。
「なぁ、気分は悪くねぇか?」
白の声に反応し、少女はゆっくりと首だけそちらへ向けた。何度かまばたきを静かに繰り返すうちに、意識がはっきりしてきたようだ。
もっとも、覚醒したのは別の理由である。
「白、耳が出てるわ」
翠嵐に言われ、白は自分の頭を触る。三角の黒い耳がぴょこっと出ていた。
人間の姿をしている時は今のような子どもの姿だったり、少年だったりするのだが、気を抜くとねこの耳やヒゲが姿を現してしまうことがある。
少女の表情がぼんやりしたものからはっきりしたものに変わったのは、白の耳を見て驚いたせいだ。
「びっくりさせたんなら、ごめん。気にすんな」
「いや、するだろ、普通」
バルコーンが小さく突っ込む。
「ここ、は……?」
とりあえず、白の耳問題は横においたらしく、少女は疑問を口にした。
「おれ達の船の中だ。狼牙が漂流してるお前を見付けて、海から引き上げたんだ」
白が簡潔に説明する。
「海……あたしは……」
少女は何か言いかけて、だが途切れる。
「なぁ。お前、名前は何て言うんだ? おれはコウ。これが狼牙で、こっちがチェロルと翠嵐。このでかいのがバルコーンで、ちっちゃいのが白だ」
「ちょっと、コウ。いきなりそういう紹介したって、すぐに覚えられる訳ないでしょ。彼女、目を覚ましたばっかりなのよ」
チェロルに言われ、コウも少し反省。
「あ、そっか。じゃ、今のは忘れてくれ」
「忘れる必要はねぇだろ」
横で聞いていたバルコーンは、あきれるばかりだ。
「あなた、名前は言える? 私は翠嵐」
翠嵐が穏やかな声で尋ねた。
「……ミオイ」
「ミオイね。あなた、どうして海にいたか、覚えているかしら」
口調こそ穏やかだが、結構単刀直入な質問である。
ミオイはしばらく翠嵐の顔を見ていた。だが、その視線は翠嵐のはるか後ろを見ているようでもある。
「わからない……。あたし、海にいたの?」
「ええ。さっき白も言ったけれど、そこにいる狼牙があなたを見付けたの。木に掴まって、海を漂っていたのよ」
翠嵐に言われて、ミオイは白の隣に立っている狼牙を見た。狼牙は何も言わず、ミオイを見下ろしている。
「この辺りでは、船が難破する程に強い嵐は来てないはずなのよね。まぁ、難破する原因が、嵐だけとは限らないけど」
乗っていた船が海賊に襲われ……というのはよくあること。
だが、せっかく意識が戻った少女を怖がらせないよう、チェロルはあえて「海賊が原因では」という推測は口にしないでおいた。
「他に覚えていることはないのか」
狼牙が尋ねた。彼にその気がなくても、その表情を見ていると尋問されてるような気にさせてしまいそうだ。
実際、勝手に怖がって聞いてもいないことをしゃべる人間は、今までに何人もいた。
しかし、ミオイは怖がるふうでもなく、首を小さく横に振る。
「名前以外、出て来ない」
「きっと、何かのショックで記憶が飛んでるんだ。しばらく様子をみないとな。無理したって記憶が戻るとは限らないし。ここで養生すればいいよ。な、みんな?」
「おう。この船は一人や二人や三人くらい増えても、どうってことないからな」
白の言葉に、コウがにっと歯を見せて笑う。
それにつられ、ミオイも少し笑みを浮かべた。