2話 目覚め
目が覚めると、薄暗い部屋にいた。
窓も電灯らしきものもなく、ぼんやりと光を放つ、壁に着けられたいくつかの燭台のような装置しか光源を持たない、薄暗く埃っぽい部屋だ。
その部屋のベッドに横たわっていたらしい俺は、寝ぼけたときのように重い瞼を開き、同じく重い思考をそれでも何とか巡らせる。
「…ここは、どこだ?」
俺は病院で死んだと思っていたが、あの後助かったのか?
そういえば、碌に動かなかった体がまともに動くようになっている。試しに起き上がり、立ち上がって腕を振る。鉛のように重かったあの腕を、今では軽々と振り回せていることに感動を覚える。
それだけじゃない。病気の時に感じていたあの大きな脅威への感覚が消え去っている。そればかりか、幼いころに感じた死への感覚すらなくなっている。病気が治ったことで、死が遠のいたせいだろうか?俺の寿命はまだまだあるということだろうか。
湧き上がる感動をよそに、今度は困惑が湧き上がってくる。
どう考えても病室ではない。窓もない石づくりの部屋は、ここが地下室ではないかという考えを起こさせた。誰かに運び込まれた、と考えるのが妥当だろうか。自力では立ち上がる事すらできなかった俺が病室から場所を移すとしたらそれしかない。
ひとまずここがどこなのか確かめる必要がある。病気の治癒といい、自分には今明らかに普通でないことが起きていることがわかる。それでも落ち着いていられるのは、この部屋に脅威を感じないからだ。日常生活において大きく役にたったことは数えるほどしかないこの第六感だが、ことここにおいてはこれほどありがたい存在もない。
部屋を見渡せば、すぐに扉が目に入った。とりあえずここを出ないことには始まらない。
混乱の中、まとまらない思考で自分を納得させながら、俺は扉を開けた。
◇
扉を開けると、そこには上に続く階段が現れた。石づくりのその階段を上ると、外に出られるのであろう、床下収納のような上に開くタイプの扉があった。
迷いなくそれを開ける。外から差し込む光が、ひどく懐かしいもののように思えた。
そこは小さい物置のような部屋だった。木製の棚が壁沿いにズラリと並び、木製の箱や色とりどりの瓶が所狭しと並べられている。床にも可能な限り物を詰め込もうとしたようで、やはり木製の箱が足の踏み場もなくなりそうなほど置かれていた。さらに窓際には何か植物の葉のようなものが天日干しのようにつるされていた。
箱を蹴らないように出口らしき扉に向かい、そこも開けて外に出る。ふと思ったが、あのベッドはどうやって地下室に運び込まれたのだろう。組み立て式のベッドだったりするのだろうか。そうは見えない形状だった気がしたが……。
些細な疑問を頭の隅に押しやり外の景色を確認すると、そこはどうやら何かの店のようだった。先ほどの物置で見たような瓶や草が、お客の手に取りやすいようにきちんと陳列されている。壁には剣のようなものまで掛けられており、まるでゲームに出てくる道具屋のようなその店の印象が非日常を実感させ、俺を興奮させると同時に不安をあおった。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか。」
一見して誰もいないその店内に声をかけるも、やはり返事はなかった。もう一度声をかけるも、やはり応答はない。留守のようだった。
治っていたとはいえ、病人を一人で地下室に寝かせておくのはどうなんだ。俺をここに運び込んだ人物の真意がいよいよわからなくなってきた。
ひとまず、家族に電話したい。状況がまったく飲み込めないが、見張りの一人もいない以上誘拐されたというわけでもなさそうなので、ひとまず家族と連絡を取ることがこの状況の把握に最も確実な道だと考えたのだ。
電話を探して店内をうろついていると、窓が視界に入った。そこで俺はあまりにも衝撃的な光景に直面することになった。
「な……!?これ……俺か……!?」
顔が変わっている。俺は純日本人のはずだが、やや堀が深くなりハーフのような顔立ちになっているし、髪は色こそ黒のままだが以前より太くしっかりとした髪質になっている。
それに何よりも目だ。黒かった瞳は赤というおよそ見たことのない色に染まり、それは驚愕の色を浮かべながらこちらを見返して来ていた。
そして今になって気が付いたが、全身に明らかな変化がある。死地を彷徨うような入院生活によってやせ細っていたはずの体は全体的に筋肉質になり、細マッチョと言って差し支えない引き締まった肉体になっている。
さらに言えば、来ている服もおかしい。入院服なら薄い生地なのは理解できるが、およそ現代的なデザインとは言えない茶色く簡素な服を着ていた。そういえば、下着もあまり履き心地がよくない……。
すでに十分すぎるほどパニックになったと思っていたが。これはあまりに予想していなかった。服はともかく、顔や体の変化は明らかにありえないことだ。
まさか、医者の言っていた臓器移植とは、他人の臓器を弱った臓器に入れ替えることではなく、弱った肉体を諦めて脳だけ別の人間に移植することだったのか!?そんなことが可能なのか?だが俺の貧相な医学的知識ではその程度しか想像できない。その手術が禁止されていて、その手術を行うために、その手術が禁止されていない国に秘密裏に移動させられ、手術が実行されていたとしたら……。
あまりにも荒唐無稽な話だが、目の前の常軌を逸した光景の説明をしようと思えば荒唐無稽になるのもやむなしと言えるだろう。夢では?という疑問は窓を見てからつねり続けて晴れてきた頬から伝わる熱と痛みが否定してくれている。
「……それでも、誰かに連絡を取らないと」
この異常事態に対する現実的な打開策がそれしか浮かばない。とにかく電話を見つけて家族か、なんなら警察に連絡を取らなくては。
◇
電話が見つからない。というか、電化製品が全く見当たらない。
なぜだ?いくらスマホが普及した現代とはいえ、店舗の固定電話がないのは不便すぎやしないだろうか。百歩譲って電話を置いていないにしても、電気を一切使わない生活をしている国などほぼないはずだ。
さらにおかしなことがある。店内の表示やラベルに書いてある文字が、まったく見たことのない文字なのだ。日本語でないのはもちろん、アルファベットでもアラビア文字でもロシアのキリル文字でもなく、全くもって見覚えのない文字だ。
目が覚めてからここまでで、15分か20分くらいだろうか。情報がほとんど増えていない。そればかりか、新たな謎が増えるばかりだ。俺がここに連れてこられた理由、肉体の変化、電気の無い店内、見覚えのない文字。
気持ちの悪いことに、俺の脅威への感覚はこの現状や今いる場所に何の反応も示さない。これだけおかしな状況なのに、差し迫った脅威が存在しないというのは、逆に異質だ。
混乱ここに極まれり。意味が分からなさ過ぎて、だんだん考えるのも嫌になってきた。
「そうだ、外に出よう。たぶん何かわかる!たぶん、きっと、おそらく!」
一切の思考を放棄した俺は、妙なテンションのまま店の外に続く、店の正面入り口であろう空間の扉を勢いよく開き、見知らぬ土地に繰り出したのだった。