プロローグ1:灰色の日常
異世界転移ものですが、少しばかり趣向を変えてみました。
「良い天気ねえ、海斗」
「……そうだな」
「ま、ゆっくりしなさいよ」
「……ああ」
母さんが洗濯物を干しつつ、ゆったりと笑いながら俺に話しかける。それに俺は、ボケッと雲一つ無い空を眺めながら無表情で答えた。
そんな他愛のない、だが少しだけ異質な日常が、今日も橘家の庭にて繰り広げられる。打てども響かなくなった俺の心に、温かいその言葉はゆっくりと染み込んでいく。
それでも、永久凍土のように凍り付いた俺の心を、完全に溶かすには至らない。溶けた氷が自らの心の冷たさに触れ、再び凍ってしまう堂々巡りだった。
……こんなのんびりとした日常が、かつての俺は嫌いだった。平坦で変化の少ない、つまらない時間だとさえ思っていた。
自分の足りない所を見つけては、それに補うために様々な事にチャレンジし、できなかった事ができるようになったことで成長を実感できる。そんな刺激的で起伏に富んだ日々が、かつての俺は好きだった。
でも、いつからだろう。
そうやって頑張る事が億劫になったのは。頑張っても無駄だと、妙に達観してしまうようになったのは。
学部を卒業し、大学院に進学した後だったろうか。
大学院を修了し、そこそこ有名な企業に就職した後だったろうか。
理想と現実の狭間で悩み、心が壊れきってしまう前にと会社を辞めた後だったろうか。
まだ俺は29歳。やり直そうと思えば、十分にやり直せる年齢だ。
……だが、そんな気にならなかった。なって、くれなかった。
石のように固くなってしまった俺の心は、どう問い掛けても『頑張るだけ無駄』『諦めろ』という答えしか返してくれない。頭の中では『俺はまだやれる、できる!』という熱い思いが渦巻いていても、心は極北の大地のように分厚い氷が張っていた。
そして心が動かなければ、体も全く動かない。だから俺は、今日も日がな一日空を眺めてぼんやりと過ごすのだ。
こんなのんびりとした日常が、今の俺は好きである。
◇
今思えば、その出来事は俺の止まってしまった時間を動かす、ゼンマイのようなものだったのかもしれない。
母方の祖父が亡くなった。梅雨明け前の、一番蒸し暑い時期だった。
元々、危なそうだとは思っていた。狭心症、脳梗塞、ガンと大病を次々に患い、病院のベッドで寝たきりになってしまっていたからだ。
それが気にならなかったかといえば、確実にそれは違うと言える。俺がじいちゃんにとっての初孫だった事もあって、すごく可愛がってもらった記憶が確かに俺の中に存在するからだ。
なにせ、かつて勤めていた会社を選んだ理由、その根幹を辿ればじいちゃんとの思い出に行き着くくらいなのだ。そのじいちゃんが寝たきりと聞いて、気にならないはずがない。
……それでも、お見舞いには殆ど行けなかった。俺の親父と、母方の祖母の仲がすこぶる悪かったからだ。それはもう、犬猿の仲という言葉が生易しく感じるくらいに悪かった。
ああ、悔しいな。
じいちゃんが一番苦しかった時に、俺は何もしてあげられなかった。車で片道40分足らずの距離が、こんなにも遠く感じたのは初めてかもしれない。本当に悔しい、悔しい。
そう、頭の中では考えていても……この期に及んで、心はダイヤモンドのようにびくともしない。そして心が動かなければ、表情にも何も表れない。
通夜にはどうにか参列したものの、完全無表情で泣く素振りさえ見せない俺を、親戚一同は遠巻きに気味悪がっていた。
「………」
棺の窓を開け、じいちゃんの顔を見る。その顔はひどく穏やかで―――でも、何かを憂いているようにも見えた。
少しだけ、ほんの少しだけ心が揺れる。自分の瞼がピクリと動いた……が、それだけだった。涙など、一滴すらも出る気配が無い。
「……そういえば、なんだったんだろうな?」
「あら信次さん、どうしたの?」
……と、向こうの方から叔父さんの声が聞こえてきた。なにやら奥さんと話をしているらしい。
叔父さん―――信次さんは母の実家に残り、じいちゃんとばあちゃんの世話をしている人だ。今回の喪主も務めている。一体、何の話をしているのだろうか……?
「いや、病院の人に聞いたんだけどさ。父さんが死ぬ直前に『ら……ぐ……あ……』って、うわ言みたいに言ってたらしいんだよ」
「らぐあ? 晃さんが?」
「ああ」
「何かしらね?」
「俺に分かるわけないじゃん」
「あら、じゃあ私にも分からないわね」
葬儀場の中という事もあって、二人の声量はかなり控えめだ。だが、通夜後で辺りが非常に静かなので、その声は離れた俺の耳にも届いていた。
……その翌日に告別式を終え、じいちゃんは火葬された。火葬炉に入れられるその直前まで、じいちゃんの表情は穏やかな憂いを帯びた表情だった。
◇
「おっ、海斗、姉さん、ちょうど良いところに来てくれた。ちょっと蔵の整理を手伝ってくれんか?」
告別式が終わって、1ヶ月後。
母の実家が落ち着きを取り戻し、月命日の朝に来訪した母さんと俺に叔父さんから掛けられたのは、そんな言葉だった。
時期は夏真っ盛り。各地で最高気温を更新したというニュースが、連日テレビを賑わしていた。
「蔵って、ずっとお父さんが世話してたあの蔵? でも、鍵が掛かってたでしょ?」
「ああ、それなんだけど」
信次さんが、腰からやけにゴツい鍵を取り出した。
「昨日な、蔵の鍵が父さん……いや、爺さんの机から見つかってさ。せっかくだし、中を整理してみようと思ったんだよ。
……まあ、今はちょっと後悔してるんだけどな」
困ったような表情で、信次さんが頬をかいた。
蔵、というのが何を指しているのかは俺にも分かる。じいちゃんの家の裏手にある、かなり年代物の白塗りの建物―――生前、じいちゃんが欠かさず手入れをしていた二階建ての建物のことだ。結構大きくて、母屋と大体同じくらいの面積がある。
ただ不思議な事に、じいちゃんは誰も中へ入れようとはしなかった。俺はもちろん、叔父さんや母さん、ばあちゃんや、じいちゃんの兄弟姉妹でさえもだ。入り口には常にゴツい鍵が掛けられ、固く閉ざされていたのだ。
「海斗もずっと気になってたろ? 中に入ってみたらどうだ?」
「いいんですか?」
「ああ、鍵は開いてるから好きにするといい。なんなら、好きなのを持って帰ってもいいぞ?」
蔵の中に入れると聞いて少し、ほんの少しだけ心が躍る。ガチガチに凝り固まった俺の心が、ほんの僅かに解れた……ような気がした。
「……汚え」
蔵に入ってからの、俺の第一声がそれだった。
……仕方ないだろう。埃がうず高く積もって、あちこちクモの巣だらけではそう言いたくもなる。叔父さんは整理中だと言っていたが、昨日の今日ではまだ入り口近くにしか手を付けられてないみたいだ。
でもまあ、じいちゃんが入院したのは大体1年と1ヶ月前。それからずっとほったらかしにされていたのだから、こうなるのも当然だろう。
叔父さんに渡されたマスクを付け、手で抑えながらひんやりとした蔵の中を進んでいく。俺が一歩踏み出す度、ギシギシと木の床が微かな悲鳴を上げていた。
「………」
一見して年代物と分かる、箪笥、絵画、箱状のもの……それ以外にも見目美しい物が、たくさん置かれている。
審美眼の無い俺でさえ、ここにある品々が相当に良い物だということがよく分かる。じいちゃん、こんな趣味があったのか……。
「……ん?」
と、木製の梯子に目が留まった。天井に空いた穴へ向けて、三メートルぐらいの梯子が真っ直ぐ伸びている。これで二階に上がれるようだ。
昇るつもりは全くないが、試しに梯子へ手を掛けてみる―――
―――バキッ!
「………(スッ)」
―――バキッ!
……掴んだ場所が二ヶ所とも、何とも軽妙な音を立てて折れてしまった。どうやらこの梯子、見た目は問題無さそうだが、内側が腐ってしまってるらしい。
放っとくと危ないし、外しておこう。
―――パタン!
……? あ、天井の穴が閉まった。周りとほとんど見分けが付かなくなってる。
なるほど、蓋ができるようになってるのか。場所だけは軽く覚えておこう。
「さて、と……」
探索を再開する。ここよりも奥は、どうやら壺ゾーンになっているようだ。他の物より、数も種類もかなり多い。
もしかしたら古今東西、世界中のあらゆる壺がここに集まっているのではないだろうか。そう思うくらいには、広いスペースを所狭しと壺が占拠していた。
「……? あれは……」
その中でも、一番奥に置いてあった壺に目が留まる。
かなり大きな茶色の壺だ。高さは俺の胸丈と同じくらいで、口の広さは人がギリギリ通れそうなくらい。側面には雲にも植物にも渦巻きにも見える、不思議な意匠がびっしりと描かれている。
周りに似たような壺が幾つか置かれているが、それらよりもあの壺は格段に大きく、しつらえも遥かに豪奢だった。
「………」
トクン、と心が高鳴った。
自分でも驚くくらい、心が大きく揺れ動いた。
なぜだか、あの壺から一瞬たりとも目を離せなくなった。
近付く足が一歩、二歩、三歩と自然に出る。埃やらクモの巣が絡まってくるが、そんなの知った事じゃない。
壺へはすぐに辿り着いた。
試しに触れてみる。蔵の中はそこそこ暑いのに、その壺はヒンヤリツルツルとしていて、なんとも不思議な触感だった。
―――な……、あ……な…し…………よ、な………よ
……ん? 今、何か聞こえたような……?
―――…んじ、…らたな……ょじし……、…をつげ…
……気のせいじゃないな、これは。まるでイメージの中にある神様のような、厳かな声が聞こえて―――
―――汝、新た…る所持者よ、名…告げよ
今度は、かなりはっきりと聞こえた。
……まさか、この壺が喋ってるのか? いやいや、いくら年代物と言ってもただの壺だぞ、壺が喋るわけが―――
―――汝、新たなる所持者よ、名を告げよ
完全に聞こえた……いや、頭の中に声が響いてきた。もはや意味が分からない。
……けど、なんでだろう。ここで答えを返さなければ、俺は大切な何かを得るチャンスを、永遠に失ってしまうような……そんな予感がした。
「俺の名は海斗、橘海斗だ!」
咄嗟に、自分の名前を叫んだ。大声を出すのは久しぶりなのに、驚くほど大きな声が出た。
―――カイト・タチバナ……継承者の資格有り。貴殿をアキラ・サカイの後継者と認める
えっ? 今、なんて―――
―――『ラグラシア』への転移開始、3、2、1……0
なっ、か、体が壺に吸い込まれて!?
「う、うわあああぁぁぁぁぁ………
……………
………
…