第二話.
「ねぇ、ちょっと、人の話、真面目に聞いてるの?」
春先の心地よい日差しが指す小洒落た喫茶店で、その女性の怒号は響き渡り、周囲の穏やかな日常を一瞬にして張り詰めた空気に変えた。
女性の向かい側には、注文したアイスコーヒー飲み干して、役目の終わったストローをくわえ、それを上下に小気味よく振りながら英雄が座っていた。ただし、視線は窓の外に向けられているが。
傍から見れば、なんともふざけた態度にしか映らない。怒鳴っている女性は、英雄の恋人、小山茉希那であった。
茉希菜は店内の視線を全て集めていたが、そんなことは気にもせず自分の言葉を次々と英雄にぶつけ続けた。
「いい? 別にヒーローって職業を否定するつもりはサラサラないのよ。むしろやりたくない仕事して、死んだような目で日々を生活してるような男なんてまっぴらゴメンだわ。そんなことより、私たち付き合って何年か分かってるの!?」
「5年くらい?」
ふてくされつつも、返事をする英雄。
その瞬間、茉希菜は目をこれでもかというくらいに開き、続ける。
「はいキタ、ナニその「くらい?」って? ナニその最後にクエスチョンマーク、自分が恋人と何年何ヶ月と何日付き合ってるかくらいまで把握できないくらい脳ミソ膿んでるんですか!?」
まるで子供の喧嘩のように捲したてる。しかし、英雄は視線を茉希菜に合わせず無言のままでいた。
「はい出た、ダンマリ。アンタ、いーっつもそう、女に何言われても手を上げたり、逆ギレしたりしないのは立派、でもね、今はそうじゃないでしょう、わ・た・しが質問してるの!」
何故に茉希菜がここまで怒っているのか? 彼女の年齢は二十五歳で、周りの友人たちは次々と結婚をしており、五年以上の付き合いをしている自分たちもそろそろ……と、結婚式に出席する度に思っていた。
しかし、当の相手である英雄がこの通りである。
見た目は大人しく色白で上品そうに見える茉希菜も、のらりくらりと、まともに話をしない英雄に対して、流石に我慢の限界に達していた。
そこまで見た目が良いのであれば、他の男を探せばいいじゃないかとお思いかもしれないが、この二人が出会ったのは、今から十二年前、茉希菜が中学一年生、英雄が中学三年生の頃こと。
茉希菜はその日、クラスメイトに誘われ、剣道部の地区大会を観戦しに行った。そのクラスメイトは別の先輩を目当てに見に来ていたのだが、茉希菜は自分と同じ学校の先輩で、先鋒として出場した英雄の試合を観ていた。華麗に面を打ち込み勝利した姿、終了後に面を外したときの屈託の無い爽やかな笑顔を見て、茉希菜は英雄に対して興味が湧いたのだ。
ただ、この試合、英雄にとって中学三年間通して初勝利であったことは未だ茉希菜は知らない……というより、話していない。また、剣道部に所属していたのも「サムライオンのようなヒーローになるなら、必要な要素である」と勝手に決め込んだ彼自身の思い込みからで、特にスポーツが好きでやっていたわけではない。これもまた、彼女は知らない。
茉希菜はたまたま観戦した剣道部の試合で、たまたまその日の先鋒で初勝利を収めた英雄に出会い、たまたま恋に落ちた。
それからの茉希菜というと、常に英雄の周りをウロチョロしては、アタックせずに遠巻きから眺め、高校も共学の可も無く不可も無いような平凡な普通科の県立高校へ、英雄がいるというだけで進学。ちなみに茉希菜の学力は中学校内でも常に五番に入り、父親が某有名企業の重役をしているので、超が頭に付いてくるくらいのお嬢様学校にも進学が可能であった……のだが、それは年齢で言うと英雄の一つ学年が上である、姉が担ってくれていたので、両親が茉希菜自身の進みたい道を選択させてくれていた。
大学も高校と同様の理由で進学し、アルバイトも英雄と同じ、初めて一人暮らしを始めた街も英雄と同じ、英雄を追うだけの人生を常に続けていた。そんな甲斐あってか、周りの手助けを受けながらも、英雄と付き合うことができたのが今から五年前の二十歳の誕生日。
つまり、足掛け十二年、寝ても覚めても大峪英雄一色の人生を送ってきた。ある意味、物凄い執念というか、一歩間違えればストーカーになりかねない。そんな生活だったからこそ、結婚相手が英雄以外の男というのが茉希菜本人にも想像が出来ないし、想像しただけで吐き気がするほどだ。
親にも、「将来はこの人と結婚する!」とまで断言しているのに、「今さら引き下がれるかっつーの!」という、見た目に似合わぬ元来の負けず嫌いな性格が、更に拍車をかけていた。
「結婚するのかしないのか、するならするでいつするのか、はっきりと今日は答えてもらいましょうかね、大峪先輩!」
肘を付きながら頭を抱え、少し沈黙の間を置き、ようやく口を開く。
「いや、正直さ、俺も茉希菜と結婚したい。でもさ、現実的な問題が色々とあるじゃないか。俺の今の月収を知ってるか? 国の助成金を貰ってるって言っても、月々たかだか十六万弱の収入だよ。一人で生活していくのに精一杯だ。どこに結婚してお前のこと養っていく余裕があるっていうんだよ。それにさ……」
「それに?」
英雄はそこで口を再び閉ざし、茉希菜の「早う続けんかい!」という煽りを無視し、また沈黙しながら外に視線を向けた。
「またダンマリ。どうして気持ちを全部話してくれないの? 中学生の頃からアナタのこと好きになって、アナタをずうっと想い続けてこれまで来た。もう、かれこれ十二年になるの! わかる? 十二年っていったら、私たちが出会った頃に産まれてきた世間のお子様たちはもう小学校六年生ですよ、そこまでの年月を過ごしてきている相手なのに、そんなに私のことが信用できないの?」
「いや、そういうわけじゃあ……」
「じゃあナニよ!?」
「俺も色々考えてはいるんだよ、もう少し時間をくれ。必ずお前の希望通りになるようにするからさ」
英雄はそう言いながら、荷物と伝票を持ち、逃げるように席を離れようとした。しかし。
「今日は逃がさんと言ったでしょう。私の希望通りってナニよ? 私の希望はアナタと結婚して家族になって、例え狭い部屋でも寄り添いながら生きていくことなんですけどね」
襟首を捕まえ、ギラギラとした眼光を放っているかのごとく、茉希菜が口元に薄ら笑いを浮かべながら己の願望を語る。
周囲にいた客はその光景を観て、「美人おっかねぇ!」、「台無しだ、美しく整った顔が全て台無しだ!」、「しっ、見ちゃいけません!」などと口にする。
その視線に気がつき、英雄はすかさず茉希菜を抱きしめ、「頼む、もう少しだけ待っててくれ」と、耳元で囁いた。
ちなみにこの行動は茉希菜に効果的で、彼女の性癖の一つに「耳に吐息がかかると力が抜ける」というのがある。出会って十二年、付き合い始めて五年、相手のことを知り尽くしているのは何も茉希菜だけではないということだ。
さっきまでのつり上がった目元はトロンとし、少し惚ける彼女から体を離し、英雄は店を後にした。そして、茉希菜は英雄がいなくなった店内でペタンと座り込み、ボロボロと大粒の涙を流し始め、その状況を観ていた客たちが彼女に近寄ろうとした瞬間、「また逃げられたー、ちくしょー、英雄のバカ、アホ、甲斐性ナシの根性ナシー」と、叫んでいた。
自転車で帰り道、他のヒーローが事故発生後の交通整備をしている。足を止め、英雄がそれをしばらく眺めていると、ある親子もその光景を眺めて会話していた。
「お母さん、ヒーローだ。僕ね、将来、変身ヒーローになるのが夢なんだ。ヒーローになって悪い奴らからお母さんやお友達を守るんだ!」
「へ~、そうなんだ。でも、お母さんは学校の先生とかお巡りさんになって欲しいな」
「なんで~」
「だってね、実際にはケンちゃんの言うような悪い人達なんていないし、あのお兄さんたちはヒーローのマネをしているだけなんだもの」
「そうなの?」
「そうよ~」
近くにいるので否応なしに聞こえてくる。今日の……というより、毎度の茉希菜との会話も、今の親子の会話も英雄にとっては耳が痛い。
「ホント、俺の目指したヒーローって何なんだろうか」
そう想いながら家路についた。