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神速のガイル

 夕陽が照らす中、人通りもまばらになった表通り。

 片付けに追われる商店を横目にエレナは一人、道を急いでいた。


(ガイルったら突然顔見せたらビックリしてくれるかしら)


 そう考えると自然とエレナに笑みが浮かぶ。

 クルリと身を回し、久しぶりに着るお気に入りの長いスカートを確かめると、キリリとした表情で気を引き締めこれから会う幼馴染に想いを馳せる。


「やぁエレナ。急に来てくれるなんて驚くじゃないか」

「ちょっと仕事が早く終わったから。お邪魔だった?」


 そんな一人芝居を始めてしまうエレナ。いつも以上にご機嫌だ。

 身振りも交えて演技するといよいよ気持ちも(たか)ぶり始める。


「そんなことないさ。ちょうど俺も会いに行こうかと思っていたところなんだ」

「そうなの。偶然ね…ってちょっと距離が近いわ」


 低い声を出したり恥じらいの表情を見せたりとなかなかに忙しく、もはやすれ違う人々が微笑ましく眺めている事などエレナは気が付きもしない。


「良いじゃないか。やっと久しぶりに会えたんだ。たまにしか会えないのは忙しい君の責任なんだよ?」

「あ…待って。私達ただの幼馴染のはずじゃ…」

「何を言ってるんだ。俺はずっと君を…」


「きゃ〜! そんな事になったら私どうしよう」


 思わず顔を赤らめるエレナ。まさに恋する乙女である。


「キャッ」「イテ!」


 しかし前をよく見ていなかったエレナは立ち止まっていた人にまともにぶつかる。


「ごめんなさい」


 顔を抑えながら謝ろうと相手を見れば、一目で顔を背けたくなるような強面(こわもて)の男。


(ひぇ〜。よりによってこんなおじさんに…)


 眉間に皺を寄せながら睨みつけてくる様子を見たエレナは絶対タダでは済まないと本能で感じる。


「嬢ちゃん気をつけろや。一人でごちゃごちゃと何やってんだ!」

「ごめんなさい。私ぼけっとしていて…」


 エレナは怒鳴り声に驚きながらすぐに慌てて謝るが、その表情も声もすでに泣きそうなもので小柄な体がさらに縮こまる。

 何度も頭を下げどうにか相手の怒りを鎮めようとするのだが、エレナにはどうして良いのかわからずいよいよ涙が溢れそうになってくる。

 しかし怒鳴り声に気付いた周囲の目線が気になったのか、それとも子供のようなエレナが泣きそうだからか、男の怒りは鎮まっていった。


「…ったく。最近この辺りでも人通りが少なくなる夕暮れ時に例の人攫いが出たらしいからな。嬢ちゃんみたいにかわいい女の子が独りでぼ〜っとしてると…危ねぇぞ」

「こんな表通りで人攫いが出たのですか? しかも例のって?」


 エレナは悪い予感が外れたからか、それとも男が思ったほど悪い人でなさそうだからか不安感が和らぐと人攫いの話に興味を持つ。


「なんだい嬢ちゃん知らないのかい、有名な人攫いの話を。何でもそいつの身のこなしは恐ろしく速いらしくて、腕に自信のある護衛の者が付いていても歯が立たないらしい。しかもそいつの剣筋はこれまた普通のものには見えないほどえらく速いそうだ。時には背後から、時には物陰から忍び寄って来て突然斬りつけるんだとよ。で、切られた後から刃が風を切る音が聞こえてくる。音より早い斬撃ってんで付いたあだ名が音速の紫だそうだ」


「紫?」


 キョトンとした表情でエレナが聞き返す。女のエレナに剣の凄さはよくわからなかったが、話の最後の紫にだけは疑問が湧いた。

 男も興味が湧いたエレナが親しげに問いかけて来るので、満更でもない表情だ。


「あぁ、斬られた奴が何人も人攫いの後ろ姿を目撃しているんだが、決まって頭からすっぽり被った紫のローブで顔を隠しているらしい」

「だから音速の紫なのね」


 紫の由来を聞いたエレナが感心して頷くと、男はいよいよ嬉しくなったのか手振りを交えて笑顔さえ浮かべる。先程まで寄せていた眉間のシワは消え、ドスの聞いていた声も今はただの気の良いおじさんのものだ。


「何故だかそいつは護衛を殺したり殺さなかったりするらしいんだ」

「不思議ね。でも誰も犯人の顔を見ていないのでしょ?」


 エレナが首をかしげると、男は突然声を潜めた。


「それが話に続きがあってな」


 小声になった男の言葉を聞こうとエレナが大きな瞳をさらに大きくして男に顔を寄せると、気を良くした男は今度は声を大きくして話を続ける。


「たまたま犯行現場に居合わせて、一度だけその音速の紫の太刀筋を受け止めた奴がいるんだよ。その時、辻斬りに逃げられはしたが、犯人の顔を見てしかもその音速の辻斬りを退けたってんだ。どうだ凄いだろ!」

「凄い! いったいどこの凄い騎士なの?」

「それが嬢ちゃんと同じくらいの青年だ。それでそいつについたあだ名が」


 興味を抱いたエレナにすっかり満足した男は、答えを続けず沈黙で相手を焦じらす。


「あだ名が?」

「神速のガイル」


 堪らず聞いてきたエレナに男は勝ち誇ったような表情で答える。


「えっ? ガイルって角のお屋敷の?」


 どこの有名な騎士様の名前が出て来るのかと期待していたエレナは聞き覚えのある名前に拍子抜けし、途端にキョトンとした表情で問い直す。

 そんなエレナの表情に男も少し残念な雰囲気だ。


「何だい嬢ちゃん、知ってんじゃないか。その一件で奴は有名人。それで始めた警備会社は大盛況。今じゃ嬢ちゃんも知ってる大きなお屋敷住まいの大社長様ってやつさ」

(ガイル…そんな辻斬りの話、私には一言も教えてくれなかった…)


 エレナはこれまでガイルと幼馴染で何でも気軽に話し合えると思っていた。

 にもかかわらず聞かされていなかった話を耳にして、残念な気持ちがこみ上げる。

 裏切られた訳ではないのだが何だか仲間外れにされたような。

 そんな心境になりかけるが内緒にされていたのも何か理由があったのだろうと思い自分を納得させる。

 しかしそんなエレナに男は顔を近づけ小声で話しかける。


「だが嬢ちゃん奴には気を付けな。何かと悪い噂が絶えない男だからな。若造だと思って舐めていると痛い目を見るぜ」


 それはまるで人に聞かれないようにヒソヒソと。

 こんな強面の男さえもガイルを恐れているのだ。

 そしてそんな男の顔は娘を心配し気遣う表情そのものだった。

 だからエレナはあえて胸を張って大きな声で答える。

 出来る限りの笑顔で。


「大丈夫ですよ。だってガイルはそんな噂みたいな悪人じゃないですから。それは幼馴染として小さな頃から一緒に過ごしてきた私が一番良く知っています」


 それはガイルの事は自分が一番良く知っていて彼をこれ以上悪く言うと許さない。

 巷でよく耳にする噂はすべてデマで彼を貶めようとするもの。

 そう言わんばかりの口調であった。


「…そっか。まぁおじさんは忠告はしたからな」


 エレナの言葉を聞いた強面の男には、もはやそれ以上の言葉は出てこなかった。


(ガイルは下町で孤児として育ってきたけど、そんな悪い子じゃないもん…私は信じてる。だって私の大切な幼馴染なのだから私だけは信じてあげないと。待っててね、私の王子様)


 エレナは自分にそう言い聞かせると足早にガイルの元へと向かった。


 下町を出て住宅街に入ると道は広く石畳となり、街並みも整備されたものへと変わっていく。

 ガイルが住む邸宅はそんな住宅街の中でも大通りに面しており指折りの広さを有していた。


(警備会社の事務所兼住居として使うために富豪から借りてるだけだって以前聞かされたけど、いくらなんでも豪華すぎるのよね…)


 邸宅に到着したエレナは何度来ても見慣れない立派な門構えを眺めながら、屋敷の使用人に導かれ中庭に赴く。

 そこは手入れが行き届いているとは言い難いものの花壇や彫刻で飾られ、一目で住むものの財力が計り知れないものである事を物語っていた。


(それにしてもガイルに会えるの久しぶりだわ。彼も喜んでくれるかしら…)


 幼馴染のガイルにようやく会える喜びは確かにあった。

 しかしお互い仕事を抱え共に過ごす時間が減って行く中で、その関係もまた薄れてきた事を感じていた。昔のようではなくなってしまった今の関係を憂うとガイルが突然の訪問を喜んでくれるか一抹の不安もまた感じてしまう。

 それでもエレナにとってガイルは大切な幼馴染であり、再び昔のような関係を取り戻したいと考えていた。


(かしら)から鍛錬中は誰も近づけるな、と厳命されておりますのでこちらでお待ち下さい」

「はい。ところで今日のガイルはあんな木の下に突っ立って何の鍛錬をしているの?」


 案内を終え立ち去ろうとする二人の使用人に、エレナは小首を傾げて不思議そうに問いかける。

 エレナには目当てのガイルが木陰で秋風に吹かれる中、何もせずに佇んでいるように見えた。陽も沈み間もなく辺りも暗くなり始めるそんな時刻に、だ。


「風で舞い散る落ち葉を斬る鍛錬です」

「頭の邪魔はなさらぬように」


 男達は表情も変えずに淡々と答える。


「はっぱを斬るのが鍛錬?」

(男の子ってわからないな…あれで鍛錬になるのかしら? それとも私の聞き間違い? 前に来た時はずっと庭の石に胡座(あぐら)をかいてただけだし。もう少し詳しく聞きたいけど案内してくれた二人、いつも無愛想で何だか話しづらいよ…)


 使用人の説明を聞いても理解できなかったエレナ。

 しかし間を合わせようともしない使用人二人にそれ以上問いかける事も出来ず、仕方なくガイルの様子をじっと見守る。

 やがて風が収まり視界に動くものがなくなると、中庭には静寂が訪れていた。


(まるで時が止まってしまったみたい。これが以前ガイルが話していた()の世界かしら。だとすると…)


 何かが起こりそうな気配を感じたエレナ。

 これから起こることを見逃さぬよう瞳を大きく見開くと、今か今かとその時を待つ。

 今は瞬きする瞬間さえおしい。

 そしてガイルが追い求める剣の全てを見届けたい。

 そんな面持ちであった。


 突然一陣の風が中庭を吹き抜けると、エレナはなびく髪が目にかかり堪らず押さえる。

 前髪に気を取られたのはまさに一瞬。

 しかし我に帰ったその時。落ち葉舞い散る風の中、既に事を終え剣を鞘に収めようとするガイルの姿がそこにはあった。

 一部始終を見逃してしまったエレナには、何が起こったのかさえわからない。

 ただ狼狽えてしまうと共に後悔に襲われてしまう。

 やがてガイルが剣を鞘に収め終えると、辺りの落ち葉が次々と粉々に砕け散り、風に乗ってどこかへと消え去っていった。


「お待たせいたしました。終わりましたのでどうぞ」


 一部始終を見届けていた使用人たちは、そう言ってエレナに頭を下げる。

 使用人に促され釈然としないままガイルの元へと歩み出すエレナ。せっかくの剣技を見逃してしまい落ち込むが後の祭りだ。

 ガイルが事を終えてしまい、今日はもうその瞬間を見る事はかなわない。

 ただそれでも一瞬で繰り出された神憑り的な剣の速さだけは理解できた。

 そしてそれが自分の幼馴染のものであると思うと誇らし気な表情になるのであった。


「それにしてもとても十六になったばかりとは思えん気迫だぜ」


 エレナの去った後、残された若い使用人とベテランの男がささやき始める。


「あの剣一つで成し遂げてきた依頼は数知れず。この屋敷を借りられたのだって、前の持ち主から剣の腕をえらく気に入られたからだってもっぱらの噂だぜ。今、この王都で一番の成り上がりは? と問われたら間違いなくガイルさんだろうからな」


「この一年程で会社は急成長だからまさしく成り上がりだわな。若造に使われるのは癪だが、あの剣技があればこそ、こうして俺たちみたいな傭兵上がりまで潤ってるんだ」


 二人が成り上がりと認めるのももっともで、平和な治世の続くフェリス国で警備と言えば個人で活動する傭兵を雇い入れるのが常であった。そこでガイルは類い稀なる剣の才能を武器に荒くれ者である傭兵達を束ねると、会社として組織し瞬く間に業務を拡大していったのだ。


「若くして警備会社の社長。貴族や有名商会との繋がりも数知れず。下町出身の何の後ろ盾もない孤児が成功するなんて、若いのに全く大したもんだ。末恐ろしい話だよ全く」

「まぁ悪い噂も絶えないがな…」


 そう言って俯き加減に呟く若い使用人に、ベテランの男が驚きの表情を向ける。


「おいおい、お前は新入りだから知らないだろうが、あまり変な話が頭の耳に入るとお前もどうなるかわからないぞ? なんせ気に入らない相手はどんな手を使っても潰しに行くらしいからな」


 小声で諭すが若い男は気にするような素振りも見せない。


「大丈夫だ、聞こえやしないさ」

「…」


 若い男の言葉にベテランの男は言葉を詰まらせるとそのまま何も言えなくなってしまった。もしかするとこれ以上この話を続ける事で自分の身に不利益を被る事を恐れたのかもしれない。

 そんなベテランの変化に気付いた若い男は話題を変えようと、視線を若い二人に向ける。

 これまでエレナが屋敷を訪れるのは珍しいことではなかった。

 それは決まってガイルを治療するためであったがその行為は遠目でしか眺める事は許されておらず、若い男にとっては関心事の一つであった。そのためガイルの元へと向かうエレナに自然と興味が移る。


「でもよ、そんなガイルさんを支えてるのは、あの娘のおかげだと俺は思うんだぜ?」

「そうだな、これまで怪我で何度も死にかけてきた頭を治してきたのはあの娘だからな」


 事実この一年、ガイルは何事も無く過ごせていたわけではない。時には仕事で命にかかわるような傷を負うこともあったが何とか乗り越えてきた。それらを救ってきたのは全てエレナの介抱があったればこそなのだ。


「俺は治療しているところを一度だけ間近で見たことがあるんだが…」


 若い男はその言葉を聞いて目を輝かせる。それに気付いたベテランの男はさらに小声で話を続ける。まるで秘密の隠し事でも語る時のように。


「あの娘が持って来た薬。…なんでかは知らねぇが、頭にはやたらと効きやがる。みるみるうちに傷口が塞がっていくんだからな。しかもそうして死線を越えるたびに頭は強さを増してきたんだ。まったく神憑り的な話だろ? 言うなれば勝利の女神様、だな」


「しかしガイルさんの興味はあの娘には…」


 若い男がそう言いながら残念な顔をするとベテランの男もまた落胆の表情を浮かべる。それはまるで終わったものを見るように。


「それ以上言ってやるなよ。あの娘も何も知らないで全く健気(けなげ)なもんだ」

「俺ならあんな可愛い娘に慕われたら我慢できなくなりそうだけどな…あやかりてぇ」


 気が付けば陽は沈み、月の光が優しく照らす庭の草はらからは虫の音色が聞こえ始めていた。

 そんな中で鞘に収めていた真剣を再び抜くと刃先を見つめながらその感触を確かめるガイル。

 歩み寄るエレナに気付くそぶりはない。


「ガイル、また剣の練習?」


 気付かぬガイルに不満なのかエレナがため息混じりに声をかける。


「あぁエレナか。俺には他に取り柄もないんでな。それに怠けているとすぐに他人に追い抜かれてしまう」


 そう言って剣を収める姿にエレナは思わず見惚(みと)れてしまう。

 鍛え上げられた上腕の筋肉と厚い胸板は薄い肌着の上からでもはっきりとわかり、長身故にすらりと伸びた脚は女性からすれば嫉妬さえ感じてしまうほどだろう。

 しかも月の光を背景に瞳も合わさず語る後ろ姿。それを見たエレナに思わず振り向かせたい、という願望が湧き上がる。


「この間の薬はどう? そろそろ治ったかしら?」

「あぁ…あれな…」

 そう言ったエレナの声はどこか甘えたようなものにかわっていた。それを聞いたガイルは聞きなれているのか表情も変えずに袖を捲り上げ、その腕に刻まれた刀傷を見せる。

 小麦色に焼けたその腕にはいくつも白い小さな古傷のようなものが刻まれていたが、それは男がこれまでに潜り抜けてきた修羅場の数々を物語っていた。


「まだ傷跡が消えやしねぇ。たかが刺客三人に襲われたくらいでこんな傷を負わされてたんじゃ俺もまだまだだよな」


 皮肉にも似た表情で傷跡の一つを撫でる。知らぬものからすればどれが新しい傷かはわからないだろう。


「何言ってるのよ無茶するんだから。いくら仕事だからってあまり心配させないでよね。しかもその後、捕まえた瀕死の刺客三人を治療してなんとか命を取り止めたのは誰のおかげだと思ってるのよ。ひとつ間違えればガイルは人殺しになっていたのよ?」


 頬を膨らませ不服そうな表情を浮かべるも、その声は心配が杞憂に終わり安堵したようなものだ。

 それでもエレナはもう少し言葉を発しようとするのだが、ガイルの真剣な眼差しに気付き言葉が出なくなってしまう。


「やっぱりお前が直接塗ってくれなければダメみたいだ」


 目を逸らさずに恥ずかし気もなく答えるガイルにエレナは思わず頬を赤らめてしまう。


「もう! 少しは反省してよね。そうやってまた話をそらすんだから…」


 そう言って怒ったそぶりを見せるエレナだが、既にその視線を幼馴染に向ける事は出来ない。


「本当だって」

「ガイルはいつも私に甘えてくるんだから」


 駄目押しのように見つめてくる幼馴染に、エレナの声は次第に小さくなり照れくさそうだ。


「馬鹿やろ、そんなんじゃねぇよ。ただ、本当に俺や手下どもが塗ったんじゃダメなんだ。お前じゃなきゃ」


 その言葉にエレナは顔を上げると思わず瞳を大きく見開く。


(お前じゃなきゃ…昔から私はこの言葉を聞くたびに何度心を躍らせてきたことか…)


 幼馴染から久しぶりに聞かされた言葉に胸の高鳴りを感じたエレナは瞳を閉じて幸せを噛みしめる。

 やがて瞳を開いたエレナはこれまでにない優しい微笑みを浮かべていた。


「はいはい。薬を塗るから患者さんはそこに座っていただけるかしら?」

「お手柔らかに頼むぜ」


 すっかり笑顔で話しかけるエレナ。庭の石にドカッと腰掛け満足そうなガイル。

 エレナはその前で地面に膝をつくと手持ちの小さな薬箱から塗り薬を取り出す。


「沁しみたら教えてね。まあ傷口は閉じてるから大丈夫だとは思うけど」

「あぁ」


 薬を中指で優しく塗ると、患部が心なしかほのかな淡い光で包まれたような気がする。昔ガイルに光の話をしたら否定されたので気のせいなのだろう。

 やがて光が収まると、それとともに傷跡も目立たないほど薄れていた。


(確かにガイルには私の薬が驚くほど良く効く。これはもしかして…)


 ガイルの手のぬくもりを感じながら、次第にエレナの脳裏では妄想が膨らみ始める。


(淡い光は私の愛のちから? それともガイルが私の運命の人だって事? この腕で抱きしめられたら私…どうしよう)


 太い両腕に包まれた姿を思い浮かべたエレナは思わず赤面し黙り込むと、ガイルの腕を握りしめたまま何も出来なくなってしまう。


「何俯いて固まってんだよ。終わったんなら俺は練習に戻るぜ」


 しかしそんな一言でエレナは幸せな世界から呆気なく引き戻されてしまう。

 それどころか幼馴染の素っ気ない口調に寂しさを感じると、満たされない気持ちで胸が締め付けられそうになる。


「ガイル…」


 エレナはポツリ呟きガイルの後ろ姿を見送る。


(彼は私の気持ちに気付いてくれない。でもいつか私を満たしてくれる、無償の愛情を手に入れるまで、私は頑張るわ)


 そう心に決めるエレナはしっかりとした表情でガイルの後姿を眺める。


「あぁそうだエレナ?」

「どうしたのガイル?」


 突然振り返り思い出したように話しかけてきたガイルに、エレナの表情はパッと明るく輝く。


「この間話した仕事、考えてくれたか?」


 しかしエレナが耳にした言葉は期待したような物ではなく、むしろその逆だったようで途端に笑顔が消えていく。


「それは…私には治療院の仕事もあるから…」


 小さな声で、何とか言葉を返すがなんとも歯切れの悪い口調になってしまう。


「別に治療院の仕事を辞めろって話じゃないんだ。ただそれが終わってから夜の仕事をして欲しいってだけなんだ」

「でも…」


 ガイルはエレナに歩み寄り語りかけるように耳元で優しく囁くのだが、エレナの表情は沈んだままだ。それどころかどんどん暗いものへと変わっていく。


「俺も警備会社を経営して行くのに何かと出費が多くてさ。治療院よりよっぽど稼ぎの良い仕事なんだぜ?」


(そんなこと言ってもガイル、全然お金には困っているようには見えないし…それに夜の仕事って男の人のお酒の相手をするだけだって聞かされてはいるけど… 男の人って酔っ払うと理性が無くなってあんなことやこんなことや…)


 言葉にならない思いを浮かべる。

 酔っ払った男を想像したエレナは思わず小さな己の身を抱きしめる。想像した物はまだまだ女として未熟なエレナらしい物だが、その表情は困り果てたもので今にも泣き出してしまいそうなものになっていた。


「なぁ〜頼むよ〜。エレナの他に頼れるのはいないんだ」


 いつも締まった表情のガイルの目元が緩み、甘い声をかけてくる。昔からそれを聞いたエレナは思わずあきらめ顔になってしまうのだ。


(幼馴染のガイル以外を受け容れるなんて私には考えられない。でも私には、私だけを頼ってくるガイルの願いを断るなんて出来ない…)


 そう考えるとエレナには他のどんな事情や理由も最早関係ないものとなっていた。幼馴染の願いを聞き入れる事。ただそれだけがエレナにとっての全てであった。


「わかったわ。でも少しだけ待って。せめて今度の16の誕生日まで…」


 断る気持ちはもうエレナにはなかった。

 しかし、それでも、心の準備のような時間的な余裕が欲しくてせめてもの条件を付けた。

 それでもそれを聞いたガイルの表情は満足したものとなり、蔓延の笑みを浮かべてくれる。


「お! そうか、そう言ってくれると思ってたよ。さすが俺のエレナだ」

「ガイルは仕方ないなぁ…」


 エレナにはそれが最良の選択肢であったのかはわからない。心の中にわだかまりがない、と言えば嘘になる。それでもエレナの心の中には喜びが溢れていた。

 なぜなら目の前には昔のように自分に笑顔を向けてくれる幼馴染の存在があったからだ。


(やっぱり私この人には私が居なければ…

 私も今はただ側に居られるだけでしあわせだから…)


 再び自分が必要とされている。

 エレナはそう考えると今はただ幸せを感じるのであった。

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