くさり
閑散とした破れ家に一匹の犬が繋がれている。
薄汚れた灰色の毛の雄犬だ。大きさは柴犬よりやや大きいくらいだろうか?中形犬だ。
わりと長めの体毛にもかかわらず瘠せているのがよく判る。そのぼそぼその毛並みは、所々、土に染められて赤茶けた班が浮いていた。
犬は静かだった。
やがて、一人の男が、灰色のコートの男がやって来た。すると、犬の耳がぴくんと動いた。
犬は嬉しそうに尻尾を振って近寄ってきた。
鎖がジャラジャラ鳴った。
男は、色あせた鞄から餌と水を取り出して、犬に与えた。
男は暫く犬の前にしゃがみ、食べ終わるのを見届けた。
その後、男は餌と水の皿を下げて家に入っていった。
それから二八日間いつもと同じように時が過ぎた。ただ過ぎた。
男はいつもよれよれだった。不思議と顔は見えない。
それから、真っ暗い夜が来て、その日の事だった。
男は犬を眺めていた。
犬は餌を食べていた。
男は犬を蹴った。
犬は餌を吐いた。
男は立て続けに三回蹴った。犬は三回跳ねた。それが終わると男は優しく犬を撫でた。犬は抵抗しなかった。ただ、暗闇に炯炯と灯がともった。
それから、また二八日間同じことを繰り返す日々が続いた。
気が付けば犬はもう灰色の地色があまりわからないほどに汚れていた。
嬉しそうに振る尻尾はどことなく歪なリズムを刻み、擦り寄る足取りはよろよろとおぼつかない。
男は涙を流して犬を抱きしめた。
それから、家の中からたらいをもってきて犬を綺麗に洗った。
男は犬の毛が乾くのを待って餌と水を与えた、十二分に与えた。
優しく犬をなでた。
家に入っていった。
それ以降、男は出かけて、帰ってくると犬に餌と水をやり、真っ暗な夜が来ると次の日に犬を洗った。時々、散歩にも連れて行った。夜の散歩だ。灰色の犬は素晴らしくしなやかな毛に包まれた立派な姿になった。
だが、男は相変わらずだった。
丘の上に会った破れ家は、町外れにぽつんとあった。尋ねるものは誰もいなかった。男と犬の生活は誰の介入も受けなかった。
両者の間にあったものは、幸福だろうか?信頼だろうか?愛だろうか?
所詮、犬と人かも知れない。
それは判らない。両者にしか判らないし、両者とも違うかもしれない。
ただただ、良好と思われる関係が両者の間に続いた。
でも、男は変わらなかった。
よくわからない顔、よれた灰色のコート、物静かな歩き方、犬を撫でる手、犬を見る目、日々の生活が規則正しくとは行かなかったが、行動の周期は規則正しかった。
ある風の強い日だった。
男は散歩から帰って、犬を繋いだ。その時、普段よりわずかに鎖を短く繋いだ。
―その日、犬は餌をもらわなかった。
その日から三日間、男は犬に餌をやらなかった。三日目にやっとほとんど水の粥のようなものを水皿に盛ってやった。
空の餌皿が水皿の手前、いつも置かれる場所で空しく光っていた。
それから、三日に一回、男は犬に水のような粥のような餌を与えた。犬はまた瘠せていった。
そして、一六日が経った。
そこには一匹の瘠せ犬が項垂れていた。
男は相変わらず静かに歩き、ひとしきり犬を眺めると家の中に入っていった。
犬はぱたぱたと尻尾を振って寄って来た。
短くされた鎖がジャラジャラ鳴った。
その音は、男が家の中に消えるまで続いた。
その日、男は家の中から再び現れた。手には山盛りに飯を盛った茶碗をもっていた。
男は、茶碗をいつも餌皿を置く場所に置き、犬を一回撫でると家の中に入っていった。犬は懸命に首を伸ばしたが、わずかだけ茶碗には届かなかった。
次の日、男は、茶碗をそのままに、いつもの場所に水皿を置き、いつもよりわずかに膨らんだ鞄を胸に抱き、出かけて帰らなかった。
ジャラジャラと鎖の音だけが響いていた。
水皿から水がすっかり無くなって、三日もたってもまだ男は帰ってこなかった。犬は時に思い出したように茶碗に向かって首を突き出し、前足で地面を掻いた。
それから暫くして、月の明るい晩に男は帰ってきた。足取りは何時に無く力強く、よれよれだったコートは皺一つ無かった。手には大きめの手提げの革の鞄を持っていた。
犬はその時、夢中に茶碗に向かっていた。茶碗の中の飯は犬の吐く息と飛び散った唾液に薄茶色い色に変色していた。
男はその茶碗の前にしゃがみこむと犬を眺めた。
犬はそこで男の存在にはじめて気が付くと、目玉が飛び出しそうな勢いで飛びついた。
しかし、張り切った鎖に阻まれて、首輪が擦れて毛の剥げ落ちた首がいっそう伸ばされただけだった。
男は、飯に鞄から取り出した何かを振りかけた。それから、鉢巻を取り出して、真っ白な鉢巻を取り出して額にきつく巻いた。
犬は涎を撒き散らし、舌を伸ばしながら茶碗に向かって首を伸ばした。
男は犬の注意が餌に向いた事を確認すると、犬の耳元に口を寄せ何かをつぶやいた。それから、ゆるゆると立ち上がり、コートの下からどうやって隠してあったのか、すらりと刀を抜き放った。
ブツブツと男の口から言葉が漏れる。
ガウガウと犬は唸り声を上げ求める。
月に雲がかかり一瞬の闇が生まれた。
瞬間、ヒョウと空気が鳴った。
ドウッと何かが倒れた音が二つ
雲が切れ、再び月が姿を現す。
月影の照り返しが一瞬、血に濡れ微笑む男の顔を浮かび上がらせた。
犬の首は、茶碗に突っ込み飯を貪っていた。
胴体はバッタリ倒れ、ピクリとも動かない。
犬を縛っていた鎖もちぎれていた。
男は、切り口から血と飯と涎の泡を吹き出す首を掴むと鞄に仕舞った。
鞄は一度、ガタリと動くと二度と動かなかった。
男は、この血を拭うと、ほんの少しだけ悲しそうな顔をした。
再び、月が隠れ、男は闇の中へと消えていった。
次の日、その町では多くの人が死んだ。
男のその後は遥として知れない。
ふと、自分は惨めな犬なんじゃないかと思うことが多くなりました。
それと、ある種のオカルトっぽい話が好きで、とりあえず何か書いてみたいと思ったら、こんな話になっていました。
ちなみに私は犬が苦手です。