騙されやすい公爵令嬢は、恋に落とされる
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王太子アルベルトが失脚してから、一月が経った。
国家機密の漏洩、横領、外交文書の偽造、王室財産の窃盗、外国勢力との内通。
かつて次代の国王となるはずだった第一王子は王宮の離宮に幽閉され、正式な処分を待つ身となっている。当然ながら、リリア・エルフォード公爵令嬢との婚約も解消された。
卒業記念舞踏会で起きたあの騒動から、まだそれほど日は経っていない。
そんなある日のことだった。
「リリア」
夕食を終えた娘を、エルフォード公爵は書斎へ呼び止めた。
「はい、お父様」
「王家から、新しい縁談が来ている」
「あら」
リリアは少し驚いたように目を瞬いた。
「もうですか?」
「私もそう申し上げた」
公爵は深いため息をついた。
十年間婚約していた相手との関係が、あれほどの騒ぎの末に消えたのである。本来ならば、もう少し娘の心情を気遣うところなのだろう。
もっとも、目の前の娘は昨日もよく眠り、今日の夕食では食後のケーキまできれいに食べていた。少なくとも、失恋に打ちひしがれているようには見えない。
「それで、お相手はどなたですか?」
「セオドア殿下だ」
今度は、リリアが少し長く瞬きをした。
第一王子アルベルトの弟、セオドア。
兄が王太子の座から外された今、次の王太子に最も近い人物でもあった。
「セオドア殿下ですか」
「ああ」
「お優しい方だと伺っていますわ」
「……それだけか?」
「ほかに何か?」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
公爵は娘の顔をじっと見た。
以前なら、この顔を見ても何とも思わなかっただろう。
幼いころから、この娘は恐ろしく騙されやすかった。人に頼まれれば金を渡し、相手の言うことをそのまま信じる。だから何度も、人を疑うことを覚えなさいと言い聞かせてきた。
けれど、卒業記念舞踏会の帰り道。
あの馬車の中で、公爵はようやく知った。
この娘は、人を疑わないのではない。
相手が自分から何をするのか、最後まで見ているだけなのだと。
「リリア」
「はい?」
「一つだけ約束してくれ」
「何でしょう?」
「セオドア殿下に、妙なものを差し上げるな」
リリアはきょとんとした。
「妙なもの?」
リリアは困ったように笑った。
「お父様は、最近とても心配性になりましたね」
「誰のせいだと思っている」
「さあ?」
公爵は額を押さえた。
セオドアが善良な青年であることは知っている。頭も切れる。王族としての責任感も強い。
アルベルトの代わりに王太子となるのであれば、これ以上ないほど適任だろう。
だから、縁談そのものに異論はなかった。
ただ、自分の娘の相手として考えると、公爵には、なぜか少しだけ嫌な予感がした。
◇
セオドアは、兄とはずいぶん違う王子だった。
栗色の髪に、穏やかな灰色の瞳。
兄ほど華やかな容貌ではなく、学院でも社交界でも、どちらかといえば目立たない王子だと思われていた。
しかし、凡庸ではない。
学院に在籍していたころから政務の会議へ顔を出し、王領の穀物備蓄や王都の上下水道について意見を出していた。北部の治水事業では、利害の対立する貴族と商人組合の調整にも関わっていたという。
数字にも強く、人の話もよく聞く。
権力が何に使えるのかを知らないわけでもない。人の弱みが政治でどれほど有効なのかも、民衆からの人気が政策を進めるうえで役立つことも、十分に理解している。
そのうえで、驚くほど善良だった。
最初のお茶会は、王宮の庭園で行われた。
リリアが席につくと、目の前には紅茶と、小さなレモンのケーキが用意されていた。
「あら」
「レモンでよかった?」
向かいに座ったセオドアが尋ねる。
「ええ。好きですわ」
「よかった」
リリアはフォークを取ってから、ふと顔を上げた。
「でも、どうしてご存じなの?」
「何が?」
「私がレモンのお菓子を好きなことです」
セオドアの手が、ほんの少し止まった。
「学院の食堂で、よく選んでいたでしょう」
「まあ」
リリアは目を丸くした。
「殿下、見ていらしたの?」
「たまたまだよ」
「そうなのですね」
リリアはそれ以上は尋ねず、ケーキを一口食べた。
「おいしいですわ」
「それならよかった」
なぜかセオドアは、ケーキを褒められただけにしては嬉しそうだった。
しばらく当たり障りのない話をしたあと、彼は紅茶のカップを置いた。
「今回の縁談について、一つ言っておきたいことがある」
「何でしょう?」
「嫌なら、断ってほしい」
リリアは少し目を丸くした。
「王家からのお話ですのに?」
「だからだよ」
セオドアは苦笑した。
「兄上の件で王家への信頼は落ちている。エルフォード公爵家との関係も維持したいし、僕が次の王太子になるなら、君との婚姻にはかなり大きな意味がある」
ずいぶん正直な人だと、リリアは思った。
「でしたら、私がお断りするとお困りになりますね」
「困るよ。かなり困ると思う」
返事は早かった。
「まあ」
「でも、それは王家の事情だから」
「私がお受けすれば、簡単に解決しますわ」
「君の人生を使って?」
セオドアは首を傾げた。
「それは、簡単に解決したとは言わないだろう?」
リリアはしばらく彼を見た。
王家は困る。
セオドア自身も困る。
それを綺麗事で隠そうとはしない。
けれど、困っているからといって、相手が自分を差し出すべきだとも考えていないらしい。
「殿下は、不思議な方ですね」
「そうかな」
「ええ」
「どこが?」
リリアは少し考えたが、うまい答えが見つからなかった。
「まだ、よくわかりませんわ」
そう言うと、セオドアは楽しそうに笑った。
◇
二度目のお茶会では、セオドアの机の上に何冊もの帳簿が積まれていた。
「ずいぶんお忙しそうですね」
「もともと兄上の仕事も、こちらへ回ってきているからね」
「まあ。大変」
「覚えることは多いかな」
「何かお困りなの?」
「困っていること?」
セオドアは少し考えた。
「やりたいことに対して、予算が足りないことかな。北部では医師が足りないし、王都の古い水路も直したい。地方の学校も増やしたい。でも、全部一度にやったら国庫が空になる」
リリアは少し考えた。
「でしたら、私のお金をお使いになります?」
セオドアの手が止まった。
「……君の?」
「ええ。お父様から、私の裁量で使ってよいと言われているものがありますの」
「いくら?」
「金貨二万枚ほど」
セオドアは黙った。
リリアは何でもないことのように続けた。
「今のところ使い道がありませんし、殿下のお役に立つならどうぞ」
「全部?」
「必要でしたら」
「返さなくても?」
「もちろんですわ」
セオドアはしばらくリリアを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「では、ありがたく使わせてもらおうかな」
「あら」
リリアは少し嬉しそうに笑った。
「何をお買いになります?」
「さっき話した北部の医療に使う」
セオドアは帳簿を一冊引き寄せた。
「ただ、このまま僕個人が受け取るのは駄目だ。君から王国医療基金へ正式に寄付する形にしよう。王家からも同じ額を出す」
「倍になりますね」
「うん。診療所を増やすだけじゃなく、医師や助産師の育成にも使える。建物だけ作っても、働く人がいなければ意味がないからね」
「殿下は何もお取りにならないの?」
「僕のお金が足りないわけじゃないからね」
リリアはしばらく彼を見てから、柔らかく笑った。
「では、そのようになさってくださいませ」
◇
その日の夜。
「リリア様!」
部屋へ戻るなり、ミーナが青い顔で飛んできた。
「まあ。どうしたの?」
「殿下に金貨二万枚を差し上げるって、本当ですか!?」
「ええ」
「金貨二万枚ですよ!?」
「そうね」
「そうね、ではありません!」
ミーナは頭を抱えた。
「どうしてそんな大金を、簡単に人へ差し上げてしまうんです!」
「お困りのようだったから」
「だからって!」
「でも、北部のお医者様を増やしてくださるそうよ」
「それは殿下がまともな方だったからです!」
リリアは目を瞬いた。
「まとも?」
「もし悪い方だったら、そのまま持っていかれていたんですよ!」
「でも、セオドア殿下は持っていかなかったわ」
「結果論です!」
「そうなの?」
「そうです!」
「ミーナは心配性ね」
「リリア様が心配させるんです!」
リリアは困ったように笑った。
「でも、本当にご自分では一枚もお取りにならなかったのよ」
リリアはミーナに微笑みかけた。
ミーナは、まったくわかっていない、と確信した。
◇
数日後、王国医療基金への大口寄付について、王都の新聞社が記事を出したいと申し出てきた。
「せっかくですもの。殿下のお名前を大きく載せていただけばよろしいのでは?」
リリアが言うと、セオドアは記事の草稿から顔を上げた。
「僕の?」
「ええ。殿下が医療のために尽力なさったと書けば、皆様ももっと殿下をお好きになりますわ」
「それは悪くないね」
セオドアはすぐに頷いた。
「殿下も、さらに人気者になりますね」
「国民に信用されていたほうが、政策も進めやすいからね」
そう言いながら、セオドアは記事の草稿へ視線を戻した。
「ただ、僕の名前より、何に使う基金なのかを大きくしてもらおう。診療所がいくつ増えるのか、医師の育成にいくら使うのか、それから寄付の窓口も載せてもらえると助かる」
「殿下のお顔のお写真は?」
「必要なら載せてもいいかな」
「大きく?」
「僕の顔を大きく載せたほうが寄付が増えるなら」
「殿下ご自身の宣伝にもなりますね」
セオドアは笑った。
「国民を助けた結果として支持されるのと、支持されるために国民を助けるのは、順番が逆でしょう?」
リリアは目を瞬いた。
「結果は同じでは?」
「たぶん、少しずつ違ってくるよ。支持を得ること自体が目的になったら、いつか必要なことより、人気の出ることを選びたくなるから」
「そうなのですね」
「僕はそう思ってる」
リリアは記事の草稿へ目を落とした。
自分を売り込むには、これ以上ない機会なのに。
この人は、そちらを選ぶらしい。
「殿下は、本当に変わっていますね」
「またそれ?」
「ええ」
「まだ、よくわからない?」
「はい」
セオドアは少し笑った。
「じゃあ、もう少し会ってもらわないといけないな」
その言葉は、少し嬉しそうだった。
◇
それからしばらくして、リリアのもとへ、エルフォード公爵家の情報網から一つの報告が届いた。
ハーグ侯爵家の領地会計に、数年前から不自然な金の流れがあるという。
ハーグ侯爵は、セオドアの王太子就任に慎重な姿勢を示している有力貴族だった。
まだ証拠は揃っていない。
侯爵本人が関与しているのか、家臣の不正なのかもわからない。
ただし、王家がこの段階で公に調査へ入れば、それだけで侯爵家の信用には傷がつくだろう。
セオドアとのお茶の席で、リリアはふと思い出したように言った。
「そういえば、殿下。ハーグ侯爵様が、お困りなのではないかしら」
セオドアが顔を上げた。
「侯爵が?」
「領地のお金が、少しおかしいようですの」
「どこで知ったの?」
「うちの者が教えてくれました」
「侯爵本人が何かしているの?」
「そこまでは、まだわからないみたいです」
「そう」
セオドアの表情が少し真剣になった。
ハーグ侯爵は、自分の王太子就任に慎重な人物である。王家が調査に入ったという事実だけでも、政治的な打撃にはなるだろう。
リリアは心配そうに眉を下げた。
「侯爵様、ご自分ではお気づきではないのかもしれませんわね。殿下なら、お力になれるのでは?」
セオドアは少し考えてから頷いた。
「そうだね。教えてくれてありがとう」
数日後、侯爵領で、長年にわたり横領を続けていた会計官が捕らえられた。
侯爵本人には何の関与もなかった。
セオドアは侯爵家の名誉を必要以上に傷つけないよう調査を進め、証拠が揃ったところで会計官だけを正式に告発した。
王太子就任に慎重な有力貴族を弱らせる絶好の機会だった。
けれど、セオドアはそうしなかった。
「侯爵様を助けて差し上げたのですね」
後日、リリアが言うと、セオドアは不思議そうに首を傾げた。
「困っていたんだろう?」
「でも、殿下の王太子就任には、あまり賛成なさっていないのでしょう?」
「それとこれとは別だよ。僕に反対しているからって、していない罪まで負わせていい理由にはならない」
「また反対されたら?」
「そのときは、ちゃんと話をする」
「それでも反対されたら?」
「仕方ないね。僕が間違っているかもしれないし、侯爵には侯爵の考えがある。王太子になるなら、反対されることにも慣れないと」
リリアはしばらく彼を見ていた。
「殿下は、お優しいのですね」
「そうかな」
「ええ」
リリアが微笑むと、セオドアも笑い返した。
「リリア嬢にそう言われると、なぜか嬉しいな」
「あら。どうしてでしょう?」
「それがわからないから不思議なんだよ」
セオドアは笑った。
◇
ある日、お茶を飲みながら、セオドアがふと学院時代の話をした。
「君は、昔からあまり変わらないね」
「そうでしょうか?」
「うん」
「殿下は、学院にいたころの私をよくご存じなのね」
「同じ学院だったから」
「でも、あまりお話ししたことはありませんでしたでしょう?」
「兄上の婚約者だったからね。必要以上に話しかけるのは、よくないと思っていた」
「まあ」
「だから、見ているだけだった」
そこまで言ってから、セオドアは自分の言葉に気づいたらしい。
少しだけ困った顔をした。
「見て?」
「いや、その……学院にいれば、目に入るだろう?」
「そうですわね」
「そういう意味」
「そうなのですね」
リリアは素直に頷いた。
セオドアは、少しだけほっとしたようだった。
「冬に、学院の廊下で下級生がインク壺を落としたことがあったでしょう。君のドレスにもかなり飛んでいたのに、あの子が泣きそうになったら、自分の服より先に手を拭く布を渡していた」
「ああ。そんなこともありましたわね」
「それから、君のことを陰で笑っていた子がノートを忘れたときも、普通に貸していた」
「困っていらしたから」
「自分を馬鹿にしていた相手なのに?」
リリアは不思議そうに首を傾げた。
「でも、ノートとは関係ありませんでしょう?」
セオドアはしばらくリリアを見つめ、それから柔らかく笑った。
「そういうところが、昔から好きだったんだと思う」
リリアは瞬きをした。
「好き?」
「……人として、という意味で」
セオドアは少しだけ視線を逸らした。
「兄上の婚約者だったからね」
「そうですわね」
リリアは紅茶を一口飲んだ。
なるほど。そういうところが好きなのか。
人を疑わず、誰にでも親切で、嫌なことをされても気にせず、困っている人がいればすぐに手を差し伸べる。
皆が知っている、騙されやすいリリア・エルフォード。
セオドアも、そこを見ていたらしい。
政治の話をすると、あれほど人間の利害に敏いのに。
自分については、ほかの人たちと同じものを見て、同じように信じている。
その日を境に、リリアは、セオドアへの興味を失っていった。
◇
それからも、セオドアは変わらなかった。
権力を使うべき場面では、ためらわずに使う。
けれど、使えば自分が楽になるというだけでは使わない。
民衆からの人気も軽視しないが、人気を得るためだけに危険な場所へ自ら飛び込むような真似もしない。
「僕が怪我をしたら、護衛と医師と政務官まで余計に取られるでしょう。それなら、必要な人を先に送ったほうがいい」
そう言って、自分は王宮に残り、誰をどこへ派遣し、何をどれだけ送るかを決める。
善良だから、現実が見えていないのではない。
むしろ、よく見えている。
何をすれば評判が上がるのか。
誰の弱みを使えば政敵を減らせるのか。
どこで権力を使えば簡単に勝てるのか。
それを理解したうえで、必要でないなら選ばない。
王になる人間としては、申し分なかった。
「本当に、よい方で安心しました」
リリアの髪を梳きながら、ミーナが嬉しそうに言った。
「セオドア殿下?」
「はい。リリア様があれだけの大金を差し上げようとしても、ご自分のものになさらないんですから」
「そうね」
「ああいう方とご結婚なされば、リリア様がまた誰かに騙されそうになっても、きっと止めてくださいます」
「そうかもしれないわね」
リリアは鏡の中の自分を見た。
優しくて、賢くて、誠実で。
王となれば、多くの民を幸せにするだろう。
本当に、よい方だった。
もしこの人と結婚したなら、きっと毎日は穏やかで、何の心配もないのだろう。
そう考えると、本当につまらなかった。
◇
縁談の返事を求められる日が近づいたころ、公爵が何気なく尋ねた。
「それで、殿下との縁談はどうするつもりだ」
リリアは紅茶へ砂糖を一つ落とした。
「お断りしようかしら」
公爵の手が止まった。
「そうなのか?」
「ええ。まだ決めてはいませんけれど」
「何か問題でもあったのか」
「いいえ」
リリアは笑った。
「とても素敵な方ですわ」
「……そうか」
公爵はそれ以上聞かなかった。
リリアも、それ以上説明しなかった。
セオドアが悪いわけではない。
むしろ、あれほど王に向いた人間も珍しいだろう。
ただ。
金を差し出しても。
名声を差し出しても。
政敵の弱みを差し出しても。
この人は、一度も自分のために手を伸ばさなかった。
それに、彼が好いているのも、皆が知っているリリアだった。
優しくて、何も疑わず、人の悪意にも気づかない。
それを愛しいと思うのは、セオドアらしくて、とても善良だった。
◇
そのころ、アルベルトの処分について、最後の議論が続いていた。
彼の罪が消えるわけではない。
しかし、一部の王族や有力貴族には、王位継承権まで完全に奪うことには慎重な者がいた。
アメリアに惑わされて判断を誤っただけなのではないか。
本人に国を売る意思はなかった。
長く謹慎させ、十分に反省させたうえで、将来的な復帰の余地くらいは残してもよいのではないか。
第一王子を完全に廃嫡し、継承順位を動かすことのほうが国家を不安定にする。
そんな意見は、決して少なくなかった。
特に復帰派が頼りにしていたのは、
『アルベルトはアメリアに騙された。ただ、それだけなのだ』
という主張だった。
ところが、国王とごく限られた王族、重臣による最終審議のあと、アルベルトから王位継承権を完全に剥奪することが発表された。
最後まで復帰を唱えていた者たちも、それ以上は何も言わなかった。
何が決め手になったのか、詳しいことは公表されなかった。
国王が改めて第一王子本人の意思と反省の程度を確認した結果である。
明らかにされたのは、それだけだった。
そして、セオドアが正式に王太子となった。
◇
リリアとセオドアは、最初にお茶を飲んだのと同じ王宮の庭園にいた。
春だった庭には、もう初夏の花が咲いている。
今日は、縁談の返事をすることになっていた。
リリアの答えは、決まっていた。
セオドアは、とてもよい人だ。
だから、丁寧にお断りしよう。
「リリア嬢」
セオドアが足を止めた。
「はい?」
「縁談のことだけど、その前に僕から言わせてもらってもいい?」
「もちろんですわ」
セオドアは少し緊張しているようだった。
「僕は、君と結婚したい」
「王家のためですか?」
「それもある」
返事に迷いはなかった。
「エルフォード公爵家との婚姻には大きな政治的意味がある。君のお父上が支えてくだされば、政務もずっと安定する。王太子として考えても、君との結婚を望んでいる」
「そうでしょうね」
「でも、それだけじゃない」
灰色の瞳が、まっすぐリリアを見る。
「僕自身が、君と結婚したい。ずっと好きだったから」
リリアは目を瞬いた。
「ずっと?」
「学院にいたころから」
セオドアは少し照れたように笑った。
「兄上の婚約者だったから、何もするつもりはなかったけどね」
「そうなのですね」
「欲しいことと、取っていいことは別でしょう?」
やはり、この人はそういう人なのだ。
好きでも近づかない。
欲しくても取らない。
そして好きになったのは、皆と同じように、善良で騙されやすいリリア・エルフォード。
リリアは微笑んだ。
今から断ればよい。
そう思って口を開きかけたとき。
「でも」
セオドアが言った。
「返事をもらう前に、一つだけ話しておかないといけない」
「何でしょう?」
セオドアは、少し困ったように笑った。
「僕、一つだけ悪いことをしたんだ」
「あら。殿下が?」
リリアは少し驚いた。
もっとも、この人の言う悪いことなど、たかが知れているだろう。
「兄上の継承権がなくなった理由、詳しくは公表されなかったでしょう?」
「ええ」
「最後の審議の前に、兄上から僕へ手紙が来たんだ」
幽閉中のアルベルトには、国王の許可のもと、王族の近親者との私信だけは認められていた。
危険物の検査は受けるが、内容までは検閲されない。
その一通が、セオドアへ届いたのだという。
「兄上は、僕に父上への取りなしを頼んできた」
「まあ」
「自分はアメリア嬢に騙されただけだ。十分反省している。すぐに王太子へ戻せとは言わないけれど、せめて継承権だけは残してほしいって」
「それで、殿下は?」
セオドアは少し黙った。
「その手紙に、君のことも書いてあった」
「私?」
「うん」
セオドアの声は穏やかだった。
「兄上は、王太子へ戻るためにエルフォード公爵家の支持が必要なら、君との婚約を戻せばいいって書いてた」
リリアは瞬きをした。
「まあ」
「君なら難しいことはわからないから、以前と同じように扱えばいい。どうせ自分に逆らうような女ではないし、公爵家も娘が王太子妃になるなら王家に従うだろうって」
実にアルベルトらしい。
リリアは、それ以上何も思わなかった。
けれど、セオドアは違ったらしい。
「それを読んで、腹が立ったんだ」
初めて彼の声に、少しだけ硬いものが混じった。
「君のことを、人間じゃなくて、王太子の地位を取り戻すための道具みたいに書いていた」
「まあ」
「兄上は、君が戻ってくるのを当然だと思ってた。自分が欲しいと言えば、また婚約者になるものだって」
セオドアは視線を落とした。
「それが、すごく嫌だった」
いつも穏やかな灰色の瞳から、すっと光が消えた。
ほんの一瞬だった。
けれど。
リリアは初めて、その目から目を離せなくなった。
「それまで僕は、君を好きでも、何もしちゃいけないと思ってたんだよ。兄上の婚約者だったから」
先ほどと同じ言葉を。
今度は少し違う声で言った。
「欲しいことと、取っていいことは別だと思っていた」
「ええ」
「でも、あの手紙を読んだとき」
セオドアは、ゆっくり顔を上げた。
「兄上にまた君を渡すくらいなら、僕が欲しいと思った」
リリアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「それで?」
「兄上に返事を書いた」
セオドアは静かに続けた。
「父上を説得するためには、兄上が本当は何を考えているのか、僕が知らないといけない。だから、僕にだけ本音を全部書いてほしいって」
「殿下にだけ?」
「うん」
「誰にも見せないと?」
「そう書いた」
リリアは彼を見つめた。
セオドアは、アルベルトに嘘をついた。
「兄上は信じてくれたよ」
二通目の手紙は、最初のものとは比べものにならないほど長かった。
アメリアが外国勢力と通じていたとは、自分も知らなかった。
自分が間違えたのは、女を見る目だった。
次はもっと信用できる女を選べばいい。
将来、妃にするつもりの相手へ王家の事情を教えること自体が間違いだったとは、今でも思っていない。
王太子へ復帰すれば、自分を見捨てた重臣たちは時間をかけて入れ替えればよい。
リリアとの婚約を戻せば、公爵家の力も再び使える。
弟だけが読む。
そう信じていたから。
アルベルトは、何も隠さなかった。
「ずいぶん、いろいろ書いてくださったのですね」
「うん」
「それで?」
「父上に渡した」
リリアは、しばらく何も言わなかった。
「誰にも見せないと、お約束したのに?」
「うん」
セオドアはあっさり頷いた。
「父上と、最終審議に参加したごく一部の人だけが読んだ。兄上が何を反省していて、何を反省していないのかが、あれではっきりした」
最後まで残っていたアルベルト復帰の可能性は、その手紙で消えた。
世間は知らない。
復帰を支持していた貴族たちでさえ、第一王子本人の反省に重大な問題があったとしか聞かされていない。
弟にだけ見せるつもりだった手紙が、最後の致命傷になったことを。
アルベルト自身さえ、まだ知らないのかもしれない。
「最初から、そのおつもりだったの?」
リリアが尋ねた。
「二通目を書かせたときにはね」
「まあ」
「兄上なら、僕だけが読むと思えば、きっと本音を書くと思った」
セオドアは少し苦笑した。
「君を見ていて、思ったことがあったから」
「あら。私を?」
「君の前だと、みんなよく喋るでしょう?」
「そうでしょうか?」
「君なら怒らない。疑わない。そう思うと、みんな安心するんだと思う」
「まあ」
「もちろん、君自身はそんなつもりでやっているわけじゃないんだろうけど」
「ええ。本当にそうなら嬉しいですけれど」
リリアは柔らかく笑った。
セオドアも素直に頷いた。
「うん。そうだよね」
やはりそこは疑わないらしい。
けれど、今はもう、それすら先ほどまでとは少し違って見えた。
「でもね」
セオドアが言った。
「これを国のためにやった、って言ったら嘘になる」
リリアは顔を上げた。
「兄上を王太子へ戻すべきじゃないとは思っていたよ。でも、あの返事を書いたとき、僕は国のことなんて考えてなかった」
灰色の瞳が、まっすぐリリアを見る。
「兄上が君を馬鹿にして、自分のものみたいに書いているのを見て、腹が立った」
それから少しだけ。
恥ずかしそうに笑った。
「君を兄上に戻したくなかった」
「……」
「それまでは、好きでも欲しがっちゃいけないと思ってた。でも、あのとき初めて」
セオドアは小さく息を吐いた。
「君を自分のものにしたいと思ったんだ」
リリアは、何も言わなかった。
「だから、兄上の信頼を利用した。嘘をついて、本音を書かせて、その手紙を父上に渡した」
セオドアは、ほんの少しだけ困ったように眉を下げた。
「兄上が二度と君を取り戻せないようにした」
そして。
年相応の、どこか可愛らしい顔で笑った。
「一つだけ悪いことをしたんだけど、許してくれる?」
リリアは、しばらく彼を見つめた。
さっきまで、この縁談は断るつもりだった。
セオドアは善良だった。
賢く、現実をよく知り、そのうえで善いほうを選べる人だった。
きっと素晴らしい王になる。
夫になれば、きっと自分のことも大切にしてくれるだろう。
ただ、もう、興味がなくなりかけていた。
彼が見ていた自分も皆と同じだった。
何も疑わず、誰にでも親切で、少し騙されやすい公爵令嬢。
そこを愛しいと思う。
どこまでも、セオドアらしく善良な恋だと思った。
けれど。
どうやら。
それだけではなかったらしい。
この人は、自分が欲しくなっただけで、兄の信頼を利用した。
誰にも見せないと嘘までついて。
安心させて。
自分から本音を書かせた。
そして、誰にも気づかれないところで、兄が王太子へ戻る最後の道を、自分の手で塞いだ。
欲しいことと、取っていいことは別だと言っていた人が。
自分だけは取ろうとした。欲しいから。
リリアは、ゆっくりと目を細めた。
なかなかに、得難い。
「リリア嬢?」
黙っているリリアを見て、セオドアが少し不安そうな顔をした。
「怒った?」
「いいえ」
「本当に?」
「ええ」
リリアは、ふわりと笑った。
この人が、自分のために正しい道から外れたことは、確かだった。
なら。この先は、どうなのだろう。
こんなに面白い方を、ほかの誰かにお渡しするなんて。
やはり、少しもったいない。
「私、あなたと結婚しますわ」
セオドアが目を見開いた。
「……本当に?」
「ええ」
「よかった」
心の底から安心したように笑う。
その顔は相変わらず穏やかで、善良で。
自分が好きになった令嬢が、人を疑うことのできない、少し危なっかしい女性なのだと、今でも信じている。
リリアは、そんなセオドアを見上げて、いつものように優しく笑った。
ーーこの善良で、賢くて、どこまでもまっすぐな王子様は、自分のためなら、いったいどこまで落ちてくれるのだろう。




