第396話 伝統
ANVILには、発足してからまだそれほど時間が経っていない組織だが、すでに伝統と呼ばれているものがいくつかあった。
初めて挑む階層ボスには、ひとつ先の階層でボス戦を経験している探索者が二人同行する。挑戦するパーティーが自力で戦える間は手を出さず、戦線が崩れて自力での撃破が難しくなった場合だけ介入する、ANVILらしい安全策だった。
そこまではいい。
「……それ、見づらくありません?」
ボス部屋へ向かう前の装備確認で、若い探索者が補助役の一人を見ながら尋ねた。
全身の防具については、もう一人の補助役と大差ない。ただし頭だけが違う。顔を完全に覆うフルフェイスのヘルメットを被り、喉元には小型のボイスチェンジャーまで取り付けていた。
『見づらいですよ』
「見づらいんだ……」
『横がちょっと狭いし、足元も見にくいですね』
「じゃあ何でそれ被ってるんです?」
『訓練になりますから』
横で荷物を確認していたもう一人の補助役が、手を止めずに口を挟んだ。
「暗い場所とか煙とか、視界が悪い時の訓練にはなる。顔の防具が壊れることもあるだろうし」
「なるほど」
若い探索者は納得しかけて、もう一度フルフェイスを見る。
「ボイスチェンジャーも訓練なんですか?」
『それは伝統です』
「急に雑だ」
ANVILが初めての階層ボスへ補助を付けるようになったのは、安全管理のためだった。
経験者が一人いれば、通常なら補助役としては足りる。それでも初挑戦では二人を付け、一人が負傷者を守る側へ回っても、もう一人がボスを引き受けられる余裕を持たせている。
ボス部屋へ入れば、倒すまで外には出られない。
挑戦する側が崩れた時点で、補助役に求められるのは撤退の手助けではなく、そのままボス戦を引き継いで全員を生きて帰すことだった。そのため、片方が多少視界の悪い装備を使っても、安全面では最初から余裕を取っている。
問題は、だからといってフルフェイスとボイスチェンジャーを使う必要はどこにもないことだった。
「これ、最初にやったの誰なんです?」
別のメンバーが聞いた。
「最初?」
普通に顔を出している補助役がフルフェイスの方を見る。
「フルフェイスやろうって言ったのお前じゃなかった?」
『俺でしたっけ?』
「違ったか?」
『変声機を持ってきたのは、そっちだった気がします』
「ああ、それは俺だ」
「じゃあ二人じゃないですか」
「そうなる?」
『多分』
「適当だなあ」
発端になったもの自体はあった。
ANVILが今ほど大きくなる前、フルフェイスのヘルメットで顔を隠し、声まで変えた探索者が補助役として動いたことがある。それを実際に同じ現場で見た者もいれば、あとから話を聞いただけの者もいた。
「元になった人、強かったんですか?」
「俺が一緒だった時は強かったよ」
顔を出した補助役が答えた。
「誰だったんです?」
「知らない」
「一緒に行ったのに?」
「顔見えないし、声も変えてたからな」
「名前くらいは?」
「聞いてない」
若い探索者はフルフェイスの方も見る。
『俺はその現場にはいませんでしたよ。話を聞いただけです』
「じゃあ、本当に何も知らないんですね」
「そうだよ」
「それを真似したんですか?」
「見た目は格好よかったからな」
『ああ、それは覚えてます。格好いいからやろうって』
「そこだけ思い出すんだ」
最初に真似した時点では、一回きりの悪ノリに近かった。
ところが次のパーティーが初ボスへ挑む時、今度は別の古参がフルフェイスを被った。その次も誰かがやり、三回ほど続いたところで、いつの間にか補助役を決める際に「今回の仮面役は誰にする」という話が普通に出るようになった。
現在では、初めて階層ボスへ挑む側も存在だけは知っている。
理由までは、だいたい知らない。
「じゃあ、今日はいつも通りで」
補助役が確認表を閉じた。
「俺たちは後ろ。そっちで倒せるなら最後まで任せる。誰かが動けなくなっても、残りで続けられるならすぐには入らない。戦線が崩れたら俺たちが引き継ぐ」
『初回で綺麗に勝とうとしなくていいですからね。俺たちがいる分、まず相手の動きを見てください』
「そこは普通に真面目なんだよなあ」
「そこが真面目じゃなかったら、ただの変な集団だろ」
全員の水、救急用品、予備照明、武器の固定を確認してから、一行はボス部屋へ向かった。
出発を見送った槙野は、少し離れた机で書類を確認していた職員から声をかけられた。
「結局、あれ正式に残すんですか?」
「あれというと?」
「フルフェイスです」
「ああ……」
槙野は遠ざかっていく一行の最後尾を見た。加工された声で何か喋ったらしく、その前を歩いていた探索者が振り返っている。
「安全上の問題がないのであれば、もう好きにさせています」
「見づらいらしいですよ」
「それは聞いています」
「安全補助なのに?」
「そのために二人付けていますから。片方があれでも余裕は取っています」
「訓練にはなるって?」
「本人たちはそう言っていますね」
「ボイスチェンジャーは?」
槙野は書類へ視線を戻した。
「知りません」
「ギルドマスターが言っちゃ駄目なやつでは?」
「あれに合理的な説明を求めないでください」
職員は笑いながら、出発記録へ補助役二名の名前を入力した。
「でも伝統なんですよね」
「発足して何年も経っていない組織で、何を伝統と言っているんでしょうね」
「三回続いたら伝統らしいですよ」
「勝手に基準を作らないでほしいんですが」
槙野がそう言ったところで、廊下の向こうから低く加工された声が聞こえた。
『忘れ物しました』
少しして、フルフェイスの探索者だけが戻ってきた。
「何を忘れたんです?」
『予備バッテリーです』
「ボイスチェンジャーの?」
『はい』
「それがなくても探索には困らないでしょう」
フルフェイスの奥で、相手が一瞬黙る。
『伝統なので』
槙野は何も言わず、机の引き出しを開けた。
預かっていた予備バッテリーを差し出すと、フルフェイスはそれを受け取って、また廊下の向こうへ走っていった。




