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第35話 異常空間緊急事態宣言


 官邸地下の会議室に、いつもの余裕はなかった。


 壁際の大型モニターには、日本地図が映されている。赤い点、黄色い点、灰色の点。それぞれが、確認済みの異常空間、調査中の入口、誤認の可能性がある通報地点を示していた。


 赤い点は、すでに四十七を数えている。


 黄色い点は、その倍以上あった。


 相場総理は、机の上に置かれた資料へ目を落とした。表紙には、黒い太字でこう記されている。


 異常空間緊急事態宣言に関する対応方針。


 その下には、別の資料が重ねられていた。


 異常空間民間調査員制度 暫定運用案。


 どちらも、通常の政権運営であれば、何か月もかけて検討されるはずのものだった。有識者会議、法制局との調整、与党内審査、国会説明、予算措置、自治体との連携。いくつもの段階がある。


 だが、今はその時間がなかった。


「確認済みは、四十七か所」


 相場は静かに言った。


「はい」


 内閣危機管理監が答える。


「ただし、各自治体、警察、消防、民間事業者から上がっている未確定通報は、百二十件を超えています。誤認も含まれると見ていますが、すべてを現地確認するには人員が足りません」


「警察は」


 国家公安委員長が顔を上げた。


「封鎖と周辺警戒だけで手一杯です。都市部、地下鉄、商業施設、病院、工場、水路、山林。発生地点が散っています。人員を重点配置しても、未確認入口への通報対応が追いつきません」


「自衛隊は」


 防衛大臣の顔は、さらに険しかった。


「すでに複数の即応部隊を異常空間対応に回しています。ですが、これ以上国内対応に固定すれば、通常の警戒監視、災害派遣即応、離島防衛、在外邦人保護の準備に影響が出ます」


 会議室の空気が沈む。


 国内だけを見ていればいい状況ではない。誰もが分かっていた。


 異常空間は日本だけに出ているわけではない。公表している国もある。していない国もある。むしろ、していない国の方が問題だった。


 他国で大規模発生が起きた時、日本はいつ知るのか。


 避難民が出た時、どこで受けるのか。


 港湾、空港、海上警備はどうするのか。


 ダンジョン産品が密輸される可能性は。


 混乱に乗じて動く犯罪組織や工作員は。


 どれも、異常空間そのものとは別の問題だった。


 だが、現実には同時に来る。


「国内の入口に部隊を貼り付け続ければ、外を見る目が足りなくなります」


 防衛大臣は、はっきりとそう言った。


「現在の状況を、かなり乱暴に言います。国内の至るところに、無差別殺人を行うルール無用のゲリラが潜伏しているようなものです」


 誰も笑わなかった。


「しかも、いつ、どこから出るか分かりません。山奥だけではない。都市部にも出る。地下にも出る。商業施設にも出る。水路にも出る。そこに自衛隊と警察を逐一貼り付ければ、国全体の警戒態勢が削られます」


 相場は目を伏せた。


 表現は過激だった。


 だが、間違ってはいない。


 異常空間の入口を一つ放置すれば、そこから敵性生物が出る可能性がある。仮に外へ出ないとしても、民間人が入れば死ぬ。運良く戻っても、未知の物品を持ち出すかもしれない。感染、毒性、身体変化、精神影響。どれもまだ分からない。


 分からないものが多すぎる。


 そして、分からないから待つ、という選択肢はもう消えかけていた。


「水門の公式配信の影響は」


 相場が尋ねる。


 広報担当の官僚が資料を開いた。


「視聴数は想定を大きく上回っています。大型スライム、下層の虫型、三方向射撃による処理映像は、抑止効果も確認できます。一方で、未確認入口を探す投稿も増えています」


「見せても増える。隠しても増える」


「はい」


 広報担当は表情を変えなかった。


「完全には止められません。特に、配信者、廃墟探索者、いわゆる探索志望者の一部は、危険性を知った上で近づきます」


「禁止だけでは止まらない」


「止まりません」


 即答だった。


 相場は、机の上の制度案を指で押さえた。


「ならば、制度の外で死なせるより、制度の内側に入れる」


 会議室の何人かが、わずかに視線を落とした。


 誰も、それを好ましいとは思っていない。


 民間人を異常空間に入れる制度。


 普通なら、政府が最も避けるべきものだった。


 だが、現実はすでに先へ進んでいる。勝手に入る者がいる。通報せずに持ち帰る者がいる。ネットで場所を晒す者がいる。魔石やポーションという言葉に釣られて、人生を賭ける者がいる。


 ならば、完全禁止だけでは足りない。


「等級は五段階で行きます」


 危機管理監が説明を始めた。


「五級から一級まで。すべて、異常空間内へ入域する民間調査員の等級です。外部支援、広報同行、研究同行は別枠とします」


「五級でも中へ入るのか」


 厚生労働省の担当者が眉をひそめた。


「入ります。ただし、管理済みの浅層区域に限ります。活動時間、装備、申告義務で縛ります」


「同行者は必須ではないのか」


 国家公安委員長が問う。


「原則として複数行動を推奨します。しかし、全等級に同行者必須を課すと、人員不足の解消になりません」


 危機管理監は淡々と答えた。


「五級は管理済み浅層のみ。四級は浅層での記録・採取。三級は小型敵性生物への対処を含む浅層調査。二級は中層入口、閉鎖型空間への参加。一級は高危険区域、未踏破区域への参加。詳細は公布資料に回しますが、基本はこの五段階です」


「安全は保証できない」


 厚労省の担当者が言った。


「できません」


「救助も」


「即時救助は保証できません」


 その言葉が、会議室の中央に落ちた。


 民間人を入れる。


 だが、生還は保証しない。


 それは、制度としてあまりにも冷たい。


 だが、異常空間そのものがそういう場所だった。


 相場は静かに言った。


「会見では、そこを曖昧にしない」


 全員が相場を見る。


「登録は安全の保証ではない。入域は死亡、重傷、行方不明の危険を伴う。救助は可能な限り行うが、生還は保証できない。そこは明確に言います」


「批判されます」


 官房長官が言った。


「されるでしょうね」


 相場はすぐに返した。


「ですが、隠せばもっと悪い。自己責任という言葉を、逃げとしては使いません。危険を理解した者だけを制度内に入れる。そのために使います」


 会議室は静かだった。


 相場の声だけが続く。


「武器管理は」


 国家公安委員長が資料を開く。


「原則、現地貸与です。個人装備を認める場合も、指定ロッカーへ保管させます。街中での常時携帯は認めません。外部持ち出しには、等級、持ち出し理由、持ち出し先、返却予定、管理責任者の承認が必要です」


「ダンジョン産武器は」


「全量申告対象です。無断所持、無断持ち出しは処罰対象。ただし、制度開始後一定期間は自主申告による処分軽減を設けます」


「隠されるより出させる」


「はい」


 相場は頷いた。


 完璧な制度ではない。


 穴だらけだ。


 それでも、今必要なのは、完璧な箱ではなく、こぼれ落ちるものを受け止める網だった。


「一時間後に会見を開きます」


 相場が言うと、会議室の空気が一瞬揺れた。


 早すぎる。


 そう思った者は多かった。


 だが、誰も反対しなかった。


 早すぎるくらいでなければ、追いつけない。


 その日の昼、全国のテレビ画面に速報が流れた。


 通常番組が切り替わり、報道スタジオのアナウンサーが緊張した声で原稿を読む。


『政府は本日、国内で相次ぐ異常空間の発生を受け、異常空間緊急事態を宣言しました。あわせて、民間人を対象とした異常空間民間調査員制度の暫定運用を開始すると発表する見通しです』


 画面が官邸会見室へ切り替わる。


 相場総理が、会見台の前に立っていた。


 髪を後ろでまとめ、濃紺のスーツに身を包んでいる。表情は硬い。だが、声は崩れていなかった。


『政府は本日、国内における異常空間の相次ぐ発生と、未確認入口への無断侵入事案の増加を受け、異常空間緊急事態を宣言いたします』


 記者席がざわつく。


 シャッター音が続いた。


『まず、国民の皆様に強く申し上げます。未確認の入口を発見した場合、絶対に立ち入らないでください。速やかに警察、自治体、または指定窓口へ通報し、その場を離れてください』


 画面下のテロップが変わる。


【速報】政府、異常空間緊急事態を宣言


【速報】異常空間民間調査員制度を暫定運用へ


【速報】無登録侵入・無断持ち出しに罰則強化


 相場は一度、言葉を切った。


 その目が、カメラの向こうにいる国民をまっすぐ見据える。


『そして、もう一つ。政府を代表して、率直に申し上げます』


 会見室の空気が変わった。


『政府だけでは、対応しきれません』


 記者席が揺れた。


 その言葉は、あまりにも重かった。


 総理大臣が、全国へ向けて、国の力だけでは足りないと認めたのだ。


『警察も、自衛隊も、消防も、自治体も、研究機関も、今この瞬間も全力で対応にあたっています。ですが、異常空間は、山奥だけに現れるものではありません。都市部にも、地下鉄にも、商業施設にも、病院にも、工場にも、水路にも、私たちの日常のすぐ隣に現れています』


 相場の声は震えていなかった。


 だが、抑え込んだ感情が、その奥にあった。


『国内すべての入口に警察官を置くことはできません。すべての異常空間に自衛隊を常駐させることもできません。国内対応にすべての力を割けば、災害対応、国境警備、在外邦人保護、そして他国で発生するかもしれない大規模異常事案への備えが薄くなります』


 会見室が静まり返っていた。


『これは、単なる新しい災害ではありません。単なる資源問題でもありません。今、私たちは、戦後この国が経験してきたどの危機とも異なる、国家存亡に関わる局面に立っています』


 その言葉に、記者たちの手が止まった。


 国家存亡。


 総理の口から、その言葉が出た。


『国内の至るところに、いつ人を襲うか分からない敵性存在が潜んでいる。どこに入口が開くか分からない。誰がそこへ入ってしまうか分からない。何が持ち出されるか分からない。国外で何が起きているかも、すべては見えていない』


 相場は拳を握らなかった。


 声を荒げもしなかった。


 ただ、言葉だけが、まっすぐだった。


『それでも、私たちはこの国を守らなければなりません』


 会見室の奥で、誰かが息を呑んだ。


『政府は、異常空間民間調査員制度の暫定運用を開始します。本制度は、登録された民間調査員が、国または指定管理者の管理下で、異常空間に関する記録、探索、採取、地図作成、危険情報の収集を行うものです』


 そこで、相場の声が少し低くなる。


『これは、冒険や娯楽ではありません』


 短い言葉だった。


 だが、その一言だけで、空気が締まった。


『本制度は、危険をなくすものではありません。登録は、安全を保証するものではありません。異常空間への入域は、死亡、重傷、後遺障害、行方不明、未知の感染または身体変化の危険を伴います。政府および指定管理者は救助活動を可能な限り行いますが、即時救助および生還を保証するものではありません』


 テレビの前で、それを見ていた人々は言葉を失った。


 制度開始の発表としては、あまりにも冷たい。


 だが、だからこそ現実味があった。


『危険を知らずに向かえば、死にます。危険を軽く見れば、帰れません。これは脅しではありません。政府が、これまでの被害と現場の報告から導き出した事実です』


 相場は、そこでわずかに息を吸った。


『それでもなお、関わろうとする方がいます。危険を知った上で、記録したい、調査したい、助けたい、知りたい、役に立ちたいと考える方がいることを、政府は知っています』


 記者席のざわめきが消えていた。


『本来であれば、政府がすべてを担うべきです。警察が守り、自衛隊が封じ、研究機関が調べ、国が責任を持つべきです』


 相場の声が、ほんの少しだけ変わった。


『ですが、足りません』


 それは、二度目の告白だった。


『人も、時間も、情報も、足りません。だから、お願いします』


 相場は、初めて資料から完全に目を離した。


 そして、カメラの向こうの国民へ向けて言った。


『この国の力を、貸してください』


 会見室の誰も、動かなかった。


『私は、この国を信じています。大きな災害のたびに、立ち上がってきた人々を知っています。知らない誰かのために手を伸ばす人を知っています。壊れた街を、また生活の場所に戻してきた人々を知っています。逃げずに現場へ向かった人を、支えた人を、記録した人を、届けた人を、私は知っています』


 相場の声は、抑えられていた。


 それでも、熱があった。


『私が愛してきた日本は、国だけでできた国ではありません。そこに住む一人一人が、何度も踏みとどまってきた国です』


 記者席にいた誰かが、ゆっくりとペンを置いた。


『今一度、その底力を貸してください』


 相場は頭を下げなかった。


 だが、その言葉は、頭を下げるより重かった。


『ただし、無謀であってはなりません。命を粗末にしてはなりません。勝手に入り、勝手に死ぬことを、勇気とは呼びません。危険を理解し、手順に従い、記録し、申告し、帰還する。その覚悟を持つ者だけを、政府は異常空間民間調査員として登録します』


 記者が手を挙げた。


「総理、これはいわゆる探索者制度という理解でよろしいのでしょうか」


 会見室がざわついた。


 相場は一拍置いた。


『正式名称は、異常空間民間調査員制度です』


「ですが、世間では探索者制度と呼ばれる可能性があります」


『呼び方について、政府が国民の皆様の表現を制限するものではありません。ただし、本制度の目的は探索そのものではなく、調査と安全確保です』


 別の記者が続ける。


「民間人を危険区域へ入れることについて、政府の責任はどのようにお考えですか」


 相場は、その記者をまっすぐ見た。


『政府が民間人を危険へ向かわせるのではありません』


 会見室の空気が張り詰める。


『すでに、危険へ向かう人々がいます。政府は、その事実を見なかったことにはできません。禁止だけで止まらないのであれば、制度の内側へ入れ、記録し、装備を管理し、帰還の可能性を高める。それが政府の責任です』


「自己責任ということでしょうか」


 別の記者の声が飛ぶ。


 相場は小さく頷いた。


『自己責任という言葉を、政府が責任を放棄するために使うつもりはありません。しかし、異常空間へ入る者は、自らの判断で危険を引き受けることになります。その事実を曖昧にはしません』


 さらに質問が飛ぶ。


「等級はどのようになりますか」


『五級から一級までを設けます。詳細は本日中に公表する暫定要項で示します。すべての等級が異常空間内へ入域する資格に関わります。広報、研究、外部支援については別枠です』


「武器の扱いは」


『街中での常時携帯は認めません。原則として現地貸与、または指定保管庫での管理とします。外部へ持ち出す場合は、等級、持ち出し理由、管理者の承認が必要です。ダンジョン産の武器類についても、すべて申告対象となります』


 相場は一度、言葉を切った。


 そして、最後にもう一度、国民へ向けて言った。


『未確認の入口を見つけたら、入らないでください。通報してください。離れてください』


 その声は冷静だった。


 だが、冷たくはなかった。


『それでも異常空間に関わろうとするのであれば、制度の外ではなく、制度の内側へ来てください』


 相場は、最後にもう一度だけカメラを見た。


『この国を守るために、力を貸してください』


 会見はそこで終わった。


 その数分後、国内のニュースサイトも、SNSも、動画サイトも、一斉に同じ言葉で埋まり始めた。


 異常空間民間調査員制度。


 探索者制度。


 五級調査員。


 一級調査員。


 自己責任。


 救助保証なし。


 指定ロッカー。


 武器持ち出し禁止。


 魔石申告。


 そして、海外の報道も動き始めた。


『Japan declares abnormal-space emergency』


『Civilian investigator system launched under emergency measures』


『Japan moves faster than expected on dungeon response』


 ある海外ニュースの解説者は、驚きを隠さずに言った。


「日本がこの速度で民間調査員制度を暫定運用するのは異例です。通常ならば、審議、試験運用、段階導入を経るでしょう。それを緊急事態宣言と同時に開始した。これは、日本政府が状況を相当深刻に見ている証拠です」


 別の国の外交関係者は、非公式にこう漏らしたという。


「まじかよ日本」


 官邸の廊下では、相場が会見室から戻ってきていた。


 官房長官が隣に並ぶ。


「始まりましたね」


「始めてしまった、と言うべきでしょうね」


 相場は短く答えた。


「制度は穴だらけです」


「知っています」


「批判されます」


「それも知っています」


「それでも、ですか」


 相場は足を止めた。


 廊下の先に、次の会議室がある。


 そこでは、すでに次の資料が用意されているだろう。登録受付、装備保管、通報窓口、自治体説明、海外照会、国会対応。終わるどころか、始まったばかりだった。


「穴の外で人が死ぬよりはいい」


 相場はそう言って、再び歩き出した。


 その頃、テレビの画面には、もう別の見出しが流れていた。


【速報】探索者制度、暫定開始へ


 正式名称ではない。


 政府が選んだ言葉でもない。


 だが、世間はもう、その名前で受け取っていた。


 異常空間は、見つけたら通報するだけのものではなくなった。


 そこへ入る道が、制度として開かれてしまった。


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