第341話 先客
槙野から渡された小箱には、襟へ留めるマイクと小型の外部スピーカー、それから予備電池が二本入っていた。
「今回から使ってください。前回の記録を見たら、石橋さんたちがあなたの意図を推測して動いている場面が何度かありました」
「通じてたと思いますが」
「さすがにボディランゲージじゃ不便ですよ」
取りつけたマイクへ試しに声を入れると、フルフェイスの顎下に固定したスピーカーから、年齢も性別も拾いにくい声が出た。戸張の耳には自分の話し方がそのまま残っているため、余計に落ち着かなかった。
「これ、喋り方で分かりません?」
「知っている人が聞けば可能性はあります。なので余計なことは喋らず、緊急時と意思確認に限定してください」
「前回と変わらない気が」
「声が出るだけ進歩です」
槙野は貸出台帳へ機器番号を書き込み、最後にフルフェイスの側面を軽く押した。
「破損させた場合は報告してください。失くした場合もです」
「弁償じゃなくて?」
「いや、さすがに頼み事する側なので弁償なんてさせませんよ」
今回、戸張が同行するのはANVILの四層攻略班だった。六人のうち亀山は含まれておらず、四層ボスへの挑戦経験がない者を中心に組んだ班である。槙野から頼まれた役割はこれまでと同じで、戦闘へ口を出さず彼らの判断で進ませ、本当に命へ届く時だけ介入する。
戸張は山刀も専用装備も持ち込まず、小人の拠点で余っていた分割防具から身体に合う物を組み直していた。胸と腹を覆う灰褐色の板、肩を邪魔しない腕当て、膝下までの脚甲。武器は短柄の片刃戦斧で、刃の反対側には平たい槌面がついている。
どちらも戸張専用ではなく、小人が試作したまま保管していた物だ。人間用としては少し癖があったが、普段の装備と結びつけられにくい点では都合がいい。
新しく管理対象になったダンジョンは、郊外の閉鎖された植物研究施設の地下から見つかっていた。一層は根が剥き出しになった土の通路、二層は浅い水路が走る石造区画、三層は白い菌糸に覆われた空洞。四層へ降りると菌糸は途切れ、黒い木の幹に似た柱が並ぶ広間へ変わる。
既存の記録では、枝角を持つ大型四足型が四層ボスとして登録されていた。ANVILの六人は一層から役割を崩さず、先頭の盾役が通路幅と床の状態を伝え、長槍を持つ二人が左右を確認する。後方の二人は照明と退路を見て、中央の一人が全員の疲労と装備を記録していた。
敵との接触もあったが、戸張が武器へ手をかける場面は訪れなかった。三層で白い菌糸の下から細い虫型がまとまって出た時も、先頭が退き、長槍二本が通路を塞いだ。後方から油を含ませた布を投げ、火ではなく薬剤の煙で菌糸ごと動きを鈍らせる。戦闘を長引かせず、通行に必要な範囲だけを処理して先へ進んだ。
「余裕ありますか」
四層へ入る前、記録担当が全員へ確認した。
「盾、問題なし」
「右腕、軽い張り。動作には影響なし」
「水、残り七割」
「予備灯、二つ」
最後に戸張へ視線が向く。
「問題ありません」
加工された声が通路へ響くと、六人のうち二人がまだ慣れない様子でこちらを見た。
「喋るとびっくりするな」
「私もまだ慣れていません」
「そこ丁寧なんですね」
「必要な会話だけにしてください」
槙野から言われた通りに返すと、班の後方で笑いが起きた。
四層では、黒い柱の間を小型の獣型が走っていた。足音をほとんど立てず、柱の影から影へ移るが、ANVIL側は追わない。目的はボス戦であり、余計な消耗を避ける方針が最初から共有されている。
六人の後ろを歩く戸張にとって、前回より楽な仕事だった。見守る側が何もする必要がないのは良いことだ。槙野にそう報告すれば、また記録項目が増えるかもしれないが、それもANVILらしい。
四層ボス部屋へ続く通路へ入ったところで先頭が足を止め、奥から硬い物同士がぶつかる音が聞こえてきた。一度では終わらず、短い間隔で二度、三度と続き、何かが床へ落ちた音へ人間の怒鳴り声が重なる。
「先客?」
盾役が腰の端末を開く。記録担当も自分の端末を確認し、数秒後に顔を覆った。
「うわあ……やった」
「何」
「入場名簿にABYSS LINEの五人班がいる。四層まで来る班なんてそう重ならないと思って、当日の入場だけ見て時間帯まで確認してなかった。……説教二時間コース確定だ」
「向こう、早かったのか」
「たぶん三層を予定より早く抜けてる」
誰かが責める前に、記録担当は端末を胸元へ戻した。
「私の確認不足です。ボスの横取りはしません。帰路の余力を確認して、このまま撤退します」
全員が短く了承し、戸張も引き返そうとした。しかし、開いたままのボス部屋の境界越しに、床へ残された太い枝角が見えた。そのそばには折り畳まれた黒い毛皮と拳大の魔石があり、いずれも事前資料に載っていた四層ボスのドロップと一致している。
「待ってください」
六人の足が止まった。
戸張は通路の奥へ顔を向けたまま、音を拾う。金属音の向こうで何か重い物が床を擦っていた。人間の声も複数あるが、戦っている者の掛け声に混じり、息を吐き切れず喉へ引っかけるような声が二つ聞こえる。鼻を通す空気には、土と菌糸の匂いより濃い血臭があった。
通常ボスは既に倒され、ドロップも出ている。その奥で別の何かが動いていた。リッチが本来のボスを消して居座っていた時のことが浮かび、通常個体とは異なる相手と遭遇した記憶が続いた。
「あれ、ユニーク戦かも」
「え?」
「床にある枝角と毛皮が、ここの通常ボスのドロップです」
ANVILの六人が一斉に部屋の奥を見る。境界の角度からでは、戦っている相手の全身までは見えない。黒い柱のような脚が一度横切り、その直後に人間が叫んだ。
「右、来る!」
「止める、下がれ!」
続いた衝撃で部屋の中から石片が飛んでくる。戸張が血の匂いをもう一度確かめると、二人分が濃かった。そのうち片方は、呻き声の間隔が急に長くなっている。
「中を確認します」
「待ってください、入ったら出られません」
「分かっています」
「なら俺たちも」
「ここで待機してください。追加入室はしないでください」
加工された声でも、戸張の言い方が変わったことは伝わったらしい。盾役が何か言いかけたところで、記録担当がその腕を掴んだ。
「安全装置の判断です。従います」
「中で何が起きてるか分からないぞ」
「分からないから、私たちは入らない」
その答えを聞いた戸張は境界を越えた。空気が一段重くなり、部屋の中央に散らばった太い枝角、黒い毛皮、魔石が見える。そのドロップを挟むようにして、五人の探索者と別の個体が戦っていた。
個体は天井へ届きそうなほど背が高く、黒い節を重ねた四本脚の上に細い胴体が立っている。両腕は肘から先が扇状に広がり、黒い刃が何枚も重なっていた。頭部に目らしい器官はなく、縦に裂けた白い線が一本だけ走っている。
床には二人が倒れていた。一人は大型の両手斧を握ったまま、腹から腰にかけて防具を裂かれている。もう一人は短槍を手放し、胸の横を押さえて身体を丸めていた。二人のそばで小柄な人物が止血を続け、残る二人は仲間へ近づけさせまいと個体の前へ立っている。
「誰だ!」
片手剣を持った女が、戸張へ怒鳴る。
「ANVILです。救援に入ります。倒れている二人は生きていますか」
「生きてる! けど、長くは持たない!」
小柄な救護役が声を返す。その横で細身の槍を構えた男は、戸張より先に個体の変化を見ていた。
「待て、こいつ……」
ユニーク個体はアビスの五人から距離を取り、扇状の腕を下げて四本脚をゆっくり開いた。白い線が戸張の方へ向き、傷ついた三人には見向きもしなくなる。
「警戒してる」
「助かります。三人とも、倒れている二人のそばへ」
「命令するな!」
片手剣の女が反射的に返した。
「なら、そのままでも構いません。攻撃に巻き込まれない位置へ移動してください」
「リナ、下がるぞ」
槍の男が女の肩を押した。
「今は従え。あれの注意が完全に移った」
救護役が二人を庇う位置へ身体を寄せる。片手剣の女は舌打ちしながらも後退し、槍の男だけが少し離れた場所で様子を見た。
戸張は片刃戦斧を抜きながら、本来ならもう少し相手の動きを見たかったと考えた。通常ボス撃破後に出現したのか、最初から部屋の中に潜んでいたのか。どの感覚で相手の危険度を測り、なぜ戸張を優先したのか。興味は尽きなかったが、背後では二人の呼吸が弱くなっている。
「手早く済ませるか」
ユニーク個体の四本脚が沈み、次の瞬間には扇状の右腕が戸張の首へ迫った。戸張はその内側へ踏み込むと、片刃戦斧を横へ振り抜いた。
刃は細い胴体を外殻ごと断ち、勢いを失わないまま反対側へ抜けた。上半身が遅れてずれ、四本脚の間へ落ちていく。
戸張は片刃戦斧を右手に残したまま、崩れた胴体の切断面へ左手を押し当てた。
白い糸が手袋の内側から入り込み、黒い肉の奥へ潜る。寄生体が核を捉えた感覚は一瞬で強まり、ダンジョンによる吸収が始まるより早く、その中枢へまとわりついた。
核が白い糸へ溶け込んでくる。
四本脚と扇状の腕が黒い粒子へ崩れ、床へ届く前に形を失った。胴体も戸張の手元から薄れていき、最後には数枚の外殻と黒い魔石だけが残る。
アビス側から声が消えた。
「……い、一撃」
戸張は左手を握り、寄生体の奥へ沈んだ新しい感覚をいったん脇へ置いた。能力の確認より、今は倒れている二人が先だった。
「状態を」
救護役の手は血で濡れていた。
「斧の方は腹部損傷、意識が落ちかけてる。もう一人は胸の横を貫かれて、呼吸が浅い。ポーションは通常品しか残ってない」
「二人とも脈はありますか」
「ある。弱いけど、ある」
戸張が収納袋から赤いポーションを二本取り出すと、片手剣の女が目を見開いた。
「良いのか?」
「確認は後で」
腹部を裂かれた男の口へ一本目を流し込み、もう一本を短槍の男へ使う。飲み込めない分は傷口へかかり、透明な容器の中身が急速に減った。裂けていた防具の下で血が止まり、開いた肉が内側から繋がっていく。
短槍の男が大きく息を吸い、激しく咳き込んだ。
「痛っ……生きてる?」
「動くな!」
救護役が怒鳴る。
「生きてるなら良かった」
「良くない! 今まで死にかけてたんだぞ!」
陽気な声の男は笑おうとして、また咳き込んだ。
腹部を裂かれていた男も数秒遅れて目を開け、自分の腹へ手を当ててから、ユニーク個体が消えた場所を見た。
「誰が倒した」
「あの人」
片手剣の女が戸張を指すと、男は起き上がろうとした。しかし、救護役に肩を押さえられる。
「寝てろ」
「もう治ってる」
「治った直後に暴れるな!」
槍の男は周囲を確認してから、ようやく武器を下ろした。
「助かった。俺は黒瀬。ABYSS LINE所属、この班の指揮を取っている」
「ANVIL所属です。名前は伏せさせてください」
戸張が答えると、黒瀬はフルフェイスと加工音声を一度だけ見比べた。
「分かった。今はそれでいい」
「今はって何だ」
片手剣の女が言う。
「後で正式な窓口から話を通す」
「勧誘する気じゃねえか」
腹部を裂かれていた男は身体を起こし、救護役の手を振りほどいた。
「俺は榊。こっちは片瀬、治療してるのが長谷。そこで咳してるのが八木」
「紹介する前に寝かせてください」
長谷は弱い声で抗議しながら、榊の腹部をもう一度確認した。片瀬は戸張の装備を上から下まで眺めている。
「その装備もANVIL製?」
「答えられません」
「武器も?」
「同じです」
八木が床へ仰向けになったまま手を上げた。
「質問、命の恩人割引で連絡先くらい駄目?」
「助けられた側が? 駄目です」
「はは、即答だ」
通常ボスのドロップが散らばる奥で石壁の一部が動き、低い振動とともに宝箱がせり出した。その上へ細長い巻物が一本落ち、箱の中には赤い液体を入れた容器が二本並んでいる。
「赤が二本……」
長谷の呟きに続いて、榊が戸張を見た。
「あんたが倒した。全部持っていけ」
戸張は赤いポーション二本を回収した。先ほど使った分がそのまま戻った形だが、戦闘前には期待していなかった補充である。
「それでいいのか?」
黒瀬が宝箱の上に残った巻物を見た。
「スクロールは、そちらで」
「倒したのはあなたです」
「死にかけて何も持たず帰るのは気の毒です」
榊が眉を寄せた。
「気の毒でスクロール譲る奴がいるかよ」
「ここに」
「今見たから否定できねえな」
八木が口を挟み、長谷にまた寝かされた。
黒瀬はしばらく巻物と戸張を見比べてから、箱の上から取り上げた。
「借りにします」
「返却先は教えません」
「ANVILなら窓口は分かる」
「返しに来なくていいです」
片瀬が笑った。
「アビスへ来る気は?」
「ありません」
「そう。残念」
食い下がる様子はなく、そこでボス部屋の境界が開いた。外で待っていたANVILの六人が姿を見せ、記録担当は通常ボスのドロップ、ユニーク個体が消えた場所、回復した二人の順に部屋の中へ目を動かす。
「救援が必要な状態でしたか」
「はい。二名へ赤いポーションを使用しました。現在は全員歩けます」
加工音声で伝えると、ANVIL側は事情を察したらしい。記録担当は自分たちのボス戦が消えたことへ触れず、アビス側へ頭を下げた。
「名簿の確認不足で、同じ時間帯に四層へ入ってしまいました。戦闘へ割り込む意図はありませんでした」
「こっちは助かった。謝られる話じゃない」
黒瀬が答える。
片瀬はANVILの六人を見回し、すぐ戸張へ視線を戻した。
「この人、ANVILの?」
「今回は安全装置として同行してもらっています」
記録担当はそこまで答え、続く問いを先回りした。
「氏名、普段の活動、装備についてはお話しできません」
「了解」
黒瀬が片瀬を見たため、それ以上の詮索は続かなかった。
帰路ではアビスの五人もANVILの隊列に加わった。赤いポーションで傷そのものは塞がっていても、装備の破損と戦闘後の確認は残っている。榊と八木は中央へ置かれ、長谷が二人の状態を見ながら歩いた。
しばらくして、八木が戸張の戦斧へ視線を向けた。
「一発で終わりましたよね」
「急いでいましたから」
「とんでもない人がいたもんだ……」
榊も腹部の壊れた防具を押さえながら口を挟む。
「アビスなら、もっと強い相手と戦えるぞ」
「勧誘は断りました」
「分かってる。言ってみただけだ」
黒瀬が後ろから榊の肩を叩いた。
「救助された直後に他所の所属者を引き抜こうとするな」
「強い奴を見たら声くらいかけるだろ」
「一度でやめろ、馬鹿」
榊は不満そうな顔をしたが、今度は黙った。代わって長谷が戸張へ頭を下げる。
「二人を助けてくれて、本当にありがとうございました。ポーションまで使わせてしまって」
「宝箱から戻ってきたので、結果としては減っていません」
「出ると分かって使ったわけじゃないでしょう」
そこは否定できず、戸張は返事をしなかった。
三層へ降りる手前で黒瀬が横へ並んだ。
「スクロールはありがたく受け取る」
「その方が良いです」
「勧誘も、今後は正式な窓口から一度だけにする」
「それは結構」
「一度だけだ」
戸張はフルフェイスの内側で眉を寄せたが、黒瀬はそれ以上続けなかった。
地上へ続く階段が見える頃には、八木も黙り、榊は破損した防具の留め具を気にし始めていた。ANVIL側は帰還後の報告順を確認しながら、名簿の照合項目を次回から増やす相談をしている。
出口の光へ先に到達した戸張は、フルフェイスの内側で息を吐いた。安全装置としての仕事は果たしたものの、助けた相手も持ち帰る物も当初の予定から大きく外れている。
命を救い、スクロールまで譲った相手なら、ANVIL側で何か起きた時には力を貸してくれるかもしれない。槙野へ報告すれば、その点まで抜けなく書面へ加えるだろう。




