第306話 未熟な隠しダンジョン
カンガルーに似た魔物は、殴り合うための前脚を持っていない。
胸元に寄せた短い腕は、こちらを掴む時にしか使わず、仕留めにくるのは太い後脚だった。晴斗が鉄パイプを横へ引いた直後、包丁の刃先があった場所を灰色の足裏が通り抜ける。蹴りは背後の石柱へ当たり、人の頭ほどの破片を床へ落とした。
「今日も元気だな、お前」
結城晴斗は砕けた石を踏まないよう横へ回った。
高校一年生が一人で持ち込める装備には限界がある。右手には、台所の包丁を金属線と布テープで鉄パイプへ固定した槍。左腰には二層の宝箱から出た小型ナイフを差している。防具は厚手のパーカーの下へ入れた作業用ベストと、通販で買った肘当てと膝当てだった。
カンガルー型が尾を床へ当て、身体を後ろへ傾けた。
次の蹴りが来る。
晴斗は鉄パイプを構えながら、壁際へ二歩寄った。魔物は正面から距離を詰め、片脚を持ち上げる。晴斗が横へ逃げると、蹴りは壁へ当たったが、カンガルー型はもう片方の脚を振り上げていた。
「二回目があるんだよな」
逃げた先へ来る蹴りを、鉄パイプの柄で受ける。
両手が持ち上がり、鉄パイプが胸元まで押し戻された。晴斗は逆らわず後ろへ倒れ、背中が床へ着く前に片脚で魔物の腹を蹴った。
相手はほとんど動かない。
晴斗の身体だけが床を滑り、距離が開いた。
「知ってた」
起き上がるより先に鉄パイプを突き出す。
追ってきたカンガルー型の胸へ包丁が当たり、刃先が毛皮を裂いた。魔物が柄を掴もうと短い前脚を伸ばす。晴斗は鉄パイプを手放し、相手が勢いを余らせたところへ潜り込んだ。
腰の小型ナイフを抜き、前脚の付け根へ刺す。
魔物が身体を捻ると、晴斗も腕ごと振り回された。ナイフを抜けば蹴りが来る。離さなければ、このまま壁へ叩きつけられる。
晴斗は魔物の脇へ足を掛け、先に自分から跳んだ。
相手が向きを変えた勢いに乗り、背中側へ回り込む。着地した時には手からナイフが抜けていたが、鉄パイプは魔物の足元へ転がっている。
「そっちは勘弁!」
カンガルー型が鉄パイプを踏む前に、晴斗は横から滑り込んだ。柄を掴み、床に寝たまま包丁の先を腹の下へ向ける。
魔物の後脚が振り下ろされる。
晴斗は鉄パイプを両手で押し出した。
包丁が腹へ食い込み、後脚は晴斗の顔から拳一つ分ほど離れた床を叩いた。石の粉が頬へ飛び、目を閉じた間にも柄へ重量が乗ってくる。
「顔はやめろ、明日学校あるんだよ」
返事の代わりに、もう片方の後脚が持ち上がった。
晴斗は鉄パイプを握ったまま横へ転がる。包丁が腹を切り広げ、カンガルー型の身体が崩れた。すぐに立ち上がって距離を取り、拾い直したナイフを構えたが、魔物は一度脚を動かしただけで止まった。
灰色の身体が薄れ、床へ小さな魔石を残す。
「包丁、曲がっちゃったか」
晴斗は魔石より先に武器を調べた。
刃は根元からわずかに傾き、固定している布テープにも裂け目が入っており金具もガタついている。鉄パイプは曲がっていなかったので、帰宅後に包丁を外して巻き直せばまだ使える。
小型ナイフも刃こぼれしていない。二層の宝箱で見つけた時は、包丁より短い外れ装備だと思ったが、片手が塞がった時や組みつかれた時にはこちらの方が扱いやすかった。
晴斗が魔石を拾おうとしゃがむと、首筋へ細かな砂が落ちてきた。
手を伸ばしかけた姿勢のまま、床を見る。
自分の影に、細いものが混じっている。天井から垂れた蔦だった。
「お前もいたのか」
跳び退いた直後、蔦の先が床を打った。
石畳へ当たった部分が四本に割れ、それぞれが晴斗の足首を探るように這う。天井を見上げても、灰色の根と亀裂の間に紛れて本体が分からない。
蔦型は三層へ入った初日に、晴斗を天井近くまで吊り上げた。
ナイフで蔦を切って落ちたが、本体は倒せなかった。次に会った時は、天井へ石を投げ続け、動いた箇所にある瘤を見つけた。そこへ投石を当てれば蔦が緩み、鉄パイプや槍で潰せば消える。
晴斗は足元から拳ほどの石片を拾った。
蔦が横から伸びる。石柱の裏へ回って避け、天井へ石を投げた。
一投目は亀裂へ当たり、二投目は根のような部分を叩いた。三投目で、天井の一部が縮む。葉にも根にも見えない丸い瘤が、石粉の下から姿を見せた。
「よいしょ!」
鉄パイプを短く持ち、石柱へ足を掛ける。
柱の途中まで駆け上がり、そこから天井へ向けて跳んだ。包丁の先が瘤へ当たり、柔らかいものを押し潰した感触が柄まで伝わる。蔦が一斉に縮み、晴斗は鉄パイプから手を離して床へ着地した。
頭上から落ちてきた武器を受け取り損ね、鉄パイプが床で跳ねる。
「今のは格好よく取れるようになりたいな」
曲がった包丁を拾い直す。
蔦型が残したのは魔石だけだった。宝箱に繋がりそうな素材は出ない。毎回天井を見ながら歩く手間に対し、儲けが合っていない気がする。
晴斗が二つ目の魔石をポケットへ入れた時、離れた場所で石が転がった。
先ほどの戦闘で落ちた破片が、床の上を少しずつ動いている。
「……そっちか」
晴斗は鉄パイプを拾わず、ナイフだけを持って後ろへ下がった。
三層には、床下を移動するモグラ型もいる。
姿を見せている間は、カンガルー型より小さい。人間の腰ほどの身体に、石を削る前脚と尖った鼻を持つ。地面へ潜ったあとは足音を追い、真下から前脚を突き上げてくる。
最初に会った時は靴底を裂かれ、二度目は走り続けて疲れたところを壁際へ追い込まれた。三度目からは床へ小石を散らし、地面の下を動く位置を見分けている。
石の動きが止まり、別の場所で一つだけ跳ねた。
晴斗はそこへ近づかず、鉄パイプを足で蹴った。武器が床を滑り、跳ねた石のそばへ転がる。
直後、石畳が割れた。
モグラ型が飛び出し、鉄パイプを両方の前脚で挟む。包丁の固定部分が潰れ、刃が横へ折れ曲がった。
「うわ、そこ交換予定だったのに」
晴斗は後ろから近づき、モグラ型の首へナイフを入れた。
固い毛と皮に押し返される。モグラ型が振り向く前に刃を抜き、耳の後ろへ差し直した。
前脚が足元を薙ぐ。
晴斗は片脚を上げてかわし、その足をモグラ型の背へ乗せた。身体を起こさせないまま、ナイフを耳の後ろへ押し込んでいく。
モグラ型が床を掻き、石畳へ二本の溝を作った。
「潜るな。話が長くなる」
晴斗は背中から降りず、刃を横へ動かした。
前脚の動きが止まったあとも、すぐには体重を抜かない。耳の後ろからナイフを外し、足元の身体が消え始めてから、ようやく息を吐いた。
残った魔石を拾い、折れ曲がった包丁槍も回収する。
「帰るか」
通路の先には、まだ進んでいない分岐があった。
右側から風が流れてくる。左側の壁には、カンガルー型の足跡が二組残っていた。今日は武器が使えないので帰るしかないが、右へ行けば広い場所に出る気がする。
そういう予想が当たることもあれば、行き止まりにモグラ型が三体いたこともある。
晴斗はスマートフォンで分岐を撮影し、画面上へ「右、風あり」と書き込んだ。通信は繋がらないが、時刻と写真は残る。自分しか入っていない場所で迷えば、助けを呼ぶ相手もいなかった。
戻りながら、三層の天井と床を交互に確認する。
一層にいたのは、土を焼いて作った埴輪のような生物だった。顔らしい穴と短い腕を持ち、倒すと身体ごと崩れて魔石を残す。一層のボスも埴輪型だったが、胴が横に広く、腕が四本あり、部屋の土壁から次々に土塊を引き剥がして投げてきた。
晴斗は三度目の挑戦で倒した。
宝箱に入っていたのは透明なポーション五本と、口を紐で縛った土入りの袋だった。ポーションは一本を擦り傷へ使い、すぐに傷が消えたので、残り四本を自室へ隠している。袋の土は見た目も匂いも庭の土と変わらず、何に使うのか今も分からない。
二層では、二本脚で歩く大型のネズミ型と、壁に張りつくヤモリ型が現れた。
ネズミ型は石や骨を手に持ち、ヤモリ型は高い場所から背中へ飛びついてくる。ボス部屋には大型ネズミ型が二体と、その倍近い大きさの一体が待っていた。晴斗は小さい二体を部屋の柱へ誘導し、互いの投げた石を当てさせてから、残った一体と戦った。
その報酬が、今使っている小型ナイフと、畳んだまま用途の分からない布だった。
小説なら、土の袋にも布にも鑑定結果が表示される。
晴斗の場合、検索しても掲示板を読んでも答えは出なかった。管理窓口へ持っていけば調べてもらえるかもしれないが、入手場所を聞かれた時点で終わる。
三層から二層、一層へ戻り、土壁の通路を抜ける。
景色が暗く狭まり、晴斗は自室の押し入れへ膝をついた。衣装ケースと敷布団をずらして作った隙間の奥に、ダンジョンの入口が開いている。
鉄パイプを引き抜く時、曲がった包丁が棚板へ当たった。
「帰宅」
誰も聞いていないが、毎回言っている。
入口の前へ古い毛布を掛け、衣装ケースを元の位置まで戻す。鉄パイプから包丁を外し、小型ナイフと魔石を机の引き出しへ入れた。
中には透明なポーション四本、土入りの袋、用途不明の布、魔石が並んでいる。数が増えて菓子箱へ収まらなくなり、英語の参考書と使っていないノートで上から隠していた。
晴斗は制服へ着替え、遅刻しかけた時より速く階段を下りた。
翌日の学校でも、押し入れのことを知る者はいない。
晴斗は教室の中央より後ろの席で、友人二人とスマートフォンの動画を見ていた。昨日エクアドルで撮影された、自衛隊の救助作戦だった。
「盾であれ止めるの、絶対腕折れるだろ」
「探索者だから身体能力が上がってんだよ」
「結城ならできそうじゃね。最近体育で変だし、まさか…」
「帰宅部に何を期待してるんだ、早く帰る為に特訓してるんだよ」
晴斗は笑いながら、動画を閉じた。
五十メートル走では途中から歩幅を狭め、反復横跳びでは隣の生徒に合わせた。部活へ誘われても、週三日のファストフード店のバイトを理由に断っている。実際には、バイトがない日ほど早く帰り、押し入れへ入っていた。
昼休み、気になっている女子が友人の机へ寄ってきた。
彼女は自衛隊の動画より、その下に表示されていた未申告ダンジョンの記事を気にしていた。
「家の中に見つかったら、どうなるんだろうね」
「避難じゃない?」
友人が答え、晴斗は購買の焼きそばパンを開けた。
「家ごと立入禁止とかあるらしいよ。調査が終わるまで帰れないって」
「補償は出るだろ」
「出ても引っ越し面倒じゃない? 学校も遠くなるかもしれないし」
彼女はそう言ってから、晴斗の焼きそばパンを見た。
「それ、最後の一個だった?」
「そうだけど」
「半分くれたら、英語の課題見せる」
「その取引、俺が損してない?」
「じゃあ見せない」
晴斗は袋の上からパンを二つに割った。
大きい方を自分へ残そうとして、彼女が見ていることに気づき、小さい方を取る。
「はい」
「結城くん、そういうところだけちゃんとしてるよね」
「そういうところ以外もちゃんとしてるけど」
彼女は笑い、友人が横から課題を見せてほしいと言い出した。
話は英語から次の体育、週末の予定へ移った。晴斗も普段どおり混ざったが、「家ごと立入禁止」という言葉だけは、授業が始まっても頭から離れなかった。
放課後は友人と駅まで歩き、途中で別れた。
バイトのある二人は駅へ向かい、晴斗は今日は勤務がないと言って住宅街へ曲がる。家へ近づくほど、二階の窓と、その奥にある押し入れが気になった。
スタンピードの報道が始まる前は、見つかることばかり心配していた。
今は、見つからないまま何かが起きる方も考える。
一層の埴輪型が押し入れから出てきたら、母親は土の置物だと思って近づくかもしれない。二層のネズミ型なら、父親が棒でも持って追い払おうとする。三層のカンガルー型が階段を下りれば、家の壁では止められない。
玄関を開けると、母親が廊下の奥から顔を出した。
「晴斗、土曜日いる?」
「いるけど、何で」
「押し入れの布団、そろそろ干したいの。自分の部屋の分、朝出しておいて」
晴斗は靴紐を解く手を止めた。
「土曜じゃないと駄目?」
「日曜は雨だって。最近、自分で布団出してるから中も見てないし、ついでに片づけなさい」
「分かった」
断れば理由を聞かれる。自分でやると言っても、母親が確認しに来る可能性は残る。
二階へ上がり、自室の扉を閉める。
押し入れの前には、朝戻した衣装ケースがある。外から見れば、布団と古い服が詰まっているだけだった。
晴斗は机へ座り、スマートフォンで公式の相談窓口を開いた。
未申告の入口を発見した場合、内部へ進入せず、周囲の人間を遠ざけて連絡するよう書かれている。晴斗は三層まで進み、ボスを二体倒し、回収品を自室へ溜め込んでいた。
相談フォームの発見場所へ、自宅の住所を入力する。
発見日時の欄で指が止まった。
本当の日付を入れれば、何か月も黙っていたことが分かる。今日見つけたことにすれば、魔石やポーションの説明がつかない。
「正直に言った方が、怒られる時間は短いか」
入力欄へ最初に見つけた日付を入れると、次に内部へ進入したかどうかを聞かれた。選択肢は「はい」と「いいえ」しかない。
「三層まで、って書く場所は後か」
晴斗が「はい」を押すと画面が進み、進入回数、到達した範囲、確認した生物、持ち出した物品を記入する欄が表示された。思っていた以上に面倒だった。
埴輪型から順番に入力し、二層のボスと報酬まで書く。三層の欄へカンガルー型、蔦型、モグラ型と並べたところで、送信ボタンが画面の下へ現れた。
報告すれば、押し入れは封鎖される。
この部屋からも出される。調査期間によっては家族で別の場所へ移り、学校やバイトへの行き方も変わる。四層がどんな場所なのか、自分で見る機会もなくなるかもしれない。
晴斗は画面を閉じず、押し入れを開けた。
毛布の奥には、いつもと同じ黒い入口がある。鉄パイプの包丁は壊れたが、交換する包丁なら台所に予備がもう一本あったはずだ。
「土曜の朝までか」
母親が布団を出しに来る前に、隠し続けるか、送信するかを決める必要がある。
晴斗は相談フォームへ戻り、送信ボタンの上へ親指を置いた。数秒待ってから指を外し、入力内容を下書きとして保存する。
電話番号も連絡先へ登録した。
名前を入れる欄には、「押し入れ」と打ち込んだ。




