シャーデンフロイデ×メランコリー
※投稿形式を間違ってしまったため、再投稿になります。
文学フリマ岩手10にて頒布した作品の再録です。
文章の一部修正を行っています。
この世界には、二種類の人間が存在する。
幸福な人間と、そうでない人間だ。
はてさて、ここで問題になってくるのが『幸福』とやらの定義である。
人類史上、これは絶え間なく議論され続けてきたものだ。
哲学家、宗教家、思想家、そのどれもが頭を悩ませ、己なりの答えを出してきた。
十人十色の回答は、彼らが生きる時代の人々が願う幸福の形に、大きく関与しただろう。
時代が変われば、人が変わる。
人が変われば、時代は変わる。
人類が世界とともに築き上げた螺旋。
その最中に居続けた幸福は、多様な形を得て、そして失ってきた。
幸福を形作るのは、人の心だ。
心には、明確な形がない。どれほど美しくとも、どれほど醜くとも、外側は何もわからない。
だからこそ、『幸福』の定義に正解はない。
あるのは、各人の回答のみである。
されど、一般論は存在する。
衣食住が充実しているだとか、家族や友人に恵まれているだとか、趣味に励むことができるだとか。
本来嵌まる必要のない型に押し込めて、評価するための一般論は、存在してしまっているのである。
その場合、幸福ではないこと──『不幸』の一般論とは、一般論的幸福が失われること、または得られないことなのだろう。
幸福と不幸。
幸福な人間と不幸な人間。
プラスとマイナス、あるいはゼロ。
人間は、生きる限り幸福を求め、不幸を厭う。
欲する限りの幸せを求めてしまう生き物こそが、『人間』だ。
では、ここで。
他者の幸福、もしくは不幸に、幸福を覚えてしまう人間というのは、いったい何なのだろうか。
他者の幸福に幸福を覚えるのは、まだ良いだろう。
人間は、共感性が高い生物だ。
共感性が高いからこそ、社会性が高く、人間社会が成立する。
しかし、不幸に幸福を覚えるのは、人間として破綻している。
不幸を不幸と思えないということは、他者と感情を共有する行為ができないということに他ならない。
共感できないのであれば、社会にはいられず、人間として生きることができない。
つまり、幸福を求めながら、『人間』ではなくなってしまうということ──人の皮を被った『怪物』になるということである。
それでも、怪物たちは幸福を求める。
人間ではなくなってしまっても、人間らしく幸福を求める。
他者が悲しみ、苦しみ、嘆くことを悦ぶ。
ただ己だけの幸せを希う。
人間ではなくなることを選んだというのに、人間らしくあろうとする。
そのような矛盾存在。
歪み狂った人でなしの心を、人々はこう言った。
──『他人の不幸は蜜の味』、と。
俺は溜息を吐いた。
手元の資料を見るたび眉間に皺を寄せ、何度も何度も溜息を吐いた。
これもすべて、この複雑怪奇な難事件のせいである。
「……憂鬱だ」
「おうおう。辛気臭い顔してんじゃねーよ、桔川警部補。皺が増えるぜ?」
「鈴木警部……。そうかもしれませんけど、そういう顔もしたくなりますよ」
「なんだ、また例の事件か?」
「はい、おそらく四件目になります。今日未明に起こったらしく……」
背後から話しかけてきたのは、直属の上司である鈴木昂生だった。
整えられた髭とスポーツ刈りが特徴な三十六歳。 叩き上げのベテランで、いかにも『オヤジ』といった豪快な男だ。
『仕事さえできるなら良い』という実力主義のため、一回り以上も年下である俺でも重用してくれている。
情に厚く、一見すると単純に見えるが、知識と経験に裏付けされた冷徹な判断も下すことができる。
ちなみに、愛妻家かつ親バカだ。
最近思春期に入った娘に避けられているらしい。
少しがさつなことさえ気にしなければ、接しやすい人である。
鈴木警部は、俺の肩に肘を置き、ホチキスで留められた資料を覗き込む。
「被害者は十九歳女性。現在大学生一年生で、出身高校は……はいはい、いつものだな」
「事件現場は千葉県千葉市にある旧行待ビル。全十三階で、現在は廃墟となっています。細かい部分は現在調査中です」
二週間ほど前から、神奈川県内では飛び降り自殺が連続して発生していた。
初めは突発的な案件だと思われていたが、日をそれほど開けずに二件目、三件目と続いたため、事件性が鑑みられたのだ。
そして起こった、今回の四件目。
初の県外での案件だが、条件は先例と似通っており、関連性が疑われている。
だからこそ、この件の対応が俺が所属する神奈川県刑事部捜査第一課に回されてきたのだ。
「現状は七階以上の高所に限定されてるっつっても、流石に他県とまでなると手が回んねーなあ……ほんと、どうなってんだか。流石に上も見過ごせないところまで来てるだろ。合同捜査本部の設置もすぐだな、こりゃ」
「問題は、事件原因の特定までにどれくらいかかるか、ですね」
「だな。どう考えても、ただの自殺や偶然の一致じゃ済まされん。周辺関係丸ごと浚わなきゃいけねえ」
「……休めませんね」
「休めねーな!」
互いに渇いた笑いだが、その温度は天と地ほどの差があった。
彼ほど余裕が持てるようになるには、いったいどれほどの時間がかかるのだろう。
まだ午前だというのに、俺の気持ちは深夜二時を回っていた。
肩を下ろして、まずは聞き込み調査をすることにした。
今回と以前の資料を元に対象地域を絞り込んでいると、突然無線司令が入る。
──嫌な予感がした。
内心聞きたくないと思いながらも、警察として知らん振りすることはできない。
覚悟を決めて、無線を取った。
だが、耳に入った情報は予想外のもので、俺は呆気に取られる。
通信が途切れ、俺は無線を戻した。
振り返れば、椅子の背もたれに引っ掛けていたジャケットを羽織り、襟を正す鈴木警部がいた。
「行くぞ、桔川」
「はい、鈴木警部」
桔川憂一、二十三歳。
現在の階級は警部補。
まだ新人の域を出ない、青二才の刑事である。
現場に急行した憂一たちは、まず初めに、現場に急行していた他の警官たちと情報共有をした。
事件が起こったのは、神奈川県鶴見区某喫茶店。
地元では隠れた名店として知られており、最近はソーシャルメディアの発展に合わせて、地域外にも名が広がっているらしい。
昼時には混み合うが、現在時刻は十一時頃。
そこまで客入りが多いわけではなかった。
事件発生当時、店内にいたのは男性五名、女性三名の計八名。
男性のうち二人が店員であり、その他は皆客である。
被害者は、無職の十九歳女性。
店奥のテーブル席にて、知人の男女二名ともに座り、注文した紅茶を飲んだところ、昏倒したのだという。
知識を持っていた客二人と、救急隊の懸命な応急処置により、被害者は一命を取り留め、今は意識の回復を待っている状態だ。
事件現場は、当時の状況のまま保存されていた。
床に撒かれた紅茶、割れたカップ。
コーヒーミルや軽食も、調理途中で放置されている。
関係者はそれぞれテーブル席やカウンター席に座っていたが、発生時とは違う位置取りだった。
警察官が到着した時点で喫茶店は閉められ、その後、警察以外の者が侵入した形跡はない。
必然的に、事件関係者は八人に絞られた。
憂一と昂生は、作業を二分する。
憂一は関係者の事情聴取、昂生は鑑識とともに現場の調査だ。
「では、皆様。ご混乱の中、申し訳ありませんが、順番に詳細な事情聴取を執り行います。どうか、ご協力のほどよろしくお願いします」
そうして、この毒殺未遂事件の捜査が始まったのだった。
卯城大耀。
四十三歳、男性。
職業は自営業で、事件現場となった喫茶店『ラビッツ』の店主である。
──まず初めに、貴方はどうしてこの喫茶店にいたのですか?
「営業時間ですので、働くためですね」
──事件当時、貴方は何をしていましたか?
「コーヒーを淹れておりました。カウンター席のお客様にお出しするものです。この店のコーヒーや紅茶は、すべて私が淹れております」
──提供した順番や商品は憶えていますか?
「はい。今いるお客様だけに限るのならば、一番初めにお出ししたのは、萩さんの当店オリジナルブレンド豆を使ったエスプレッソでした。次に竜宮さんのアールグレイのストレートティーと、春日さんのロイヤルミルクティー。お二人は追加で日替わりのケーキを頼んでいます。そして、中原さんの正山小種のストレートティー……ああ、中国茶です。イギリスから輸入していますが」
──様々な種類の茶葉や豆がありますね。何か理由が?
「それは、まあ、喫茶店なので。軽食も出しますが、主としては茶かコーヒーです。それなりに拘っていますし、何より師から継いだ店ですから……すみません、話が逸れました。えっと……そうですね、露口さんと三角さんは、何も注文していませんでした。お冷を出したきりです」
──なるほど、ありがとうございます。次に、貴方は皆さんとどのような関係ですか?
「店と客以上の関係はありませんね。この道二十年近くになるので、仕入先や常連さんとの関係はあれど、一期一会のお客様とはあまり……。萩さんは常連さんなので、よくお見かけします。竜宮さんは以前お見かけしましたが……三年振りくらいのご来店になりますかね。うちの店員の知人なのですが、数年前から大きな病気で入院されていたとか。その他のお客様は、記憶の限りは初めてのお客様かと」
──ありがとうございます。最後に、何か気になる点はございますか?
「……そうですね、私から言うのもなんですが……露口さんたちは、どうやら複雑な事情がお有りのようでして……。それもあって、あの方々の席は見ないようにしていたので、その場をはっきり見ていたわけではないんです。ですから、中原さんが紅茶を飲んで倒れたことも、お二人から聞くまで知りませんでした。……今、キッチンを見てもらっているので、自明だとは思いますが、私は何もしていません。ただ茶とコーヒーを淹れて、提供しただけです。私の手で、それを凶器として扱うなんて、到底考えられません。……私は、この店と自分の仕事が好きなんです」
──はい、承知しております。心配なさらないでください。……少しお疲れのようですね。すみません、聴取はこれで終わりになります。まだお返しすることはできませんが、ゆっくり休んでください。……ありがとうございました。
天羽光。
十九歳、男性。
職業は大学生で、東京の国立大の経済学部に通っている。
喫茶店には住み込みのアルバイトという形で雇われているが、卯城大耀は元里親であるため、実情としては『家の手伝い』のようなものである。
──まず初めに、貴方はどうしてこの喫茶店にいたのですか?
「店員として働くためです。主にホールと軽食の調理を担当しています」
──事件当時、貴方は何をしていましたか?
「カウンターでの接客、および商品の提供です。マスターが淹れたコーヒーや紅茶、私が作った軽食類をお客様の席へ運びます」
──では、中原さんへの提供も貴方が?
「……はい。あのテーブルの配膳に関わったのは、私だけです。注文通りに紅茶をお持ちした後は、カウンターで接客を行っていました」
──『接客』というのは、具体的にはどのようなことをされていたのですか?
「カウンター席に座ったお三方との世間話、でしょうか。地元に根差した店ですので、常連の方とは距離が近いんです」
──そのお三方とは交流があるのですか?
「春日さんとは初対面でしたので、そこまででは……。後のお二人とは……まあ、はい、それなりに親しいとは思っています。特に、萩さんは十年ほど通われていますから、よくお話しますね。竜宮さんは……高校時代の後輩でして、ちょっとした縁があったんです。ここ数年はずっと体調を崩されていたらしいんですが、最近回復したとのことで、挨拶に来てくださったんです。春日さんは、彼の身の回りのお世話をしていらっしゃっていると聞きました」
──そうですか。露口さんたちとは、何か関係がありますか?
「露口さんと三角さんとは、何もありません」
──中原さんとは、あるんですね。
「……はい。あまり確証がないんですけど……中原さんと同じ高校に通っていた、かもしれません。ですが、中原さんがいたのは、多分、一年だけだと思います」
──と、言うのは?
「……直接的に姿を見たことはありませんでした。教室が近いわけでも、友人同士が繋がっているわけでもなかったので。……それでも、名前だけ知っているのは、彼女が『有名』だったからです。一年生のとき、ある噂が学校中で広がっていました。……口にするのは、憚られる内容なんですけど……」
──聞かせて、いただけますか。
「……彼女は、自主退学したらしいんです。……その、『妊娠した』から、だと」
──それは、いつ頃の話ですか?
「確か、冬休み明けの話なので……二〇一七年の一月下旬くらいですかね。ただ、中原さんは冬休みが明けても学校に来ていなかったみたいです」
──大変参考になりました。最後に、何か気になる点はございますか?
「……これはただの勘で、根拠があるわけではありません。それを前提に聞いてください。──露口さんは、きっと嘘を吐きます。自分に都合が悪いことを隠そうとします。彼自身に訊いても、口を割ることはないでしょう。彼のことを知りたいなら、もっと別の方法を取るべきです」
──ご忠告、ありがとうございます。聴取はこれで終わりになりますので、中へどうぞ。外は冷えますから。
萩肇。
二十六歳、男性。
職業は作家であり、ミステリーやサスペンスが専門。
いくつかの賞を受賞している。
二年前に交通事故に巻き込まれ、右目の視力を失っており、現在は義眼を入れている。
「……すみません、わざわざ立ち位置変えてもらって」
──いえ、お気になさらないでください。こちらも配慮が足りませんでしたので。
「職業病ですかね、どうも死角が気になるんですよ。急に襲われでもしたら、と悪い想像が……」
──このような騒ぎの後です、落ち着かないのも仕方がありません。もう少し時間を置きましょうか?
「ああ、それは大丈夫です。外の空気を吸ったら、いくらか楽になりました。……ええっと、どこから話せばいいんでしたっけ?」
──喫茶店にいた理由ですね。簡単に答えていただいて構いません。
「おっと、そうでした。……私は、ここに仕事をしに来ていたんです。息抜きも兼ねていますけどね。物書きをしていまして、ネタに詰まったときに、ふとここに来ると、不思議と書けるようになるんです。かれこれ、十年は通ってますね」
──店員の方とは親しいのですか?
「それはもう。光くんと明ちゃんは、二人がマスターに引き取られたときからの仲ですから。……明ちゃんっていうのは、光くんの妹ちゃんです。今は友達と遊びに行っていると聞きました。あの子には、偶に勉強を教えているんです。でも、光くんは私より頭が良いので、そっち方面は何の役にも立てません。彼に関しては、いつの間にか、遠いところまで行ってしまったような気もします。……でも、仲自体は変わってないんです。多分、光くんは照れ隠しで『そこまで親しくない』とか何とか言ったと思いますけど、私からすれば年の離れた弟みたいなものなんです」
──仲がよろしいんですね。店長さんとは、どのような関係で?
「……マスターは、私の恩人です。中三の、今くらいの時期でした。親と喧嘩して、雨の中家出したんです。深夜だったので、我に返った時は、不安で仕方がなくて……そんな時、マスターは──卯城さんは、私を助けてくださいました。行き場のない私に、タオルを貸してくださって、、ココアも淹れていただいて……それに、相談にも乗ってくれました。落ち着いた頃に家に電話して、帰って……まあ、アホみたいに叱られたんですけど、互いに冷静になっていたので、仲直りすることができました。……あのまま、雨の中にいたら、どうなっていたのか。そう考えると、卯城さんへの感謝は尽きません」
──萩さんは、この喫茶店に思い入れがあるんですね。では、他の方々とはどのような関係がありますか?
「ないですね。全員初対面です。……あ、そうだ。竜宮さん……でしたっけ? 光くんの後輩らしいんですけど、彼についてはまったく知りませんでした。それくらいですね」
──『彼については』ということは、何か思い当たることでも?
「いや、ちょっと憶測すぎるので……」
──構いません。良ければ話していただけませんか?
「……あー、それがですね……。『竜宮ホールディングス』ってご存知ですよね? 竜宮製薬とかの。彼、そこの一族……どころじゃないか。多分、御曹司なんですよ」
──どうして、そう思ったんです?
「苗字がモロにそうだったからってのが大きいですね。……でも、確信したのは、この店で彼のお兄さんを見たからです。竜宮大慶というお名前なんですが、以前取材で見かけたことがあったんです。隣にライバル企業の跡取りもいらっしゃったので、これは確定かな……と」
──彼らにはこの店を訪れる理由があった、と。何故でしょうか。
「流石にそこまでは……。ああ、そういえば、光くんと何か話していたような……? はっきりとは憶えていないんです。不躾だと思って、まともに見聞きしなかったので」
──ありがとうございます。……話は変わりますが、萩さんは、春日さんとともに、中原さんの人命救助を行ったと聞きました。どのように行ったのですか?
「……あまり自信満々に言えないんですよね。彼女が倒れて、真っ先に駆け寄ったのは、同席していた人たちでした。私たちは遠巻きに見ているばかりで……でも、声をかけられても起きないようなので、春日さんと一緒に助けに行ったんです。救急車を呼ぶのは、光くんに任せていました。露口さんたちに避けてもらった私たちは、まず、うつ伏せだった中原さんの姿勢を仰向けに変えて、脈と呼吸の確認をしました。……そのとき、春日さんが言ったんです。『アーモンドのような臭いがする』って。……この状況で、『アーモンド臭』なんて言われたら、頭に過るものがあるでしょう? ……青酸カリ、ですよ。ミステリーでよく毒殺に使われる、あの。だから、外に運び出して、できるだけ新鮮な空気を吸わせるようにしたんです。口を濯げられたら良かったんですけど、生憎気絶してるので、そうもいかず……あとは心臓マッサージで場を持たせていました。その後、『青酸カリ中毒かもしれない』と伝えるようお願いしたからか、すぐに救助隊が来て、中原さんは運ばれていきました」
──心臓マッサージをしたのは、萩さんだけですか?
「いいえ。むしろ、主導は春日さんでした。彼女、講習を受けていたらしいので、私より詳しかったんです。大体、七対三くらいですかね。彼女が疲れてきたと感じたら交代して、私が疲れてきたらまた彼女が……というようにしていました」
──承知しました。では、最後に何か気になる点はございますか?
「特にはありません。中原さんの様態は安定しているんですよね? とても驚きましたけど、彼女が助かってよかったです」
──これで聴取は終わりになります。ありがとうございました。
春日四葉。
十八歳、女性。職業は使用人で、竜宮の側付きである。
──まず初めに、貴方はどうしてこの喫茶店にいたのですか?
「慶幸様の要望で、ここに訪れたからです。『知人に挨拶をしたい』とのことでした」
──『知人』は、天羽さんのことで間違いありませんか?
「はい、高校時代の先輩と聞いておりました。入院している間も、お見舞いに来ていただくなど、お世話になったと。それ以外は、何も存じ上げておりませんでした」
──竜宮さんは、入院していたのですか? どういったご病気かはご存知でしょうか?
「細かいことまでは、わかりません。私が彼に仕える前のお話でしたし、慶幸様も自分からは、あまり話そうとしないので。私が知っているのは、事故か病気で、三年ほど昏睡状態にあったこと、後遺症で下半身が不自由になってしまったことくらいです」
──意識が回復したのは、いつ頃のお話ですか?
「六月末くらいですね。二か月ほどのリハビリを経て、ようやく外に出られるようになりました。今は、入院時代の恩返しをしたいと、挨拶回りをしています」
──春日さんは、他の皆さんとの面識がありましたか?
「いいえ。竜宮様を除き、どなたともありません」
──事件当時、貴方は何をしていましたか?
「カウンターにて、ミルクティーとケーキをいただいておりました。竜宮様は天羽さんとお話していらしたので、私は静かにお二人を見守っていました」
──春日さんは、萩さんとともに中原さんの救助を行ったと聞いています。良ければ、その状況を教えてください。
「初めは、外から様子を観察していました。一時的なものの可能性があり、救急隊を呼ぶ必要がないかもしれなかったので。しかし、一分ほど経過しても彼女は起きず、露口さんたちも対処できそうになかったので、萩さんとともに割って入りました。女性ということもあり、救助の主導は私でした。まず、服を脱がして呼吸しやすくさせ、手首から脈を確認しました。徐脈を起こしており、呼吸も途切れていたので、すぐに心臓マッサージを開始し、後は救助隊の到着を待っていました」
──そこで、何か気になった点はありませんでしたか?
「気のせいかもしれませんが、中原さんの口部からアーモンドのような臭いがしました。それを萩さんへお伝えしたところ、『青酸カリ中毒の可能性がある』とおっしゃったので、二人で外に運び出しました。店主の方に頼んで、店の窓や扉はすべて開けていただいていたのですが、やはり外の方が良かったのです」
──最後に、他に気になる点はございますか?
「いいえ、特には」
──これで聴取は終わりになります。ありがとうございました。
三角心晴。
二十五歳、女性。
職業はファッションスタイリスト。
メディア出演者の衣装や小物をコーディネートしている。
──まず初めに、貴方はどうしてこの喫茶店にいたのですか?
「……中原に会いに来ていました」
──それは、どうしてですか?
「……あいつ、蛍吾の浮気相手だったんです。前々から怪しいなとは思ってたんですけど、家であたしのじゃない長い髪の毛が落ちているのを見つけて……問い詰めたら、中原って女と会ってたって言うんです。いや、もう、ほんと、ありえないってキレましたよ。交際して二年くらいですけど、それなりに仲のいいカップルだと思ってましたし……婚約もしてましたし。それで、あの女を蛍吾共々ぶちのめしてやろうと思ってたら、あっちから連絡が来たんです。『今週末、ラビッツという喫茶店で会えませんか』って」
──貴方は、この店を知っていましたか?
「いえ、まったく。でも、待ち合わせ場所に指定された時に、ネットで調べました。何でこんな所に……とは思いましたね」
──では、事件当時、貴方は何をしていましたか?
「蛍吾と一緒に席に座って、中原と話してました。そこまで長いする気もないし、何も食べる気はしなかったので、お冷で済ませていました。……あの女は、一丁前に紅茶とか頼んでましたけど」
──中原さんが倒れた時、どうしましたか?
「……突然のことだったので、頭が真っ白になって……蛍吾が『ヤバい』って言ったから、慌てて駆け寄ったんです。顔は青いし、見るからに体調が悪そうで……でも、何もできなくて……その時、他の人たちが助けてくれました」
──皆さんとの面識はありましたか?
「ないです。近所でもないし、初めての来た店だったので。蛍吾くらいです、知り合いは」
──最後に、何か気になる点はございますか。
「……あたし、中原のことはほんとに嫌ですけど、『殺そう』とかは思ってませんでした。ただ、懲らしめてやりくらいで……自分でも、自分が一番怪しいってわかってます。でも、あたしのせいじゃないんです……! あたしは、何もやってない!」
──落ち着いてください。現時点で、こちらから貴方を犯人と断定することはありえません。
「……でも、もし中原が、あたしがやったとか嘘吐いたら……」
──それを防ぐために、この聴取があります。皆さんから得た情報を元に、事件の真相を探るんです。ただ一人の主張に左右されるわけではありません。
「……そう、ですか。すみません。……あの、気になっていたことが一つあって……あいつ、途中で立ってトイレに行ったんです」
──『あいつ』とは、中原さんのことですか。
「はい。圧をかけ過ぎたからだと思うんですけど……。あたしも、一回頭を冷やそうと思って外に出ました。もちろん、店員さんの許可は取りましたよ」
──ありがとうございます。これで聴取は終わりになりますので、中へどうぞ。
露口蛍吾。
二十六歳、男性。職業は建築・土木作業員。
傷害罪による一年の服役経験あり。
──まず初めに、貴方はどうしてこの喫茶店にいたのですか?
「……美雪に会いに来たんだよ」
──それは、どうしてですか?
「……話し合いだよ、話し合い。どうせ心晴から聞いてんだろ?」
──お答えできかねます。
「あ? なんでだよ」
──そういう決まりですので。
「……クソ。アイツと会ってたのがバレたんだよ。ったく、目敏いんだって。いいだろ、別に。そもそも、心晴が最近機嫌悪かったのが原因だっつーのに……」
──何かあったんですか?
「仕事が忙しかったんだと。怒鳴るし、わがままだし、めんどくせえったらありゃしねえ」
──中原さんとのご関係は?
「……前から知り合いだったんだよ。心晴のことでイラついてた時に、アイツが誘ってきたから、そのまま……」
──それは、いつ頃のお話ですか?
「……六月くらいから、ここ三か月くらい。週一で、どっちも暇な時に会ってた。それが三日前にバレて、怒った心晴が殴り込もうとしたら、美雪から連絡が来た」
──お二人はどこで会っていたんですか?
「……日による。ホテルのときもあれば、アイツが家に来るときもあった。心晴がいねえときだけだけど」
──事件当時、貴方は何をしていましたか?
「心晴と美雪が話してるのを見てた。オレをハブって、アイツらだけで話してたんだよ」
──中原さんが倒れた後は、どうしましたか?
「そりゃ、焦ったさ。身体が弱いとかは聞いてなかったし、どっか悪いのかと思って見てたんだが……何か、ヤバそうだったんだ。でも、オレも心晴も何すりゃいいかわかんねえってなってたら、他の人たちが来て、救助するって」
──事件発生前後で、何か気になる点がございましたか?
「いや、何も」
──そうですか。最後に、他に気になる点がございましたら、教えてください。
「……ねえよ。美雪は助かったんだろ? なら、いい」
──これで聴取は終わりになります。ありがとうございました。
竜宮慶幸。
十八歳、男性。
職業は無職。
──まず初めに、貴方はどうしてこの喫茶店にいたのですか?
「知人に会いに来たんですよ。天羽光さん、高校時代の先輩です。入院していた時に、お世話になっていたようなので」
──事件当時、貴方は何をしていましたか?
「紅茶とケーキをいただきつつ、天羽さんとお話させていただいていました」
──他の皆さんとの関係は、どのようなものでしょうか。
「四葉は使用人で、身の回りのお世話をしてもらっています。何分、足が動かないものでして。天羽さんは、先程の通りですね。店主の卯城さんとは、それほど関係ありません。後の四名とは、全員初対面です」
──最後に、何か気になる点はございますか?
すると、竜宮はポケットからとあるものを取り出した。
個包装の飴。
赤と青のファンシーな紙に包まれた、ミルク味のそれは、誰もが食べたことがあるであろう有名なものだった。
「桔川さん。アナタは、『現実』と『虚構』の違いを知っていますか?」
「は……? ……ええ、まあ、はい」
唐突な質問に、わけがわからないまま頷く。
車椅子に座る竜宮の顔は、道路を向いていた。
長い髪が邪魔をして、彼の表情を見ることはできなかった。
「『それがどうした』と思うでしょう? しかし、これは大切なことなんですよ」
そういって、もう一つ飴を取り出す。
緑と黄色の包装紙だった。
「ここに、二つの飴があります。こちらが現実、こちらが虚構です」
現実に指定されたのは、赤と青。
虚構に指定されたのは、緑と黄色。
話の意図は、未だ掴めない。
「こちらが現実ということは、これが本来の飴の『形』になりますね。赤と青の包装紙、ミルク味の飴。何の変哲もない、普通の飴です」
捻られた包装紙の端を掴み、ひらひらと左右に振る。
思わず、その動きを目で追った。
「逆に、こちらは虚構なので、現実とは違うところがあります。わかりますか?」
「包装紙の色、でしょうか」
「ご名答。これは、現実のものと見た目が異なります。嘘を吐いているんです。……ああ、商品としての話ではないですよ。『仮定』ですからね」
その飴は、元々そういうものとして作られている。
味はどちらの包装紙でも変わらない。
外観のバリエーションを増やす目的で、数種類の包装紙が用意されているのだ。
確か、彼が取り出した二つ以外に、濃淡が異なる黄色のものもあったはず。
また、こういう菓子は、周年記念や季節限定で、更に多様なパッケージが生み出される。
赤と青の包装紙のものだけを本物とし、他はすべて偽物となる──現実として考えるのならば、ありえない主張だった。
竜宮は腕を伸ばし、二つの飴を他のものと比較するように動かす。
向かいの店の看板。
街路樹。
曇天。
喫茶店周辺は、事件の発生にあたって、通行規制が設けられていた。
この辺りを通るものは、車も人もいない。
ただ、冷たい風だけが通り過ぎていく。
「物事には、三つにわけられます。一つは現実、一つは虚構」
彼の言葉に合わせ、飴は踊る。
「現実は、『外側』も『内側』も本物です。そこに嘘は何一つとしてなく、真実だけが本物の輪郭を描き出しています。アナタが世界を知るとき、正確な情報を得られるのは、この『真実』だけです。『真実の世界』──それが、アナタが知るべき世界。アナタが求めるべきモノです。対して、虚構は『外側』か『内側』、どちらかが本物とは異なることです。これは、『外側』が異なりますが、もし、これが赤と青の包装紙で、中身が葡萄味の飴だったら、それも本物ではありません。同じに見えるかもしれませんがね。本質が異なるならば、それは本物とは言えません。偽物なんですよ、それは。ですから、それを頼りに世界を知ることはよろしくない。知れたとしても、それは虚構が生み出した『偽りの世界』。真実からは程遠いでしょう。……まあ、それでもいいというのなら、止めはしません」
「……なるほど。では、残り一つは何なのですか?」
くすり、と彼は笑った。
ずっと前を見ていた顔が、俺を見る。
癖のある黒髪が、重力に従って落ちていく。
露わになった彼の瞳。
日本人らしい漆黒の眼球には、暗い光が灯っていた。
「──『幻想』ですよ。『現実』でもなく、『虚構』でもなく、存在すらしない夢のこと。人間の希望が創り出す、価値のない『夢の世界』。それが、幻想です」
そうして、彼は飴を食べる。
緑と黄色の包装紙を剥がし、ミルク味のそれを摘み、口の中へ放り込む。
用済みになった包装紙は、どこか寂しそうで、どこか情けなかった。
「ほら、どうです? これは、『外側』も『内側』も、本物ではないでしょう。どちらも偽物、どちらも嘘。つまり、存在していないんです」
「……虚構として存在するためには、どちらかは本物でなければいけないと?」
「理解が早くて助かります。嘘というのは、嘘の核となる対象がいなければ成立しないんですよ。『UFOがいた』なんて言うだけでは誰も信じませんが、それらしい映像があれば、何人かは騙せるでしょう」
竜宮は包装紙の皺を伸ばし、細やかに折り込んでいく。一分も経たずに、それは小さなハートになった。
「幻想というのは不明瞭なものですから、時間が経てば元の形が残らない……なんてことがざらにあります。噂や神話は、その際たる例ですね。ですから、その根底にあるモノを知りたいのなら、早く動かなければいけません。嘘に惑わされず、真実だけを追い求めなければいけません。さもなければ、アナタは何も知ることはできないでしょう。この世界には、奇跡も魔法もない。ただ、真実だけがそこにある。……そうそう、嘘は一歩間違えれば幻想に成り得ますからね。気をつけてください」
ぽつり、雨が降り出した。
徐々に雨足が強まっていく。
このままでは、土砂降りになるだろう。
「おや、雨は苦手なんですがね。……戻りましょうか、桔川さん。濡れる前に、ね」
微笑む青年。
どこにも悪意は感じられない。
だというのに、俺は悪寒に包まれている。
『こいつは危険だ』と、本能が訴えている。
「……どうかしましたか? ああ、もしかして疲れが出ているのかもしれません。刑事さんは、多忙だと聞きますから。良ければどうぞ、美味しいですよ。……そう心配しなくとも、毒なんて入っていませんから」
黙り込む俺に差し出されたのは、余っていた飴だった。
『真実』と名付けられたそれを、俺は受け取る。
「……最後に、一つ。いいですか?」
「どうぞ」
得体のしれない彼の顔がはっきり見えるよう、腰を低くした。
同じ目線、同じ高さ。
同じ土俵になって、ようやく俺は彼を捉える。
「──貴方は、何者だ」
「……強いて言うなら、『探偵もどき』だよ。刑事さん」
交差した視線は、揺れることはなかった。
事情聴取後、七人の関係者は解放された。
鑑識側も必要なものは回収し、片付けていたからである。
翌日、憂一と昂生は、蛍吾と心晴が住む家に向かった。
それは、事件当日に憂一が彼らに伝えた言葉が原因だった。
「露口さん、三角さん。もし気力があれば、家に帰った後、普段は動かさない場所……そうですね、棚の裏やクローゼットの奥などを確認してみてください。そして、見知らぬものがあれば、すぐには触らず、手袋や布を使って、缶などの中へ移しておいてください。決して、素手で触ってはいけません。また、それが終わった後は、手洗いうがいを必ずしてください」
「……それに、何の意味があるんだ?」
「今はお話できません。納得できないようでしたら、聞かなかったことにしていただいても構いません。しかし、もし私が言った通り『何か』があり、助けを求める場合は、警察にご連絡ください。すぐに駆けつけます」
「……わかりました。できる限り、やってみます。ね、蛍吾」
「……ああ」
そして、朝九時頃。
二人から、『白っぽい粒が入ったクリアパックを見つけた』という通報が入った。
肇や四葉の証言から、その正体の見当はついている。
鑑識による検証で、その見立ては正解だと判明した。
シアン化カリウム──俗に言う『青酸カリ』である。
摂取量により異なるが、初期症状は頭痛、目眩、紅潮、瀕呼吸、頻脈など。
重症化すると、昏睡や無呼吸、痙攣、徐脈などを引き起こす。
症状の進行が早いため、即座に対処しなければ死は免れない。
シアン化カリウムは、主に有機合成や金の精錬、電気めっきの加工などに用いられている。
安易な販売はしないよう各販売者に通達されているが、入手自体はそれなりにできる。
しかし、特定業務に従事するものでもなければ、それも難しいだろう。
例えば、工場勤務の作業員のような者でもなければ。
また、クリアバッグからは一名の指紋が検出されたが、蛍吾、心晴のものではなかった。
シアン化カリウム回収後、憂一たちは警察署に戻り、前日に調べた蛍吾の経歴を洗い出していた。
彼は、四年前に傷害事件を起こし、逮捕されている。
被害者は当時高校生だった少女。
名は──『中原美雪』。
今回の被害者であった女性その人である。
蛍吾には本来、より重い罰を与えられていたが、被害者自身が減刑を求めたため、懲役一年に収められたという。
二人は友人関係にあり、美雪は『この件に関しては事故のようなものだ』と主張していた。
告訴したのは彼女の両親であり、蛍吾を罰することは彼女本人の意思ではないと考えられる。
詳細は、被害者家族の意向で伏せられており、資料からは確認できない。
それを知るため、憂一たちは当時を知る警察官に話を聞いた。
事件の通報を聞き、最初に駆け付けた女性警察官だった。
「その暴行事件、確か、女の子が妊娠して、堕ろせなかったから起こったんじゃなかったかな。男はともかく、女の子は高校生でしょ? 気の迷いでやっちゃったんだろうけど、親には話せなくて……って感じだと思う。結果的に、女の子は子どもを流産。そこから先は、警察としては管轄外だからよく知らないな。それに……女として、聞いていて気分のいい話じゃないしね」
それは、光から聞いた話との関連性があった。
噂が真実ならば、真相が見えてくるだろう。
更に翌日。
二人は彼らの母校へ聞き込みに行った。
また同じように、当時を知る教師へ話を伺う。
返答は、光の話と大差なかった。
あるとするなら、『中原美雪は真面目で模範的な生徒だった』という点だろうか。
車へ戻ってきた二人は、今まで集めた情報を整理する。
すると、ある一つの可能性が見えてきた。
だが、一つ足りない情報がある。
「……青酸カリの入手先。もし中原さん自身がそれを用意したのだとすれば、どこから手に入れたのか」
「真っ先に上がるのは、工場だろうな。この辺りは京浜工業地帯っつーお誂え向きなモンがある。……しっかし、まだ十九歳のガキに売るか? 青酸カリ一つの価値なんて高が知れてる。バレちまえば自分の人生も台無しになっちまうのに、それを選ぶのかってことだな」
京浜工業地帯には、いくつもの金属加工工場が存在する。
シアン化カリウムくらいはあるだろう。
だが、それで人生を破滅しても良いと考える者はそう多くない。
例えどれだけ金を積まれたとしても、逮捕されればそれまでだ。
取引相手が世間知らずの女性ならば、尚更警戒心は高まる。
「……つまり、間に誰かがいると」
「だろうな。反社やら何やら、おそらく裏稼業の連中だ。マル暴あたりに聞きにいくか。野放しにしておけば、また同じような事件が起きかねん。それに……例の事件に関わってる可能性だってある。行って損することはねえ」
昂生が覆面パトカーのアクセルを踏む。
フロントガラスに溜まった水滴が、ワイパーで落とされた。
朝から振り続けていた雨は、いつの間にか止んでいる。
今は、疑いようもなく秋雨の時期なのだが、今日はいくらか機嫌がいいらしい。
そういえば、来週には巨大台風が上陸するのだったか。
憂一は雨が好きだが、台風は守備範囲外だった。
濡れた道路を走る音に混じり、事務用携帯のコールが鳴る。
「こちら、桔川です。どうかしましたか?」
電話相手は、中原の監視に付いていた巡査だった。
「中原さんが目覚めました。まだ意識が混濁している様子ですが、会話はできるかと」
「承知しました。そちらに向かいます」
通話を切り、現在時刻の記録をした憂一は顔を上げる。昂生の口は弧を描いていた。
「本人に聞くのが手っ取り早い、ってな!」
「偶然ですけどね」
「これもお天道サマのお導きよ。日頃の行いのお陰だぜ」
「バリバリ曇天です」
「細けえこたあいい! 現場に急行だ!」
少しだけ速度を上げて、車は目的地へと向かっていく。
到着した病室には、既に両親らしき先客がいた。
女性は泣き崩れ、男性も声が震えている。
タイミングが悪かったようだ。
憂一たちが美雪の聴取を開始できたのは、それから一時間後だった。
夢見がちな彼女は、ぽつり、雨粒のように真実を零す。
神奈川県横浜市鶴見区における服毒事件をめぐる調査報告書
第一 事件の概要
令和一年九月一日、神奈川県横浜市鶴見区内の喫茶店にて、被害者と被害者の交際相手、交際相手の婚約者の三名で話し合いが行われており、午前十時頃、紅茶に口をつけた被害者が昏倒した。
神奈川県警(以下、「県警」という。)では、当日中に本件を殺人事件とみて調査を開始したが、後に目撃者および被害者の証言により、服毒による自殺未遂と発覚した。
本件は虚偽告訴罪とし、十一月十五日、書類送致した。
わたし、あなたのことが好きだった。
生まれたときから、わたしという人間の運命は、周りの人間によって決められていた。
お父さんやお母さん、先生たちは、みんな有無を言わさず『正しく生きる道』を選ばせようとしてくる。
「これがあなたのためになる」なんて言って。
わたしは、それが窮屈で仕方がなかった。
先の展開を知っているお話ほど、つまらないものはないでしょう?
わたしは、自分の未来は自分で選びたい。
わたしの人生を人のものにしたくない。
けれど、その願いは叶えられることはなかった。
運命が変わり始めたのは、高校生になった春のこと。
その頃、わたしはあなたに出会った。
あなたははぐれ者で、本来わたしと出会えるような人じゃなかった。
でも、どうしてか出会ってしまった。
あの路地裏で、傷ついたあなたに絆創膏を渡したとき。
わたしとあなたの人生は、交わり始めた。
あれは、梅雨の夕暮れ時だった。
雨が街路を濡らす中、あなたはわたしに言う。
「どうして、そんなにバカな生き方をしているんだ」って。
最初は、意味がわからなかった。
わたしの生き方は、みんなが『正しい』と言った生き方だ。
不満はあれど、それが間違っているとは思わない。
みんなは、真剣にわたしのことを考えてくれている。
それを無碍にするのは偲びなかった。
けれど、あなたは首を振る。
「お前が楽しく生きられないのに、何が『正しい』って言うんだ」って。
そこで、わたしは気づいた。
わたしはもっと、『わたし』のために生きていいんだって。
確かにみんなは正しいんだろう。
みんなが敷いたレールの上を走っていけば、わたしはきっと『幸せ』に生きられる。
けれど、そこにわたしが思う『幸せ』はない。
わたしの幸せは──そう、『自由に生きること』だった。
気づかせてくれたあなたは、そっぽを向く。
気恥ずかしそうに頭を掻いて、「助けてほしかったら、いつでも言え」と呟いた。
そんな不器用な優しさに、わたしは甘えてしまった。
今思えば、あなたは自分のことを『ヒロインを助けるヒーロー』とでも思っていたのでしょう。
そして、その役割が楽しかったのでしょう。
いつか飽きてしまうなんてことも知らないで。
そこから少しの間、わたしたちは会わなくなった。
わたしの帰りが遅いことを心配した親が、わたしの監視を強めたから。
夏休みに入る前まで、それは続いた。
夏休みに入ってから一週間後、本を買いに行くために、街へ出かけた。
暑い、暑いって肌を焦がしながら、一人炎天下を歩いていた。
ふと、路地裏が目に入った。
どうしてかは、わからなかった。
もしかしたら、期待していたのかも。
『また、あなたに会えるんじゃないか』って。
そして、それは叶った。
わたしはあの日みたいに傷ついたあなたを見つけて、焼き直しのように絆創膏を渡した。
奇跡の再会を果たしたわたしたちは、真昼にも関わらず二人で愉しんだ。
その日だけじゃない。
わたしたちは、みんなの目を掻い潜って、何度も何度も逢瀬を繰り返した。
わたしは、どこかのお姫様になったみたいだった。
あなたは、どこかの王子様みたいだった。
ばかみたいに甘くて、蕩けてしまいそうな幻想だった。
ずっと、みんなの言う通りに生きていたわたしには、自由に生きるあなたがとても眩しく映っていた。
たとえ、それが世間から『悪』と見做される所業でも、わたしの憧憬は変わらなかった。
──あなたみたいになりたい。
隣で眠るあなたを見つめて、わたしはそう願った。
何にも縛られず、何にも囚われず、ただ自由の風に乗って大空を飛んでいく。
まるで、蒲公英の綿毛のように。
だから、勇気を出してみた。
あなたとずっと一緒にいることにした。
まず、学校をさぼった。
次に、夜の街に出かけてみた。
お酒も煙草も、危ないお薬にだって手を出した。 あなたにとって、わたしはただのお財布だったかもしれないけれど、わたしはあなたと一緒にいたことで、沢山『自由』を知ることができた。
そうして、秋も終わる頃。
わたしはあなたの子どもを身篭ってしまっていた。 段々膨らんでいたから、冬にはみんなにもバレてしまった。
怒られたし、悲しまれたし、呆れられた。
けれど、あなただけは喜んでくれると思っていた。
なのに、あなたは──あなたは、「堕ろせ」と言った。
どうして? わたしとあなたの愛の結晶でしょう。
生まれるべき命でしょう。
どうして、殺さなくてはいけないの。
わたしはあなたに縋りついた。
あなただけは、わたしを救ってくれると思っていたから。
でも、あなたはわたしの手を払う。
そして、ふらついて倒れ込んだわたしのお腹を踏みつけた。
今でも思い出せる。
あなたが、あの時何て言ったのかを。
「……面倒くせえ。あーあ、やらなきゃよかった」
わたしの味方は、あなた一人だった。
あなたにだけは、心を許していた。
けれど、あなたにとってのわたしは、『どこにでもいる女』の一人だったみたい。
執拗にお腹を蹴られた。
潰すように、壊すように、あなたはわたしを傷つけた。
二十代の男性の力に、たった十六歳の女の子が敵うはずもなく、わたしは『あの子』を亡くした。
でも、あなたが好きなことは変わりなかった。
それから、わたしは一人になった。
学校を退学させられ、家の一角に幽閉された。
インターネットに繋がるものはすべて奪われてしまっていて、本だけが唯一の娯楽だった。
一年、二年。
時間が経つほど、わたしはあなたへの想いを募らせていく。
あなたがくれた『自由』に恋い焦がれていく。
わたしの掌にあったのは、陳腐な推理小説だった。
いつの間にか、四年の月日が経っていた。
ようやく、外出の許可が下りる。
わたしは、とりあえず街に出かけてみることにした。
街はあまり変わっていなかった。
あの路地裏も、昔と変わらずにそこにあった。
けれど、あなただけはいなかった。
一冊の本を抱えて、わたしは帰路につく。
やっぱり、あの日はただの奇跡だったんだ。
もう二度と、彼に会うことはないんだ。
わたしは、現実に打ちのめされていた。
あの日と同じ、梅雨の夕暮れ時。
あの日と違う、わたしの隣。
傘も差さず、冷たい雨に身体を晒して、ただ一人歩き続ける──見慣れた背丈が通り過ぎた。
無意識に、わたしは振り返る。
心の赴くままに、あなたを追いかける。
人混みから抜けて、やっとあなたに追いついた。
隣に、わたしと正反対な女の子を連れたあなたに。
ふと、二人の左手の薬指を見る。鈍く光る銀色がある。
中途半端伸ばした手を下ろした。
あなたは、変わってしまっていた。
あの日から、わたしの時間は止まっているのに、あなたの時間は動いていた。
それが、堪らなく羨ましい。
わたしは自由を奪われたのに、あなたはずっと自由だなんて──ああ、赦せない。
胸の中に抱えた本が、どこか熱を持っていた。
わたしは決意した。
あなたの自由を奪って、自由になろうと。
まず、あなたに近づいた。
昔のことをちらつかせながら、身体だけはあなたの満足いくものだったから、それを使って、あなたを惑わせた。
次に、ある筋に頼って、シアン化カリウム──『青酸カリ』を用意してもらった。
ちょっと値段は張ったけれど、手が届かないものではなかった。
そして、それをあなたの家に置いた。
棚の裏に隠したから、見つからないだろうと高を括っていた。
最後に、あなたのお嫁さんが見つけられるように、わたしの痕跡を置いていった。
お嫁さんは目ざといから、少しでも尻尾を見せれば、頭に血が昇るだろうとわかっていた。
およそ三か月の月日を経て、わたしは舞台を作り上げた。
決行場所の喫茶店に二人を呼びつけて、話し合いをするように見せかける。
わざとあなたたちを苛つかせるように話し、体調が悪いふりをして、途中でお手洗いに向かう。
用意しておいた青酸カリ入りのカプセル剤を飲み込んで、席に戻る。
他の客や店員たちが、わたしたちから目を逸らしていたのは、確認済みだ。
そこまでやれば、あとは時間を待つだけ。
数時間後、わたしは死ぬ。
数日後、あなたたちは逮捕される。
わたしは死によって自由になり、あなたたちはわたしの死によって不自由になる。
お嫁さんには悪いけれど、一蓮托生ってそういうものでしょう。
わたしを捨てて、幸せになったんだもの。
それくらいの報いがあったっていいじゃない。
もし、人殺しの罪を被せられなかったとしても、ここで死ねれば、それでよかった。
徐々に意識が薄れていく。
脳を貫くような激痛、世界が壊れていくような目眩。
呼吸は荒く、鼓動は早く。
けれど、どこか他人事。
どれだけ藻掻いても、あなたに届きそうにない。 まるで、溺れ死ぬように。
わたしの意識はぷつりと切れた。
そして、わたしは想定外にも目覚めてしまった。
どうやら、あの場にいたお客さんの一人が、わたしを助けてくれたらしい。
余計なことを、と悪態をついた。
いくつかの検査の後、わたしの前には警察を名乗る人たちが沢山やってきた。
決行の日から既に二日が経っていて、わたしの策謀はすべてばれているようだった。
呆気ない終わりだった。
一世一代の賭けにも失敗し、あなたの自由を奪うどころか、わたし自身が自由を得ることも叶わなかった。むしろ、不自由そのものが与えられた。
結局、運命というのは変えられないものらしい。
わたしの運命は、他人に決められていて、わたしが選ぶことは許されない。
道を踏み外してしまえば、あとは奈落へ真っ逆さま。
自由を得る道なんて、最初からなかったのだ。
病室の窓から空を見た。
曇りや穢れはどこにもなく、ただ蒼穹のみがそこにある。
ふわりと小鳥が飛んだ。
たった一羽。
わたしでも握り潰せてしまいそうな、か弱い小鳥。
それが、大空へ翼を広げて飛んでいく。
歌うような、さえずりが響く。
不意に、涙が零れ落ちた。
ああ、そうだ。
私が本当に好きだったのは、あなたじゃない。
あなたを通して知った、『自由なわたし』が好きだったんだ──。
電灯が淡く書庫を照らしていた。
二十六種の文字で構成された文章を左から右へ読み進む。
アガサ・クリスティより、『忘られぬ死』。
『ミステリーの女王』の異名を持つクリスティ女史は、毒殺トリックを用いることが多々あり、この作品でも青酸カリが使用されている。
つい最近のとある出来事が頭を過ぎった。
ちょうど良く、机上に置いてあった携帯端末が振動する。
表示されている名は、つい最近も耳にしたものだった。
「はい、竜宮です。お疲れ様です、光さん」
「……変わらないね、君は。何も言わなくてもわかってる」
「いえいえ。貴方からボクに連絡するなんて、例の件絡みくらいでしょう。推理でも何でもありませんよ」
一週間前、ボクは昔馴染みである天羽光の元へ訪れていた。
とある人物について調査してもらうためである。
依頼自体はすんなりと決まり、彼の養父が経営する喫茶店でコーヒーをいただいていたところ、例の事件が起こった。
酷い巻き込まれ事故だ。
幸い、事件はあの場にいた客や駆けつけた刑事のお陰で数日で解決された。
しかし、初めから真相をわかっているボクとしては、退屈でしかない時間だった。
これもすべて、彼の不幸体質に巻き込まれたのが原因だ。
「アナタも不運でしたね。その体質、どうにかならないんですか?」
「できるものなら、とっくの昔にそうしてるよ。いつも厄介事の方から僕に突っかかってくるんだ。まったく、勘弁してほしいな。……それで、体調の方は大丈夫?」
「ええ、問題なく。最近はずっと調子がいいんです。三年も眠っていたからでしょうかね」
ボク──『竜宮慶幸』は、約三年昏睡状態に陥っていた。
脊椎の損傷による意識障害であり、回復は絶望的だった。
だが、どうしてかボクは三年越しに意識を取り戻し、今こうして生きている。
下半身は不随となってしまったが、他は健康体に近い。
生まれつき病弱であったボクにとって、昏睡からの回復と同じくらい、それは奇跡的なことだった。
「最初はびっくりしたよ。まさか、記憶喪失だなんて。……まあ、蓋を開けてみれば、何も変わっていなかったわけだけど」
──記憶喪失。
医学的には記憶障害と呼ばれるその症状は、強い心的ストレスや外傷によって引き起こされる。
昏睡から目覚めたボクは、この世界と自分に関しての記憶を、何一つとして憶えていなかった。
数か月に渡るリハビリテーション後に外に出たとき、世界が『何もわからない』なんて、生まれて初めての経験だった。
「変わりない、のですかね。ボクとしては、かなり変わったような気もしますが」
「うーん。確かに変わってるけど……芯の部分、根っこの部分は変わってないと思うよ。何というか、捻くれてるけど正直なところとか」
「……馬鹿にしてます?」
「してない、してない。褒めてるよ」
ボクと彼の直接的な関係は、同じ高校の先輩と後輩というありきたりなもの。
しかし、彼が助手を務めている藤咲晃兎は、ボクの兄である竜宮大慶の親友兼好敵手であり、光とは学外でも交友があった。
親戚の子どもくらいの距離感で、そこまで仲が良かったというわけではないが、目覚めた後のボクを気遣ってくれた数少ない人間のうちの一人だ。
お人好し、というには些か打算的だが、悪人ではない。彼の便利な『性能』もあり、今ではよく頼らせてもらっている。
「……それで、結果は?」
そうして、光は口頭で調査結果を伝えた。
五分間の報告の後、彼は溜息を吐く。
「良いところまでは行けたんだけどね……ちょっと危ない臭いがしたから、途中で撤退しちゃった。多分、あれより深いところまで行くとなると、怖い人たちが出てくるかも」
「ふむ。やはり、『裏』の手を借りていると」
「警察にもバレずに行方を眩ませるとなると、ね。ただ、仲介者がいるみたい。先に声を掛けたのが、どちらなのかまではわからなかったけど」
「……仲介者、ですか」
──蛆、もしくは蝿か。
ぽつりと零す。
空間を隔てた先にいる彼に、その声は聞こえていたのだろうか。彼は、何も反応しなかった。
「……ありがとうございました。対人関係の調べものに関しては、アナタを頼るのが一番ですね。お陰様で、大体の目星は付きました」
「報酬に見合う働きができたか不安だったんだけど……」
「十分です。あの程度の情報から、ここまで探し当てるとは……大変驚きました。今後とも、頼らせていただきます。むしろ、アナタさえ良ければ、専属で雇わせていただきたいものですが」
「それはお断りします。本業が疎かになると、晃兎さんに怒られちゃう」
光は冗談目かしく言う。
どうやら、あまり本気にしてくれないらしい。
彼の他人の懐に入り込む技術は、目を見張るものがある。
どこにでもいるような平凡な容姿と、警戒心を削ぐ仕草。
近すぎず遠すぎずの距離感を保つが、相談事には親身に付き合ってくれる。
当たり前に信用され、当たり前に頼られる。
まさに、理想的な『善人』である。
そして、それが作り出された仮面である──完全に虚構と言うわけではない──と感じさせない演技力。
そこに、元来の優秀な頭脳と努力家であることを持ち合わせれば、不幸体質という負の面すら帳消しにできていた。
本当に惜しい人材だ。
あの男に先を越されていなければ、何としてでも手に入れようと画策したというのに。
わざとらしく残念がった。
「仕方ありませんね。しかし、もし彼の側を離れるときが来たならば、選択肢の一つくらいには考えておいてください」
光は苦笑する。
彼自身、藤咲晃兎という男が自分を離してくれるわけがないと思っているからである。
あの暴君のことだ。
万が一、彼が自分の助手をやめると言い出せば、ありとあらゆる手を使い、引き留めるだろう。
だから、この勧誘はポーズでしかない。
本命は、むしろこれからだ。
「……そういえば、言い忘れていました。実は先日、偶然水族館のカップル用のペアチケットを入手いたしまして。しかし、ボクには使い道がありませんから、光さんのご自宅に郵送したんです。最近、お忙しくて彼女と過ごす時間が取れていないでしょう。この機会に、是非アークライトさんと訪れてみてはどうですか」
「……凄い複雑な気持ちだよ、僕。というか、誰から聞いたの?」
「兄経由で、晃兎さんからです」
「余計なことを……」
ルナ・アークライト。
日本人とイギリス人のハーフであり、あるきっかけから光に惚れ込み、今は結婚を前提にお付き合いしているらしい。
彼女も光と同様、高校時代の先輩かつ以前と変わらずボクに接してくれている。
そんな彼女は、ここ数週間、多忙な光に構ってもらえず、少し拗ねているのだという。
これはチャンスだ。
今、ここで彼に恩を売っておくことで、今後も彼と良好な関係を築くことができる。
彼の多忙の原因の一つがボクからの依頼であったことを加味しても、やらない手はなかった。
なお、チケットの入手自体は、近隣住民の飼い猫探しを手伝ったご厚意でもらったものであり、本当にただの偶然である。
決して、マッチポンプではない。
「お熱いようで。結婚式には呼んでくださいね、ご祝儀たくさん包みますから」
「気が早すぎる。入籍ならともかく、挙式は少なくとも三年は後だよ」
「ちなみに、正式な婚約はいつ頃のご予定で?」
「……『指輪を渡す』って意味なら来年の春くらいかな。今年の冬にあっちのご家族に会いに行くから」
「なるほど。つまり、卒業旅行が新婚旅行になるんですか」
図星なのか、彼は唸り声を上げる。
熱愛っぷりをボクにまで知られていることが、相当恥ずかしいようだ。
『健全な若者らしくて素晴らしい』と言うのは、援護射撃というより追撃だろう。
「……チケットはありがたく使わせてもらうよ。いや、本当に感謝してる。感謝は、してる。でも、あんまり年上をからかっちゃダメだからね? ……あの二人は後でお灸を据えておかないと」
「肝に銘じておきます」
数秒の沈黙の後、耳まで赤く染めているであろう光は、ボクに感謝を伝える。
何か不穏なことを口走っていたが、聞かなかったことにした。
「……さて、これ以上話すこともないでしょう。改めて、今日はありがとうございました」
「どういたしまして。また困ったときは、いつでも頼ってね。君は抱え込みがちだから」
子どもをあやすように優しい声で、彼は言う。
口に出そうとしていた定型文が、喉の奥に躓いた。
一度深く息を吸い込み、囁くように尋ねる。
「……光さん。アナタから見て、今の『ボク』はどう映りますか」
静寂──たった数秒のそれが、やけにボクの心を締め付ける。
窓に叩きつけられる雨の音が、強く耳に響いていた。
重く口を閉ざしていた光が、ようやく答えを出す。
「……『楽しそう』、いや『幸せそう』かな。この世界すべてが新鮮で、生きることに意味を見出しているみたい。前は……ずっとつまらなそうで、今にも死にそうだったから」
──ああ、それなら良かった。
抑えきれない笑みが零れる。
ボクは、心の底から喜んでいた。
「……安心しました。一度死んだ甲斐があるというものです」
「縁起でもないね。あながち間違ってないのかもしれないけどさ。……それじゃあ、また」
「ええ。また、いつか」
そうして、淡白な別れの挨拶の後、通話は切れた。
雨音だけがボクの耳に響く。
カーテン越しの窓の外には、世界を押し潰してしまいそうなほど厚く重い暗雲が広がっていた。
ちくりと脳が痛みを訴える。
あの日から、もうすぐ三年が経つ。
たった三年、しかして三年。
たった一人の人間が生まれ変わるには、十分な時間だった。
背後から近づいてくる少女が、ボクの名を呼ぶ。
平坦な声は、どこか不安を纏っていた。
「大丈夫だよ。ボクは今、とっても幸せなんだ。……ねえ、四葉。紅茶を淹れてくれるかい?」
「もちろんです、慶幸様」
一礼し、使用人である春日四葉は書庫の外へ消えていく。
本を机に置き、ロッキングチェアに身体を預けた。
目を伏せ、思い描くのは、これからの未来。
必要な情報は、まだ少し足りない。
ここから先は、実際に動いてみないことには知り得ないのだろう。
それに──
「……随分と難儀な依頼をしてくれたな」
それは、『探偵もどき』だけでは、到底手に負えない代物だった。
フィクションでは、難事件を解決するのは『探偵』だと相場が決まっている。
だが、この世界は現実だ。
頭脳明晰、冷静沈着な探偵は、どこにもいやしない。
加えて、もし、その地位に迫る力を持っていたとしても、この国では推理の礎となる情報を得ることができない。
椅子に座っていても、情報から集まってくる安楽椅子探偵など、夢のまた夢である。
核心を突ける情報を持つのは、いつだって警察だけだ。
──事件の当事者を除いて、だが。
「……桔川憂一、か」
あの無愛想な刑事を絆すには、骨が折れそうだ。
現実は嫌いだ。
ボクに残酷な真実だけを教えるから。
虚構は嫌いだ。
甘い嘘も、ボクには意味がないから。
ボクはただ、幻想だけを追い求めていた。
本物でも、偽物でもない。
存在しないモノ、ありえないモノ。
夢だけがボクを救ってくれた。
憂鬱でしかないこの世界で、夢だけがボクを幸福にしてくれた。
ボクの居場所は、夢の中だけだった。
けれど、いつか夢は醒めてしまう。
眠りから醒めない生き物なんていないように。
熱が冷めないことはないように。
ボクは、くそったれな現実に呼び起こされてしまう。
ずっと、夢を見ていたかった。
ずっと、幸せでいたかった。
なら、どうすればいいかなんて決まっている。
──永遠に眠ればいいんだ。
それは、きっと、世界でいちばん愚かな選択。
生物として、欠陥でしかない仕組み。
ボクらにとって、本来、生きることは命題なんだ。
決して、死はありえない。
いくら証明しても、死が正しくなることはありえない。
それでも、ボクは『死』を選んだ。
正しいことしか知らないボクが、初めて選んだ間違い。
誰にも肯定されなくとも、誰もが否定しても。
誰もが不正解だと指をさしても。
ボクは、ボクだけは、その選択を正解にしたかった。
だって、生きることが正解なら、ボクが苦しみ続けることも正解になる。
それが幸せになる。
でも、ボクはそれを『幸せ』だとは思わない。
誰に何と言われようも、ボクにとって『生』は不幸なんだ。
なのに、それを幸せだなんて。
他人の不幸を幸せだと思うなんて、おかしいじゃないか。
そうしてボクは、この不幸だらけの現実世界を捨てた。幸福だらけの夢の世界に生きることにした。
その果てにどうなろうとも、ただ一つの答えに向かって飛び込んだのだ。
最期に見えたのは、夜暗に満ちた雨天と──誰かの涙だった。
──File.1『現実、虚構、そして幻想』 了
当作品をご覧いただき、ありがとうございました。
こちらは〖シャーデンフロイデ×メランコリー〗の中では、序章に相当するお話になります。
続編の執筆を考えておりますが、先に更新するべき作品群がありますので、かなりの好評をいただけた場合でもなければ、発表は数年後あたりになるかもしれません。
気長に待っていただきますようお願い申し上げます。
重ねて、当作品をご覧いただきありがとうございました。
評価・感想などは、大変執筆の励みとなります。
是非お送りいただけますと幸いです。




