ミコトくんとぼく
まだ夕焼けが少し残る空を見ながら、ぼくは薄暗い道を歩いていた。
特に目的地があるわけじゃない。とにかく外の空気を吸いたかった。あの時以来、家から出ていなかったから。
何回か外に出ようとしたことはあったけれど、毎回家のドアを開けると、あの事故のときの、ものすごく大きな音が響いて、ぐちゃぐちゃに潰れた車が、家の前の道を埋め尽くしているが見えた。
そんなこと現実じゃないって分かっているけど、ぼくはそれを見て、気持ち悪くなって、怖くなって、ものすごく悲しくなって、泣きながら自分の部屋に逃げ込む。
それが繰り返されるうちに、ぼくは家から出たくなくなって、友達にも会いたくなくなった。
家から出ようとしたり、友達と話したりすると思い出したくない、あの事故の場面が頭に浮かんできてしまう気がして怖かった。
「コウタがそうしたいなら、しばらくはそれでいいと思うよ」
お母さんはちょっと悲しそうな顔をしていたけれど、優しくそう言って担任の先生にも話してくれて、学校もぼくが行きたくなるまで休んでもいいことになった。
それから、僕はお母さんともあまり話しをしないで、自分の部屋でずっとゲームをしていた。ゲーム以外は何も考えられなかった。
でも、今日はなぜか無性に外の空気が吸いたくなった。外を歩きたくなった。そして、なぜか、今日は家を出ようとしても、大きな音はしなかったし、潰れた車も現れなかった。
久しぶりに歩く地面の感触は懐かしい感じがして、少しづつ気分が良くなって、ぼくはいつの間にか、いつも友達と遊んでいた公園に来ていた。
日が暮れた公園は、みんな家に帰った後で誰も居ない。
街灯だけが照らす薄暗い公園はとても静かで、まるで街中の人がいなくなり、自分一人になってしまったようだ。
無人のブランコやジャングルジムは昼間の穏やかな顔とは違い、少し気味が悪くて怖い表情をしているようにも見えた。
ぼくは公園に一つしかないベンチに座ってぼんやりと光りだした月を見ていた。
そうしていると、とても心地が良くて、疲れていた心が少しづつ治っていくように感じた。
でも、そんな心地良い時間は長く続かなかった。誰かがこちらに近づいてくる気配を感じたからだ。ブランコのほうからゆっくりと歩いてくる人影は、ぼくと同じ小学校高学年くらいの男の子のように見えた。
もし、知っている子だったら学校を休んで公園に来てるなんて、ずる休みだと思われるかもしれない。ぼくは気がつかれる前に急いで帰ろうとしたけれど、人影はいつのまにかぼくの目の前にいた。
「こんばんは」
近づいて来て男の子が言った。
街灯で薄く照らされたその子の顔は、学校でもこの公園でも見覚えがない顔だった。
ぼくがどう答えれば良いのか迷っていると、その男の子はぼくの隣りに座って、さらに話しかけてきた。
「僕はミコトっていうんだ。コウタくんだよね?」
「なんでぼくの名前を知ってるの?」
「君のことは、ずっと前から知ってるよ」
ミコトと名乗った男の子は、緊張しているぼくを落ち着かせるように、優しく笑いながらそう言った。
「どこかで会ってる?」
「うーん、そうとも言えるし違うとも言えるかな。でも、そんなことは大事なことじゃない。僕たち友達になろうよ」
急に何を言っているんだろう、と思って彼の顔を近くでよく見たとき、ぼくは少し驚いた。彼の左目の色が他の人とは違う色をしていたからだ。濃い緑色なのか、青色なのか、その中間のような今まで見たことがない色をしている。
そして、その目を見ていると、ぼくはとても落ち着いて少し楽しい気持ちになった。でも、そんな気持ちを知られるのはなんとなく恥ずかしくて、ぼくは彼から目をそらしながら言った。
「ぼく、今友達はいらないから」
本当は突然現れて、一方的にぼくを知っていて、変わった目の色をしているミコトくんにとても興味があった。でも、誰かと居ると、また、事故のことを思い出してしまいそうな怖さが、まだ、ぼくの心のなかにあった。
「コウタくん、今朝怖い夢を見たよね」
ミコトくんはぼくの言葉が聞こえなかったように、そう言った。ぼくは驚いて「えっ」と声に出して彼の顔を見た。
事故にあった日から、ぼくはよく怖い夢を見るようになっていて、今朝も確かに夢を見ていたからだ。
その夢はいつもストーリーも何もなくて、ただ怖くてモヤモヤとしたものが、ぼくの身体の中に入ってきて暴れ回るような夢だった。本当に怖くって今朝も泣きながら目が覚めた。
「辛いよね、怖い夢って。でもね、必ず怖い夢は見ないようになるから大丈夫だよ。嫌なこととか、悲しいこととかは時間が経てば消えていくんだ。だから、もう少しすれば、また元通りになるよ。そして、本当にやりたいこと、新しい目標に向かって努力することができる。心配しないで」
ミコトくんの言葉は、すごく頼もしくて、勇気をくれて、ぼくの心を塞いでいる黒いコンクリートの塊みたいなものが少し剥がれ落ちたような気がした。
「明日は怖い夢を見ないと思うよ。また会おうね」
ミコトくんはそう言うと、消えるようにいなくなっていた。
ミコトくんの言う通り、ぼくは次の日に怖い夢を見ることはなかった。
そして、その日から、ぼくが日が暮れてから誰もいない公園に行くと必ずミコトくんも来ていて、ぼくはいつのまにかミコトくんにいろいろなことを話すようになっていた。
学校のことも、お母さんのことも、そして、怖くて悲しくて辛くて誰にも話したくないと思っていた、あの事故のこともミコトくんにはなぜか素直に話すことができた。
ぼくとお父さんは2ヶ月前に交通事故に遭った。ぼくは助手席に座っていて、軽いケガで済んだけれど、運転席に他の車が衝突してきて、お父さんは死んだ。
車が衝突した瞬間は爆発したみたいに、ものすごく大きな音がした。
運転席を見たら、ぶつかってきた車のタイヤがめり込んでるのが見えて、お父さんは身体が変な感じに曲がっていて動けなくて、顔中から血を流してた。そして、「こっちを見るな、早く外に出るんだ!」って何回も何十回もぼくに言った。
それでもぼくは怖くて動けなくて、お父さんを見てるしかなかった。少ししてから、誰かがぼくの身体を持ち上げて車から出してくれるまでぼくは動けなかった。救急車に乗るときに、まだお父さんが中にいるぐちゃぐちゃに潰れた車が見えた。
お父さんが死んだって聞いたのは、それから1週間後のぼくが退院する日だった。本当は『ソクシ』だったけど、ぼくがショックを受けないようにお母さんが退院するまで黙っていたそうだ。
ぼくは『ソクシ』の意味がわからなくて、お母さんに聞くと、「車同士が衝突した瞬間に、お父さんは亡くなっていたみたいなの」と大粒の涙をこぼしながら教えてくれた。
「嘘だ! 衝突してからずっとお父さんは、ぼくに早く外に出ろって言ってくれてたよ。多分、10分くらいずっとぼくに話しかけてた! まだ死んでなかったんだよ!」
ぼくが一生懸命そう説明すると、お母さんは「うん、うん」って泣きながら繰り返してぼくを抱きしめた。
ぼくが誰にも話したくなかったあの事故のことを話すと、ミコトくんは泣いていた。
それを見て、もう泣かないようにしようと思っていたのに、ぼくも一緒に泣いてしまった。ミコトくんは優しくぼくの肩に手をかけてくれた。
しばらくするとミコトくんは、ぼくの家に遊びに来るようになった。昼間はお母さんが仕事でいないから、ゆっくりと2人で遊んだり話しをしたりできる。でも、ぼくがジュースとかお菓子とかを出してあげても、なぜかミコトくんは飲んだり食べたりすることはなかった。
「なんでお菓子食べないの?」
「僕はお菓子が好きじゃないから…」
ミコトくんはそう言うけど、ぼくはもしかしたら、病気で食べたり飲んだりできないのかもしれないと思った。
「病気とかのせいでお菓子食べられないの?」
「そうじゃないよ。心配してくれてありがとう、コウタくんの病気も早く治るといいね」
確かにぼくは生まれつき目の病気で、小学校に入る前から、定期的に病院に通っている。
「ぼくの病気のことも知ってるの?」
「そうだよ、僕はコウタくんのことはなんでも知っているし、何を考えているかもわかるんだ」
確かにミコトくんは、まるでぼくの心の中が見えるみたいに、考えていることをわかってくれる。ぼくが何を話したいのか、何が好きなのか、何を望んでいるのかをすごくわかってくれる。
それはお父さんが死んで心が疲れているぼくにとって、すごく心地が良かった。ミコトくんと話していると、ぼくの心を塞いでいる黒いコンクリートの塊みたいなものが、どんどんと剥がれ落ちていく感じがしていた。
「コウタさ、最近、家に誰かお友達を連れて来てる?」
ある日、お母さんがそう聞いてきた。
ミコトくんが来たときに、お菓子やジュースを出しているから、誰かが家に来ているのがお母さんにわかってしまったようだった。
お母さんもお父さんが死んでしまって悲しいのに、ぼくのために働いている。ぼくは学校に行かないで、ミコトくんと遊んでいることが悪いことをしているみたいで、今までお母さんには黙っていた。でも、わかってしまったら嘘をつくのはいけないことだ。
「うん…、最近できた友達でミコトくんっていうの」
「そう…、同じ学校の子?」
「それは、わかんない」
「住んでるのは、どのあたりなの?」
「…それもわかんない」
ぼくはミコトくんについて何も知らなかった。それでもいいと思っていたし、親友だと思っていた。
でも、ぼくがミコトくんのことを話すと、お母さんはなぜかすごく困ったような顔をしていた。
「昨日、日が暮れてから公園に一人で行ってるわよね? 近所の人がコウタのこと見かけたって教えてくれたけど…」
「行ったけど一人じゃなくて、ミコトくんと行って遊んでたよ」
お母さんはますます困ったような顔になっていった。
お母さんは翌日仕事を休んで、一緒に病院に来た。事故の後に心の相談に乗ってくれている、カガワ先生という優しい女性の先生だ。ぼくが一人で診察室で待っていると隣の部屋で、お母さんが先生にぼくのことを説明している声が聞こえてくる。
「近所の人の話しでは、公園で誰かと話しているように、独り言を言ってるみたいなんです。家では使った形跡がないグラスとかが置いてあって、友達が遊びに来てたって言うんですけど…。私、事故のせいで、あの子が精神的に、ちょっと病んでしまってるんじゃないかって、心配で」
「わかります。ご心配ですよね。でも、この後、コウタくんから話しを聞いてみないと断言は出来ませんが、お母さんが心配されているような状態ではないと思いますよ」
「それなら、いいんですが…、先生よろしくお願いします」
お母さんがそう言うと、ぼくが居る診察室のドアが開いて先生とお母さんが入ってきた。カガワ先生はぼくの前に座って、ミコトくんのことを詳しく聞いてきた。ぼくは公園で出会ったことや、青い目をしていてとっても優しいこと、どんな話しをしたかなどを正直に話した。先生はニコニコしながらミコトくんのことを聞いてくれて、ぼくはとても嬉しかった。
「コウタくんはミコトくんが大好きなんだよね」
「うん、一番仲がいい友達だよ」
「でもさ、コウタくんもわかってるよね? ミコトくんはコウタくんの心の中にいて、ほかの人には見えないってことは」
カガワ先生が優しくゆっくりと質問する。それを聞いて、お母さんはとても驚いた表情になった。
「うん…。何となくはわかってた。でも、ミコトくんはすごくいい奴なんだ。だから消したりしないで!」
「大丈夫よ、今まで通りミコトくんとは好きなときに会ってもいいのよ」
そう言うと、先生とお母さんは、また隣の部屋に行って話し始めた。
「あの、先生、どういうことなんでしょうか」
「コウタくんが言っているのは、空想上の友達であるイマジナリーフレンドのことだと考えられます」
「イマジナリーフレンド…、それは幻覚とかですか? あの子は精神的に問題があるんでしょうか?」
「いえ、そのようなことはありません。世界中の多くの子どもにイマジナリーフレンドがいることがわかっています、成長過程においても正常なことだと考えられているんです」
「そうなんですか…」
「大きなストレスをきっかけに出現することもあり、コウタくんの場合は事故がきっかけかもしれません。今話しを聞いてみると、ミコトくんというイマジナリーフレンドは事故に遭ったストレスの軽減などの防衛機制に寄与しているようです。辛いことを少しでも忘れるため心が用意してくれた機能のようなものと思ってください」
「防衛機制っていうのは…?」
「コウタくんの場合は、理不尽な事故への憎しみや怒り、お父さんが亡くなった悔しさなどを自分のなかで納得させるために、ミコトくんというイマジナリーフレンドをつくり出したと考えられるんですが…、ちょっとわかりにくいですよね?」
「いえ…、何となくわかったような気がします。では、このままにしておいても大丈夫なんでしょうか?」
「ええ、ほとんどの場合はストレスが軽減されることや、年齢が進むに連れて消失しますので、このままにしておいても心配ないと思います」
先生がそう言うと、「そうですか」と、少し安心したようなお母さんの声が聞こえた。
すると、さっき先生が座っていたぼくの目の前の椅子には、いつのまにかミコトくんが座っていて、「僕たちずっと友達でいられる。よかったね!」とぼくに微笑みかけた。ぼくも大きくうなずいて、ミコトくんと肩を組んだ。
病院でミコトくんのことを話してから、ぼくとミコトくんは、毎日のように長い時間話すようになっていた。
「コウタくんはさ、事故でぶつかってきた相手のこと、どう思ってるの?」
ぼくが自分の部屋でお母さんの用意した算数ドリルをやっていると、ミコトくんはそう聞いてきた。
ミコトくんが事故のことについて聞いてくるのは、多分初めてで、しかも急に聞かれたので、ぼくはすぐに答えられなくて考えてしまった。
「憎いとか復讐してやりたいとか思ったことない?」
ミコトくんが言った。
「別に…、そんなことは考えたことないよ…」
ぼくはそう言ったけれど、ミコトくんが言った復讐とか憎いとか、その言葉を聞いた途端、すごく心臓がドキドキして身体中が震えだした。事故のときに一瞬だけ見えた相手の顔がいま、とてもはっきりと頭の中に浮かんだ。
ミコトくんは青い目でぼくを見つめている。
「ぶつかってきた人は、裁判にかけられて罰を受けるんだって…、お母さんが言ってた」
ぼくがそう言うと、ミコトくんはぼくをじっと見つめたまま言った。
「お父さんが死んじゃったのに、コウタくんはそれでいいの? 悔しくないの?」
「なんでそんな事言うんだよ! 悔しいに決まってるよ! でも…、どうしようもできないだろっ!」
ぼくは大きな声でそう叫んだ。心臓のドキドキがさらに大きくなり、身体中の震えも激しくなっていた。ぼくはどうして良いかわからなくなって机の上にあったドリル帳とかノートとかハサミとかをミコトくんに投げつけると、ミコトくんはいなくなった。
ミコトくんは、なんで、あんなこと言うんだろう。本当は、ぼくがすごく悔しくって、お父さんをあんな目にあわせた奴を、すごく、すごく…、本当に、殺したいほど憎んでることを知ってるはずなのに。
ぼくの心のなかにある黒いコンクリートみたいな塊がまた、剥がれ落ちたような気がした。
その日の夕食のときに、お母さんが事故の裁判が始まる予定を教えてくれた。
「だいぶ事故のことを調べるのに時間がかかるみたいで…。もしかしたら半年くらい経たないと始まらないかもしれないって。そうなったら、コウタが中学生になっちゃうわね」
「なんで、そんなに時間かかるの?」
「それが…、お父さんの運転にも原因があるんじゃないかって、相手が言ってるらしいの。もちろん、そんなことはないし、警察の人もそう言ってくれてるんだけど、その捜査に時間かかってるみたい」
ぼくはお母さんの言葉を聞くと、また心臓がドキドキして身体中が震えてきた。本当に怒るって、こういうことなのか、と思った。顔が熱くなっていく。
「なんでお父さんの運転が悪いんだよ! ぼくはちゃんと見てたよ! お父さんはなんにも悪くないよ!」
ぼくが大声で言うと、お母さんは泣きそうになりながら「そうね」と短く言った。
「ぼくは、あいつをやっつけてやりたい! お父さんを殺したんだから…、だから、だから、あいつを、あいつを、殺し…」
「コウタ!」
突然、お母さんがぼくの言葉を遮って、すごく大きな声を出した。お母さんは誰に対しても、いつもゆっくりと優しく話す。小さい頃からぼくを怒るときにも大きな声は出したことがなかった。
ぼくが今初めて聞いたお母さんの叫ぶような、悲鳴のような大きな声は、ぼくみたいに怒ってる声じゃなくて、とても悲しんでいるような声だった。
「お願いだから、そんな事言わないで」
お母さんは。いつもの話し方に戻って言った。
「なんでだよ? 復讐はしちゃいけないの?」
「お母さんだって、悔しいし、相手が憎いし赦すことなんて一生できない。でもね、復讐とか、殺してやりたいなんて絶対に、絶対に言わないで。それはなんの解決にもならないし、お父さんもそんなこと望んでないの。コウタがちゃんと前を向いて成長していくことがお父さんも私も一番に望んでることなの。お母さんには、もうコウタしかいないんだから」
お母さんは涙を流していたけれど、しっかりとぼくの目を見ながら、いつもの優しい話し方で言った。
ぼくは心臓のドキドキが落ち着いて、震えが収まって顔も熱くなくなった。そうだ、ぼくがしっかりしてお母さんを心配させないようにしなきゃいけないんだ。
お父さんはぼくと2人のとき、いつも言っていた、「お母さんはコウタが目の病気になったのは自分のせいだって思ってるから、お前は健康に気をつけて、お母さんを心配させないようにしなきゃな」って。
ぼくは目の病気で、眼圧っていうのが高くなりやすくて、放っておくと目が見えなくなってしまうらしい。
だからお母さんはいつもぼくの目をよく見て、変わったことがないか確認してくれている。お母さんを心配させないようにしなきゃいけない。ぼくがしっかりしなきゃ、それが、お父さんとの約束だ。
「ごめんなさい。もう変なことは言わないよ、お母さんに心配かけないようにするから」
ぼくがそう言うと、お母さんは泣くのをやめて笑顔をつくった。
それから、ぼくは少しづつだけど、学校にも行くようになった。友達も先生もすごくぼくのことを心配してくれて、遅れていた勉強も先生が丁寧に教えてくれたし、友達も遊びに誘ってくれた。
最初の頃は、学校にいてもたまに事故のことを急に思い出して、気分が悪くなることもあったけれど、それもだんだんと起こらなくなっていった。
そして、学校に行き始めてからは、ミコトくんがぼくのところに来ることが減っていった。
「この前、事故の相手のこと聞いたらコウタくんは怒ってたけど、今はどう思ってるの?」
1ヶ月ぶりに現れたミコトくんは、いきなりそう聞いてきた。でも、ぼくはこの前みたいに心臓がドキドキしたりすることもなくて、すぐに素直に答えることができた。
「やっぱり相手は絶対に赦せないけど、罰は法律が与えてくれるって、お母さんが言ってた。だから、仕返しとか、復讐とか考えちゃだめなんだ。ぼくはこれから、お母さんと一生懸命生きていくことを考えたい。お父さんと約束したみたいに、お母さんに心配をかけないで、ちゃんと学校に行くようにするんだ」
ぼくがそう言うと、ミコトくんはとても優しい顔で笑って、何も言わずに消えてしまった。
そのときからミコトくんはぼくの前に現れなくなった。ぼくが毎日学校に行くようになって、前みたいに学校の友達と毎日遊べるようになったからかもしれない。でも、ぼくはまた、ミコトくんに会いたいと思っている。やっぱりミコトくんはぼくのことを一番理解してくれる親友だと思うから。
小学校の卒業式の日、謝恩会も終わってお母さんと家に帰った後、自分でもなぜだか分からないけれど、急に公園に行きたくなった。お母さんに夕飯までには帰ると伝えて、ぼくは日が暮れた公園で、あの日みたいに一人でベンチに座って月を見ていた。
「卒業おめでとう」
いつのまにか、ミコトくんが隣りに座っている。
「ミコトくん、ありがとう。やっぱり来てくれたんだね」
「今日が最後になるからさ」
ミコトくんは寂しそうに言った。
「うん、ぼくもそんな気がしていたんだ。でも、すごく寂しい。ぼくが元気になれたのはミコトくんが辛いときに話しを聞いてくれたからだよ。ぼくを助けてくれた。ありがとう」
ぼくはそう言いながら自然と涙が出てきた。本当にミコトくんがいなかったら、ぼくは元気になれなかったかもしれないと思っていた。
「コウタくん、元気でね。もう会えなくなるけど、僕はいつも君と一緒にいるよ。これからは本当に自分のやりたいことができるようになるよ、必ずね! だから泣かないで」
ミコトくんは笑顔でそう言いながら、立ち上がって歩き出した。
「ミコトくん!」
と、ぼくが呼ぶと彼は一度だけ振り返って手を振り「さよなら」と言った。
その時、ミコトくんの青い瞳が一瞬だけ強く光った気がした。
*********
「こんにちは、久しぶりね」
そう言いながら部屋に入ってきたのは、カガワ先生だった。笑顔をつくってはいるけれど、先生の声は少し上ずっていて緊張しているのがわかる。
「こんにちは、先生」
会議室みたいな広い部屋の隅にテーブルとパイプ椅子が置かれていて、僕と先生はそこで対面している。お母さんはほかの部屋にいるみたいだった。少し離れた位置には監視みたいに、この児童相談所の男性職員が座っていた。
「目は大丈夫? お母さんに聞いたんだけど、卒業式の日の夜に急に痛みが出たみたいだけど」
「ええ、大丈夫です。今は痛みはありません」
僕は左目を眼帯越しにそっと触った。
「だったら良かったわ。じゃあ、本題に入るわね」
先生はさらに緊張した表情になって話し始めた。
「率直に聞くけど、なぜあんなことをしたの? せっかく来週には中学校の入学式もあって、お母さんもすごく楽しみにしていたのに…」
「なぜ? 当然のことじゃないですか。だって、あいつはお父さんを殺したんだから。今日は失敗したけど、次は絶対に殺したい、復讐ですよ」
本当に悔しかった、今日はあいつを殺してやるチャンスだったのに、気づかれて失敗してしまった。あいつはスーツを着て、裁判が終わったら普通に駅に向かって歩いていった。お父さんを殺したくせに、自由に街を歩いて地下鉄に乗ろうとしていた。僕は計画通りにナイフを持って突進したのに…、あいつは僕に気づいて逃げてしまった。そして、僕は駆けつけた警官に捕まって、この児童相談所に連れてこられた。
「でも…、最近は元気になって、お母さんにも心配かけないって、言ってたんでしょ?」
「それはコウタくんのことですよね?」
僕がそう言うと、先生の表情が瞬く間に変わった。驚きで大きく目を見開いたまま硬直した。数秒間まるで静止画のようになった後、今度は額に皺を寄せて目を細めると僕を長い間、じっと見つめる。そして、大きく息を吸う音が聞こえると、先生は震える声で言った。
「あなたは、誰?」
「ミコトです。前にコウタくんが話してたでしょう?」
「そうね。聞いているわミコトくん。では、コウタくんはどこにいるのかな?」
先生の声はさらに震えていた。
「卒業式の日に公園でバイバイしました。もうどこか遠い場所に行ってしまったんだと思いますよ。もう誰も会えないかもしれません」
先生の顔が見る見る青ざめていくのがわかる。離れた所にいる職員の人も、驚いた顔で僕を見ていた。先生はゆっくりと立ち上がり、職員の人に目配せをすると、部屋の少し離れた場所に行って何かを話し合っていた。
時々、「カイリセイドウイツセイショウガイ…」とか「イマジナリーフレンドではなかった…」とか難しい言葉で話している。
僕は、先生たちが何を話しているかは全然興味がなくて、次こそあいつを確実に殺せる方法を考えていた。
コウタくんは心が弱いから、絶対に僕と同じことは出来なかっただろう。黒いコンクリートの塊みたいなもので、怒りとか憎しみという人間に一番大切な感情を抑え込んでしまっていたのだから。でも僕は違う、その塊を全部壊してやった。僕は感情のままに行動できるんだ。
ふと、横を見ると壁に鏡があって、僕の顔を写している。眼帯越しにもう一度左目を触ってみた。小さい頃から診てくれている目の先生は「君の場合は眼圧という目の圧力が高くなりやすい。急に目の圧力が高くなると、瞳が青くなるから、そうなったら注意が必要だよ」と言っていた。
眼帯を外して鏡を見ると、青くなった瞳が映る。僕はそれを見ると、なぜか楽しい気分になって、声を上げて笑った。それに気づいた先生たちが心配そうな顔をして、こちらに戻って来たけれど、僕は先生たちの前でも、楽しくて、ずっとずっと笑い続けていた。