第二部 13話 また攫われました
「クリス、少しだけ海に入ってもいいですか?」
春の陽気で、今日はとても暖かかった。お腹が一杯になったルーちゃんは、馬車の中でお昼寝中だ。
日傘をさしながら砂浜を歩いていると、少し汗ばむほどだ。気持ちよさそうな波が、誘うように押し寄せては引いていく。ザザザッと聴こえる波音まで私を誘っているようだ。
「入るって、まさか泳ぐつもり?」
「いや、まさか…ちょっとだけ足を浸すだけです」
流石に泳ぐための服は持っていない。小さい頃、領地の川で水遊びをした記憶はあるが、貴族の令嬢は基本的に泳ぐ機会は無いので、泳げる令嬢はいないはずだ。女性でも騎士になれば、川で泳ぐ訓練をするそうだが、それは希少だろう。
「それなら大丈夫だろう。メリ、何か拭くものを用意してくれるかな。濡れれば、砂が足についてしまう」
岩場に荷物を置いて、靴と絹の靴下を脱いだ。令嬢が素足をさらして海に入るのは、淑女としては褒められたものではない。こっそり岩場の陰に隠れて、私はそっと海に足を浸した。少し冷やりとした海水が、火照った体にはちょうど心地いい。
「気持ちいいですよ」
「そうか、ならば僕も付き合おうかな?」
クリスは、すぐに靴を脱いで私の元へやって来ようとした。ところが、今までさざ波程度だった波が、急に高く押し寄せた。焦った私は足を取られて、海の中で派手に尻もちをついてしまった。
「大丈夫か⁈リア」
「はい、ずぶ濡れですが、怪我はありません。海の水って、本当に塩辛いんですね……」
転んでしまったため、服は濡れ髪も半分海水に浸かった。水が張り付き、服が透けてしまったので、このままでは馬車まで戻ることも出来ない。
「転移魔法、使っちゃ駄目だよね……」
「駄目ですよ。今は緊急ですが、私用ですから使えませんよ」
「分かった、僕が行ってくるから、トムはリアをあまり見ないようにして、護衛しておいて」
クリスは私の護衛をトムに任せて、自ら馬車の方へ取りに行ってくれる。トムに私の着替えや下着を探させるのは、流石に恥ずかしかった。メリは布を取りに行ってまだ戻ってきておらず、タイミングが悪かった。
トムは私を直視することを避けて、背を向ける形で陸からの不審者を警戒している。不審者が来るとすれば、それは当然陸からで、海からやって来るなんて、私もトムも考えていなかった。
海から立ち上がることも出来ず、座ったまま胸の辺りを腕で隠すようにして、クリスが来るのを待っていた。体は少し冷え、このままでは風邪をひくかもしれないと考えていると、急に体が海の方へ引っ張られた。
「え……⁈」
一瞬のことだった、ぐんっと体が勝手に海の方へ引っ張られ、見る見る海岸が遠ざかっていく。トムが異変に気づいて振り向いた姿が、小指ほどの大きさにしか見えない。考えている間に、更に体はどんどん岸から引き離されていく。
「誰か、クリス、助けて!」
『クゥゥ~』
誰かが返事をするように鳴いた。嫌な既視感がする……まさかこの展開は?私は冷静を心がけて、改めて私を掴んでいる存在を確認した。
私を掴んでいたのは、青い鱗を持つ大きな手で、鋭い黒光りする爪がついていた。指の間には水かきの様なものがついているのが確認できた。
「もしかしなくても、ドラゴン……」
『クゥゥ』
ドラゴンは返事するように鳴いて、どんどんと泳いでいく。沖に出て海が深さを増したころ、ドラゴンが私を見た。何となくだが、今から海の中へ行くぞと言われた気がした。もう嫌だ……
現実逃避しそうになった私に、冷たい海水が大量にかかり、嫌でも現実に引き戻された。
「って、待って、わ、私、泳げないし、水の中では息は出来ない!」
私を捕まえて、そのまま海の中へ潜ろうとしていたドラゴンは、不思議そうにこちらを見ている。私の言ったことを理解できていることを期待したい。
ドラゴンはクゥ~っと鳴いて、私を足で掴み直すとそのまま海の中へ沈んで行った。
「わっ誰か、助けっ……もがっ」
私は助けを呼ぶ間もなく、海の中に連れ込まれた。私は咄嗟に結界魔法を発動した。結界が辛うじて海水の侵入を阻んで、空気の層を作ってくれている。ただし結界内の酸素が無くなれば、息は出来なくなるので、危機が去ったわけではなかった。
「クリス……助けて……」
私はキラキラ煌めく水面を見上げて、最愛の人に助けを求めた。
その間も、ドラゴンはぐんぐん海中を泳いでいく。一刻も早く、酸素がある間に目的地について欲しい。そしてそこは陸であって欲しい……。人間には酸素が必要だと、このドラゴンが理解しているか、最悪の状況を想像すれば、不安で押し潰されそうだ。
私とドラゴンの隣を、色とりどりの魚が優雅に泳いでいく。これが観光だったなら、感動的な光景だっただろう。残念ながら命の心配をしながら、楽しめる光景ではなかった。
酸素が薄くなり息苦しさを覚えた頃、ようやくドラゴンは水面へ顔を出した。そこから翼を広げて空へと躍り出た。私は急いで結界魔法を解除して、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「…空、飛べるなら……、最初から空が良かった……ハアハア……」
いや、空も危険は変わらないのだ。落とされれば死んでしまう。一難去ってまた一難……
「どうしてこんなことに……」
暫く空を飛び、ドラゴンは小さな入り江へ降り立った。落下事故にならなくてホッとしたのも束の間、ドラゴンはそのまま私を洞窟へ連れて行った。
まさかまたドラゴンの子供がいるとか、そんな落ちならこの際許すが、餌にされる未来は回避したい……
『クゥゥ~』
「おかえりなさい、ラピス。誰か連れて来たの?」
綺麗な声がする方を見ると、そこには女性が座っていた。洞窟の天井に空いた穴から光が差し、女性の姿がはっきりと見える。美しい女性だ、私よりは年上の青い髪の……
「人魚……⁈」
「あら、人間?ラピス、その娘さんを攫ってきたの?まさか、海の中を泳いできたの……?」
『クゥゥ~クゥ』
「勿論、ではないわ。人間は海の中では呼吸できないのよ!死んでしまうのよ。二度としては駄目!」
『クゥゥ……』
「ごめんなさい。この子は私のドラゴンなの。人魚は海の中で呼吸できるから、あなたも呼吸できると思っていたみたい。死ななくて本当に良かった」
ええ、本当に……良かった。良かったのか?




