第二部 5話 正気とは?
「はい、これで今日の癒しは終わりですね。あとは、辺境伯を、最後にもう一度癒してきます」
治療を求めていた住民の人の列が途切れたので、私は辺境伯のジョルジュ・イーストマン様の元へ向かうと屋敷の使用人へ告げた。辺境伯の寝室には、お兄様とクリスが詰めていた。意識は戻っているので、事情を出来るだけ詳しく聴取しているのだ。
怪しいのは使用人が見たと証言している術師、もしくは占い師だろう。今のところジョルジュ様からは詳しい話は聞けていないそうだ。その怪しい者が出入りする頃から、記憶が曖昧になっているそうだ。
「お疲れ様です。今、癒しを施させていただいてもいいですか?」
「ああ、お願いしていいかな。今のままでは、受け答えに問題はないけど、肝心の部分が欠乏しているんだ」
私は頷いて、そっとジョルジュ様の手を取った。呪物だったときは触れることは出来なかったが、直接触れた方が癒しは施しやすい。お兄様たちの言う正気ではない、という意味は分からないが、出来るだけ回復して欲しいと祈りを込めた。
「さあ、どうですか?目を開けてください」
癒しの光は眩しいので、出来るだけ瞳を閉じてもらっている。ジョルジュ様はゆっくりと瞳を開いた。次の瞬間、ジョルジュ様は開いた瞳を更にカッと見開いた。視線は丁度、私の後ろに立っているお兄様とクリスの辺りに定められ、口元はヒクヒクと震えている。
「ク、クリ、クリスティアン~!!好きだー!愛しているぞー!!」
次の瞬間、ジョルジュ様は大きな声で愛を叫んでいた……
「お、正気に戻った」
お兄様が私の後ろからぼそりと呟いた。驚いて振り向けば、クリスは苦笑いで、今にも抱きつこうとするジョルジュ様を避けていた。
「どういうことですか?」
「話すと長いんだけど、イーストマン先輩は、魔法学園の2つ上の先輩で、クリスが入学した時に一目ぼれして、それからずっとこんな感じなんだ……。勿論、恋愛対象ではなく、一種の憧れみたいな感じ?だから、ここへ来たときのイーストマン先輩の態度が、普段と違いすぎて、直ぐにおかしいと思ったんだ」
確かにここへ来たとき、クリスが挨拶をしたのに反応はなかった。これが正気の時の反応であるのなら、あれは異常だと思うわけだが……
「イーストマン先輩。僕には愛しい妻がいるのです。そのような態度は自重してください。それに、先輩にも奥方様やお子様がいるでしょう?」
避けられても諦めないジョルジュ様に、クリスが手を突き出して制止を促す。
「奥方?子供…?そうだ、ミレーヌはどこにいるんだ?マリアもエミリも、どこに行った?」
ジョルジュ様は覚えていないのか、周りをキョロキョロと見渡している。使用人から聞いた話だと、奥様はジョルジュ様の様子がおかしくなって、喧嘩が絶えなくなって子供を連れて実家に帰ったと言っていた。
どうやら正気に戻っても、その頃の記憶は戻らないようだ。
「なるほど、正気になっても記憶が戻らないのであれば、先輩からはこれ以上事情が聴けるか分からないな」
「キース、とりあえず当時の様子が分かるイーストマン夫人からも、事情を聞いた方がいいかもしれない。イーストマン先輩が正気に戻ったと知らせれば、戻って来てくれるかもしれないし」
「そうだね。異常だと思って子供と避難したんだから、何かしら知っているかもしれないね。分かった、夫人の実家まで伝書蝶を送って、帰って来てくれるように説得してみよう。とりあえずここは任せて。クリスたちは、アウレリーア国に向かっていいよ」
「大丈夫か?」
「う~ん、まあ、何とかするよ。クリスも仕事を増やして悪いけど、あっちでよろしく頼むよ」
キースお兄様は、ガシガシと頭を掻きながら微笑んだ。クリスは頷いて、私の手を取って部屋を出て行った。きっとジョルジュ様が、奥様のことで気を取られている隙に逃げたのだ……
「クリスはモテますね……」
「それ、褒めてないでしょ……」
恨めしそうにこちらを見るクリスに、私は首を振った。
「いいな、とは思いましたよ。学生生活がとっても充実していて、羨ましいな、とも」
「ああ、そうだね。全部が楽しい思い出とはいかないけれど、イーストマン先輩は純粋な人だった。裏表なく僕を見てくれていたから、ある意味、貴重な人だったな……」
学生生活もいろいろあったのだと、含みを持った微笑みを浮かべるクリスに、私はどんな学生生活だったのか、聞いてみたくなった。今度はちゃんと教えてくれるだろうか?
じっとクリスを見ていると、クリスが不思議そうにこちらを見た。
「どうかした?」
「いいえ、なんでもないです。そろそろ行く時間ですね。メリたちも待っているから、急ぎましょうか」
今は時間が無いから聞かない。自分に言い訳をして、勇気の出せない気持ちに蓋をした。
「お待たせ。メリ。準備は出来ているかしら?」
「はい、いつでも出発できます。転移門の使用許可も頂いているので、後は5人で向かえば通れるそうです」
馬を二頭用意してもらい、ここから転移門、そしてアウレリーア国に到着するまでは馬で移動する。最初の宿に荷物は送ってあるので、その後の移動は馬車だけを借りれば済むそうだ。
「クリス、馬に3人で乗れますか?」
「ああ、リアもチビも軽いから、チビがいつも通りの重さなら大丈夫だ」
クリスが私とルーちゃんを乗せ、トムの乗る馬にメリが同乗する。まだ落ち着かない様子の辺境伯領を、私たちは静かに出発した。
ルーちゃんは疲れたのか、人間の姿のまま私の腕の中で可愛い寝息を立てて眠っている。ここから先は、基本ドラゴンの姿になってはいけないと、出発前にちゃんと言い聞かせてある。
もし、アウレリーア国でドラゴンになってしまえば、ゆっくり新婚旅行をするどころか、即帰国の上、後処理に追われることになるだろう。それは絶対に遠慮したい。
東の辺境伯領にある転移門は、アウレリーア国の辺境伯領につながっている。基本的に、転移門を使うには陛下の許可が必要だ。この転移門を使えない場合、国境の関所を通り、山を越えるか、山を避けて少し遠回りをする必要がある。どちらも天界樹の結界内なので、魔物の心配はないが時間がかなりかかるそうだ。
新婚旅行に行くだけなら、転移門の許可は下りなかったはずだ。辺境伯領の調査及びアウレリーア国へ仕事で向かうことになったため、結果的に時間はかなり短縮できた。
本来、新婚旅行で国外に行くのなら、最低でもひと月かけるのが普通なのだ。
魔石で祈りを免除される時間は10日。辺境伯領で1日半以上を使ったので、アウレリーア国の滞在は、帰国の時間を考えれば、長くて7日取れればいいほうだ。
明日は謁見と、その後行われる陛下主催の夜会で1日が終わるだろう。次の日は魔石の普及活動及びロウド王国との交易に関する報告会が予定されている。カイラ様のお屋敷へ訪問出来るのは、全ての行事が終わってからだ。夜会には、カイラ様たちも招待されていると言っていた。知り合いが全くいない夜会は緊張するが、カイラ様と彼女の夫で青の魔法使いのギル様に会えると思えば、気持ちも少しは前向きになれた。




