第二部 1話 東の辺境伯領
「クリス、見てください。あれが東の辺境伯領のお屋敷でしょうか?何というか、不穏な雰囲気ですね…」
キースお兄様たちと待ち合わせ場所で合流して、転移魔法と闇魔法を使い出来るだけ時間をかけずに移動した結果、東の辺境伯領の入り口に到着したのは昼を過ぎた頃だった。
出発した時の王都は、見事な快晴。途中で休憩した場所も晴れていた。ところが東の辺境伯領へ到着すると、どんよりとした雲が立ち込め、雨が降っていたのだ。タランターレ国は広い。場所によって、天気が違ったとしても不思議ではない。ないのだが……
「どうして、辺境伯のお屋敷を中心に雨が降っているのでしょうか?」
「そうだね、なんだか、不穏だよね~」
キースお兄様が外套をしっかり着込みながら、面倒くさそうに溜息をついた。
ルーちゃんを攫った犯人が持っていたという陛下に当てた嘆願書には、イーストマン辺境伯領は長雨のせいで作物が腐り、川の水は腐敗し魚もいなくなった、と書いてあったそうだ。代替わりした若い領主は、辺境伯らしく立派な騎士ではあるが、領主としては経験が浅く、飢える領民を庇護する能力はなかったらしい。
「天候によって作物が不作であれば、国に報告書を送り税金を免除してもらうとか、食料を支援してもらう制度があるはずだろう?それに川の水や作物が、雨で腐るなんて聞いたことがない」
クリスがキースお兄様へ視線を向けた。クリスもエイベル伯爵として、規模は辺境伯領に比べれば小さいが領地を治めている。白の魔法使いとして王都にいるため、自ら領地の管理はしていないが、領地の運営の仕方くらいは学んでいる。季節ごとに領地管理人に会って、報告を受けているそうだ。
「う~ん、そうだね、腐らないよね。辺境伯であるジョルジュ・イーストマン卿は、専ら国境警備に力を入れるのは得意らしいんだけど、農作物や家畜、領地の管理は苦手みたいでね。代替わりして、自分の代で領地が傾いたなんて言えなかったみたいだね。見栄を張って報告書を出さなかったらしい。おまけに変な宗教に傾倒して、そのせいかどうかは分からないけど、ここ最近はずっと呪われたみたいに、この地は雨が降っているそうだよ。作物も川の水も腐るなんて、本当に厄介だよね」
「それで、クリスに協力依頼を?」
「まあ、そんなところ。でも場合によってはクリスより、リアの力が必要かもしれないね」
お兄様が困った様に微笑んだ。確かにこの現象は不思議だ。原因が本当に呪いの類なら、クリスは専門外だろう。浄化は私の方が得意だ。
「とりあえず、僕たちは新婚旅行に来た。通り道である辺境伯領に挨拶に寄った、そんな感じでよろしく」
お兄様はピンクブロンドの髪を茶色に変えて、従者の服を着ている。いきなり近衛騎士団長が訪ねてきたら、イーストマン辺境伯も警戒してしまう。私たちはあくまで新婚旅行でここまで来て、明日の夕方に転移門を使うため、辺境伯邸に一泊お世話になりたい。そう連絡を入れてある。
勿論その間に伯爵邸を探り、この雨の原因を調べる。お兄様の部下も使用人の格好で一緒に潜入するので、かなりの人数が動員できる。
ここで時間を取られると、後に控えている新婚旅行の予定を短縮することになるので、クリスも私も真剣に取り組む所存だ。
東の辺境伯領のお屋敷は、堅牢な石造りの建物で、有事の際に兵士を受け入れるための園庭も広い。本来なら春先の庭には、色とりどりの花が咲き乱れていたはずだが……
「うわっ、庭の花、枯れてるっていうより、腐っているね……絶対なんかヤバい呪いっぽい」
小さな声でお兄様が呟いた。私たちは着ていた外套を、雨を避けるために深くかぶり直した。雨に当たって体が腐るなどは、ないと思うが言い切れないところが怖い。
「ようこそお越しくださいました。…エイベル伯爵、…エイベル伯爵夫人、あいにくの天候ですが、どうぞお寛ぎください。明日の夕刻には、転移門を使用されると聞いています。案内はお任せください」
出迎えてくれたイーストマン辺境伯は、軍人とは思えないほどやつれて顔色が悪かった。目は虚ろで、私たちのことをちゃんと認識できているのか、疑わしいところだ。
「イーストマン先輩、僕のことを覚えていませんか?赤のフェニックス寮にいたクリスティアンです。今でもイーストマン先輩の弟のエルマー様とは、仲良くさせていただいています」
クリスがイーストマン辺境伯に、胡散臭い笑顔で微笑みかけている。言われたことが理解できていないのか、イーストマン辺境伯はブツブツと独り言を言っていた。
辛うじて聞き取れたのは、「弟、エルマー?誰だ……」という言葉だ。その場にいた誰もが異常な雰囲気に戸惑っていると、お兄様に抱かれていたルーちゃんが、突然口を押えたと思ったら苦しそうに吐いた。
「リア、ルーカスの様子がおかしい。多分すごく拙い」
お兄様が小さな声で私に囁いた。クリスは静かに頷いて、再びイーストマン辺境伯に話しかけた。
「イーストマン辺境伯、連れの子供が調子を崩したようです。今夜はこれで失礼いたします」
「……晩餐の用意が出来ております」
「申し訳ございません。今夜はこの子についていたいので、折角のお心遣いですが、遠慮させていただきます」
「……そうですか。部屋は、……2階の右側の突き当りです」
「ありがとうございます。急ぎますので、ここで結構です。では明日」
クリスが挨拶を済ませると、私たちは急いで部屋へと向かった。一刻も早くルーちゃんを癒さないと、悪化して取り返しがつかなくなってしまう。
部屋へ入ると、まず部屋全体を浄化した。浄化した瞬間、体が軽くなった気がした。多分実際に体に負担があったようで、その場にいた全員がホッと息を吐いた。
「ルーちゃん、今癒すからね」
私はルーちゃんに手を当てて、癒しの光を注いでいく。ルーちゃんの呼吸が安定したことを確認して、光を注ぐのをやめた。
「大丈夫?苦しいの、治ったかな?」
『ルー、ここいや、くさい』
私にしがみつきながら、ルーちゃんはイヤイヤと首を振った。
「臭い?この屋敷が?」
クリスもお兄様も首を傾げている。私もお屋敷に入った瞬間、重苦しい空気は感じたものの、臭いとは思わなかった。
「ドラ、ゴ、じゃなくて、ルーカスは人より嗅覚が鋭いのかもしれない。この屋敷にルーカスが不快だと思う何かが、あるんだろう」
「そうだね。取り敢えず皆が寝静まったら、ルーカスに臭い場所まで連れて行ってもらおう。食事も、この屋敷の物は食べない方がいいと思う。多分体調を崩すか、お腹を壊しそうだ……」
私たちは、持参した簡易の食事を分け合って食べ、屋敷の人たちが寝静まるのを、仮眠をとりながらじっと待った。
「よし、そろそろ行こうか?リア、起きて」
クリスの声で、私はウトウトしていた眠りから覚めた。ルーちゃんも本調子とはいかないまでも、回復したようだ。ただ自分が、今から臭い場所に案内するという事実が、不満だと言うようにクリスを見上げた。
「そう睨むな。ちゃんと見つけられたら、アウレリーア国名物の塩アイスを好きなだけ食べていいから、今は頑張ってくれ」