9.十二月、紅をあなたに
桐谷を激怒させてから、さらにひと月がたった。
今年はまれにみる暖冬だそうで、十二月の最終週、わたしは長野へ、桐谷の元へと向かった。
まだ雪は降っていないが、閑散としているからか、どこもかしこも都会に比べて視覚的な寒々しさが際立っていた。それでも高速を降りれば窓を全開にするのはお約束だ。無人の道路、対向車もいないような場所まで来れば大声で歌うのもお決まりである。
本当は今日この日が来ることがすごく怖かった。緊張もしていた。自分自身を鼓舞し、それでようやくここまで来れたのである。運転中に大声で歌い続けているのも、そうしないと緊張に押しつぶされそうだったからだ。
歌いながら、今朝、オーナーに言われたことを思い出していた。
『財前さん、言ってたよね。仕事なら人と関われるんだって。それを聞いて俺は二つのことを思ったんだ。一つはすごく寂しいことを言う子だなってこと。それともう一つは桐谷と同じだってこと』
ただし今のあいつは仕方なく少数の人間と関わっているだけだ、とも付け加えて。
『俺の姉は桐谷に遺言を残したんだ。自分が死んでも絵を描き続けて、と』
その遺言がなければ桐谷は自死を選んでいただろう、とはオーナーの見解だ。オーナーも美月さんも桐谷のことをよくわかっている。月一回、短い時間接してきただけのわたしにだってわかることだ。でなければ桐谷の描く絵があそこまで残酷なものになるわけがない。
意識的にか、無意識的にか。桐谷は絵の中で自分を鳥にたとえている。だがわたしが見た二枚の絵のいずれでも鳥は孤独そのものだった。
何者にも寄り添えず、近づくこともできない一羽の鳥。孤独である自分を自覚しつつ、過去に想いを馳せるだけの日々――だが第三者から見れば、鳥はひどく残酷な仕打ちを受けているように思えるのだ。
そう、悲しみを受け入れることと罰を受けることは、はたから見ればまったく同じことのように思えるのである。
だが鳥は――桐谷は何の罪も犯していない。
別荘に着き車を降りると、冷たい風がわたしの周りを犬のように駆けまわり飛び上がっていった。風は枯れ葉をすくい上げ、天へと勢いよく放り投げた。高く澄んだ空を背景に枯れ葉が幾枚も舞った。
陽の光が目に入ってまぶしかった。
玄関でチャイムを押すと、しばらくして内側から鍵を開ける音がした。そして扉がゆっくりと開かれた。
「やあ」
「……先日は申し訳ありませんでした」
硬い表情で応じるわたしに、桐谷は「どうぞ」と中に入るよううながした。
先月のことを意にも介さず受け流す様は、一年前とちっとも変わっていなかった。
暖かなリビングにはいつものごとくキャンバスが一枚置かれてあった。ただし梱包はされていなかった。こんなことは初めてだった。ただ、裏返してあるので背面しか見えなかったが。
「どういう、ことでしょうか」
「この絵を君に見てもらいたくて」
突然そんなことを言われてもなんの心の準備もできていない。だが先生は動揺するわたしにかまわずキャンバスに近づき、持ち上げると振り返った。
「こ、れは」
そこには――何も描かれていなかった。
いや、正確に言えば黒一色で塗りつぶされていただけだった。
これまで見た桐谷の絵が多弁だったのに対して、今目の前にある絵のなんと無口なことか。いったい桐谷はこの絵で何を言いたいのだろう。何を伝えたいのだろう。わたしは混乱した頭で考え始めた。
過去への羨望は?
失った妻への変わらぬ愛は?
現実への絶望は?
未来への拒絶は?
だがどんなに食い入るように見つめても、その絵からは何の意図も想いも読み取れなかった。
ふいに桐谷が言った。
「君に言われて気づいたんだ。僕はもうこの世界に一切の未練もないことに」
とっさに見つめた桐谷は、異様なほど静謐な空気をまとっていた。
「僕は大切なものすべてを失ってしまった。愛する妻。妻との穏やかで優しい生活。待ち遠しいと思える明日。楽しみも、喜びも、すべて失ってしまった。だけど妻と約束したから、だから毎日キャンバスに向かっている。それだけだったんだ」
桐谷の眉間が深く寄せられた。
「だけど僕は僕が描いたものを見るたびに吐きそうになる。僕はね、見たもの、感じたものしか描くことができないんだ。昔からそうなんだ。そして今見えているものは……あまりに重い。重すぎるんだ。光さえも吸収してしまうこの黒は僕が筆を持つことすら禁じてくる。……そう、もう限界なんだ」
限界だ。そう桐谷が告げた瞬間、キャンバスにうごめく黒一色の絵の具の塊がわたしに一斉に飛びかかかってきた――そう錯覚してしまうほどに、桐谷の言葉は正確に彼の内面を表していた。
「……先生。そんな悲しいことを言わないでください」
なんとかそれだけを伝えたものの、桐谷は自分の足元を見つめ続けているだけだった。その表情は険しく、わたしの言葉がまったく届いていないことを痛感させられた。うなだれる様は何もかもに疲れているようだった。
オーナーの丸い顔が、なぜか唐突にわたしの脳裏に浮かんだ。
『あいつのこと、よろしく頼む』
わたしはとっさに桐谷の腕をつかんだ。
「ほんとうに? ほんとうにもうこの色しか見えないんですか?」
「……ああ」
「そんなことないはずです。先生! わたしを見てください!」
それでも桐谷は頑なに下を向き続けている。
わたしは桐谷のもう一方の腕もつかむや、握る指に思いきり力を込めた。
「先生」
痛みに誘起され、ようやく桐谷がわたしを上目遣いに見上げてきた。
「先生。わたしはここにいます。初めてお会いした時、ここにはすべてがあるってわたしが言ったことを覚えていますか。あれはわたしのことでもあるんです。わたしだってここにいるんです」
桐谷はいまだぼんやりとしていた。絶望の淵で、その目は漆黒の闇だけを見つめている。
ああ、お願い。
わたしを見て。わたしを見て。
お願い、わたしを見てください――。
「先生が見ようとしなくても必要としなくても、わたしはここにいます。先生、紅だってここにちゃんとあるんです」
きっと桐谷にとっての紅とは、甘く美しい過去そのものなのだろう。美月さんを表す色だったのだろう。深い赤、紅が似合う人だったのだろう。未来永劫続くと信じられた幸福の色だったのだろう。そう思う。だから初めて会った日、桐谷は言ったのだ。紅という色はここにはないと。
だが紅とはそんなシンプルなものではない。
「ここにだって……!」
わたしは熱い衝動のままに思いきり自分の胸を叩いていた。
「ここにだって紅はあるんです! 先生はいつまでたっても気づいてくれないけれど、わたしのここにはずっと紅があるんです! 先生への恋心があるんです! 無視しないでください。見たくないものだとしても無視しないでください……!」
気づけば涙が溢れて頬を伝っていった。だが拭いもせずにわたしは桐谷を見つめ続けた。この涙こそが『ここ』に紅があることの証だからだ。
そう、紅という色は桐谷の過去だけを表す指標ではないのだ。この世界には無数の紅が存在していて、そのうちの一つはわたしの恋心でもあるのだ。現在進行形の唯一無二の恋心でもあるのだ。
「……すまない」
長い沈黙の後、桐谷が口にした謝罪の意味はすぐに察せられた。
「いいんです。わたしが勝手に先生を好きになっただけですから」
この恋が受け入れられるとは思っていなかったので問題はなかった。もともと一生言うつもりもなかったくらいだ。……傷つきたくなかったのだ。人から変わっていると揶揄されることの多いわたしだが、それでも失恋のたびに致命傷ともいえる傷を幾度も負っていたから。
なのに、今。どうしてわたしが勇気を出して告白をしたのか。受け入れてもらえる見込みもないのに桐谷に恋していることを打ち明けたのか。
そう、わたしには桐谷にどうしても伝えたいことがあったのだ。
それはわたしのつまらない恋心なんかではなくて――。
「先生。お願いします。過去にとらわれないでください。そうなってほしくて美月さんは先生に絵を描き続けるように願ったわけではないはずです」
桐谷に無言で見つめられ、わたしは少しためらいながらも自分の推測を語っていった。
「……さっき先生、言ってましたよね。見たもの感じたものしか描けないって。だったら自分がいなくなっても絵を描くことで先生は癒されていくと、そう美月さんは思ったのではないでしょうか」
「それはどういうことだ」
桐谷がわたしの腕をきつくつかんだ。
「教えてくれ。どういうことなんだ」
わたしが桐谷の腕をつかんでいたはずなのに、いつの間にか立場が逆転している。握力の強さは桐谷が心底続きを聞きたがっていることを伝えてきたから、わたしは桐谷の様子を伺いながら慎重に語っていった。
「世界にはすべてがあるからです。いつだって何もかもがあるからです」
「すべてが……?」
「はい。光も闇も、過去も未来も。悲しいことだけじゃなくて楽しいことも。涙だけじゃなくて笑顔も。絶望だけじゃなくて希望も」
そこで言葉を切ったのは、これ以上言うと自分の言葉が嘘っぽくなるからだ。
でもこれだけは言いたいと思ったから、最後に付け加えた。
「色もそうです。白も黒も。緑も青も。黄色も。紫も。茶色も。そして――紅も。先生の周りにはいつでも何もかもがあるんです」
「……僕のすべてである美月がいなくなったというのに?」
僕のすべて――桐谷にそんなふうに言ってもらえる女性に対してそこはかとない羨望を覚えつつ、わたしは言葉を選んで答えていった。
「美月さんがいなくなったことは……それはとても悲しいことです。ですが愛も過去も、一方がいなくなったからといって、それで消えてしまうものではないですよね。今も先生は美月さんを愛していて、美月さんと過ごした日々を大事に想っている。それって、消えてしまうものばかりではないということです。でも」
語尾で強めに言葉を発し、わたしはあらためて先生に向き直った。
「先生がそんなふうにいつまでもうじうじしていたら、まるで美月さんのせいで先生が不幸になってしまったみたいです。愛し合った日々は幸せだったはずなのに、結果論としては不幸になるために出会ったように見えてしまいます。ですが、それって悲しくないですか? ねえ、先生。絵を描きましょう。たくさん絵を描きましょう、これから。今すぐ!」
意表を突かれて言葉を失った桐谷に、わたしは遠慮することなくまくし立てていった。
「ちゃんと見えるべきものが見えるようになるまでたくさん描きましょう。描いて描いて、無理やりにでも描いてください。実はこれ、買ってきたんです」
ずっと肩にかけていたショルダーバッグの中から掴み出したのは絵の具のチューブだ。それも全部、紅色。いろんなメーカの紅色は、同じ名称でもそれぞれが微妙に違っている。わたしは握れる限界まで握って、チューブを桐谷の手のひらの上に置いた。
「これ、何色かわかりますか」
「赤。……紅」
「ですよね? これ、紅ですよね? ああよかった。やっぱり見えてはいたんですね。ちゃんと見えていたんですね。……よかった。……ほんとうによかった」
「……どうして財前さんが泣くの」
「どうして、でしょうね。……ふふ。ふはは。ははははは」
これだけ話してもわたしに泣くほどの理由がないと考える桐谷は本当に残酷な人で、だがそれが逆におかしくて。わたしは涙を流しながら、最後には声をあげて笑っていた。
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