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8.一年前の八月、カフェ

 この画廊に勤める前、わたしはビジネス街の一角でカフェの店員をしていた。


 そこの常連客であるカフェモカおじさん――今勤める画廊のオーナーのことは初日から知っていた。着替え中、店員同士が噂話をしていたのだ。今日もカフェモカおじさん来るよねって。


 週七日、毎日十時きっかりに現れてカフェモカを頼む職業不詳のおじさんがいるのだと、ブラックのシャツとブラックのスカート、それにカフェ色のエプロンを初めて身に着け終えた頃には把握していた。


 十時ぴったりに噂のカフェモカおじさんは現れた。


「カフェモカ。Lサイズ。チョコレートシロップとホイップ多めで」


 甘いものを摂りすぎているのだろう、恰幅がいいそのおじさんは、ジャケットにチノパン、ノータイ、しかも無精ひげを生やしていて、明らかにただのサラリーマンではなかった。


 それからはおじさんに会うたびに、一人勝手におじさんの正体を推理するようになった。


 きっとやり手の投資家なんだろう。これから億単位のお金を動かさなくてはいけないから大変なんだろう。いやいや、ベンチャー企業の優秀なエンジニアかもしれない。これから絶対に失敗できないエンジンの設計に戻らなくてはいけなくて、糖分が必要なのだ。そんなふうにカフェモカLサイズに見合う仕事を妄想して、わたしは一人楽しんだ。


「だけど月末の最終水曜日にはなぜか来ないんだよね」


 ある日、このカフェでは古参のウエイターが不思議そうに言っていたことを、わたしはそっくりそのまま本人に訊ねてしまった。ホイップがたっぷりのったカフェモカ、Lサイズのカップを手渡しながら、唐突に。


 おじさん、もといオーナーは一度目をしばたいたものの教えてくれた。その日は長野に行く日なんだと。


 この時、わたしはおじさんが思ったよりも若いことに気がついた。ぱっと見は四十代半ばの貫禄すらある男、だが目が合えばそれより随分若いことは察せられた。


「財前、さん?」


 おじさんの目がわたしの左胸に動いた。ネームプレートを読んだのだ。


「はい。財前風香と申します」


「別にフルネームは訊いていないけど」


「ああ、そうだったんですね。すみません」


「変わってるってよく言われない?」


「言われますね」


 この年齢になってストレートに「変わってる」と言われたことにある種の爽快さを覚えつつ、わたしはうなずいた。


「だからわたしはこうしてカフェで働いているんです」


「それでどうしてカフェなんだ」


 おじさんが不思議そうに言った。


「事務とか、家でできる仕事とかを選ぶものじゃないのか」


「仕事なら堂々と人と関わることができるからですよ」


 レシートを手渡しながらわたしは笑ってみせた。


「わたし、プライベートがうまくいかないんです。で、こういう機会でもないと誰かと話せないし、触れることもできないですから、それで。それにこうやって同じ服を着ていれば、わたしもみんなと同じような人間になれます。まあ見かけだけのことですけどね」


 しゃべりすぎた自覚はあったが後悔は束の間のことだった。おじさんとはカフェモカの注文を受けて応じるだけの関係であり、極端な言い方をすればおじさん一人に嫌われても仕事はこなせるからだ。もしもおじさんがわたしのことを避けたいのであれば、おじさんが他の店に行けばいいのだ。どうせ味はたいして違わないのだから。このくらいのことでわたしは仕事を辞めたりはしない。わたしのような人間は、ある程度鈍感でタフでないと生きてはいけない。


 おじさんはわたしから受け取ったレシートをポケットに入れた。するとポケットから出てきた指にはなぜか名刺が一枚挟まれていた。まるで魔法のように。


「財前さんはドライブは好きかな」


 その一言でおじさんと関わるのが心底嫌になった。


「自分で運転するのは好きですが人の運転する車は気疲れするので好きではありません」


 だがおじさんはわかりやすく眉をひそめたわたしに心からの笑みを見せた。


「それはよかった。実は今、俺の画廊で社員を探していてね」


 それが一年以上前のことであり、夏が終わる間際の出来事だった。



 *


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