7.十一月、謝罪
画廊に直帰するや、わたしは別荘での出来事をオーナーにすべて打ち明けた。
「誠に申し訳ありませんでした」
打ち明け――最後に深々と頭を下げた。
オーナーはその間ずっと顔をしかめていた。
「担当画家の私生活に介入しただけではなく、絵を持って帰ることもしなかった、と」
オーナーの組んだ足が不機嫌そうに細かく揺れている。
「そのとおりです。弁明の余地は一切ありません」
頭を下げたままではオーナーの顔色はうかがえない。だがそれでいいと思った。ゆるしてほしくて謝罪しているわけではなかったからだ。
「弁明の余地がない? じゃあどうするんだ」
「担当を降ります」
「それは無責任だろう」
「ではここを辞めます」
「それはもっと無責任だ」
「では」
その場に正座するや膝の前に手をつく。するとオーナーまでもがわたしの前に膝をついた。
「俺に土下座しても無意味だ」
間近での瞳の奥まで貫くような眼光に、わたしはオーナーの怒りを感じた。
「ですが……先生はもうわたしには会いたくないと思います」
「俺は土下座の相手が間違っていると言ったわけじゃない」
「ではどうすればいいんですか」
「責任を果たせと言ってるんだ」
瞬時に頭の中でそろばんをはじいていた。
「運搬業者にはこれから自費で手配をかけます。その他、損害分については、即金では無理ですが何年かかっても全額支払います」
「……だからっ」
オーナーが乱暴に頭をかきむしった。
「財前さんは桐谷の触れられたくない部分に触れたんだろう? それは好奇心からの行為だったのか?」
「……違い、ます」
「だろう? 触れたくて触れたんだろう? それはどうしてだ」
「それは……」
「それは?」
「先生の絵があまりにも……」
「あまりにも?」
「あまりにも美しくて、幻想的で……切なかったから。だから……」
「だからどうした」
いつになく厳しく追及してくるオーナーに、わたしはたまらず本音を語っていた。
「だ、だから。だから辛かったんです」
「それはどうして」
ほんの少し、オーナーの声音が柔らかくなった。
それがピンポイントでわたしの涙腺の砦を崩した。
「好き、だから……。先生のことが好きだから……」
オーナーは「いつから」とか「どうして」とか、いつもなら言いそうなことを一切訊ねてこなかった。
「だったら逃げるなよ」
ただそれだけを言った。
「ですが……わたしは先生に嫌われてしまいました。顔も見たくないって言われてしまいました」
「あいつが? あいつが財前さんに嫌いだって言ったの?」
オーナーは軽く目を見開き、次にその目を細めてくしゃっと笑った。
「……そっか。それはよかった」
「なにがよかったんですか。わたし、先生に嫌われたんですよ」
「そう怖い顔するなって。な、財前さん。あいつの絵が美しいと、そう言ったのは財前さんだろう?」
まだ不可解そうな表情のわたしに、オーナーが心底嬉しそうに語り出した。
「あいつの絵が美しいのは過去への賛美だけで彩られているからなんじゃないかな。極上の過去の思い出、これほどセンチメンタルになれて美しいテーマは他にはない。だからあいつの絵はよく売れるんだ。誰だってそういう思い出の一つや二つ抱えているものだからな。年配層に特に気にいられているのもそれが理由だと俺は分析している」
「センチメンタルで美しい……テーマ」
「ああ。あそこまで過去に陶酔できる奴もそうそういないだろう? それは絶望の所以か、姉のことを愛しすぎてしまったからか、はたまた芸術家の職業病みたいなものだろうと、そう思っていたんだが……。だがあいつ自身は過去をそこまで異次元のものに昇華できているわけじゃないんだな。よかった」
ふふっと、オーナーが笑いをこぼした。
「てっきり何もかもを切り捨ててしまったのかと思っていたんだ。今も未来も、過去以外の何もかもすべて。だけど桐谷は財前さんを嫌いだと明言したんだろう? 相当な迫力でもって追い出すほどに」
わたしがぎくしゃくとうなずくと、オーナーは満足気に人差し指を立ててみせた。
「それだよ」
「それって何ですか」
「あいつは五年前のことがあって以来、他人に対してそんな強い感情を持つことはなかったんだ」
「そう……なんですか?」
「ああ。過去をことさら美化していたのは防衛本能の一種だよ。今この時を憎まないために。喪失の悲しみに耐えるために。そうやって日々を平穏なものとみなしてきたんだ。……本当はそんなことはないのにな」
その言葉の真意にわたしがたどり着く前に、オーナーがひときわ大きな声を出した。
「だがあいつは財前さんに怒りを示した。この世にあるものがきれいなものばかりじゃないってことにあらためて気がついた。それは人としてのあいつにとってはすごく大切なことなんだと俺は思う」
「きれいじゃない、って」
「ああごめん。別に財前さんの見た目のことを言っているわけじゃなくて。うん、そう、誰かに関わるってことも生きるってことも、きれいごとだけじゃないってことだよ」
だからさ、とオーナーは続けた。
「あいつのこと、これからもよろしく頼む」
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