6.十一月、拒絶
そして現在、十一月の終わり。
わたしが訪れたその日、山奥ではすっかり秋の装いが脱ぎ捨てられていた。もしかしたらこの土地は都会以上に流行に敏感なのかもしれない。そんなことを思ってしまう自分自身に苦笑しつつ社用車を走らせていく。
すっかり葉の落ちた裸の木々の合間に見えた別荘は、遠目から見るとこの地の風景と完全に同化していた。
別荘では桐谷がいつものようにわたしを迎え入れてくれた。
「やあ。今日は十号(530×430)が一枚だよ。よかったね」
先月同様、一言多い。だがそれも想定内だ。ただ一つ、わたしが桐谷の絵を見てしまうという想定外のことをしていなければだが。
「……どうしたの?」
動揺を押し隠す。
「いいえ。もうすっかり冬ですね」
「ああ。そうだね」
桐谷が小さく笑った。
そこに寂しさがあるように感じてしまうのは、わたしが『わたし』というフィルタを通して桐谷を見ているからだろうか。
「しばらくは財前さんもここには来れなくなるね」
「そうですね」
雪深くなればさすがに車で通うことは困難になるので、一年前も春まで訪問を中断していた期間があった。
「来月も絵は用意しておくけど、無理をして来るようなことはしないでくれ」
「はい」
そう言われるだろうとも思っていた。だから――だからわたしは一つの決意を秘めて、今日、ここへと訪れていた。
倉庫で桐谷の絵を見て以来、わたしは桐谷の絵を頭の中で何度も思い浮かべていた。目を開いていても閉じていても。起きていても寝ていても。いつでもどこでも桐谷の絵を思い浮かべ、そうやって桐谷のことばかりを考え続けていた。過去の中で生きる桐谷のことを――。
今日を逃せば桐谷には春まで会えないかもしれない。そうなればわたしは春まで桐谷の絵の幻と向き合い続けることになってしまう。もう細部を思い出せなくなっている三枚の絵に始終囲まれ、苦しみ続けることになってしまう。だが夜景という名の絶望を映すキャンバスに囲まれ続けるのは――もう限界だった。
わたしが桐谷の絵から逃げ出せない真の理由ははっきりしている。
わたしが桐谷を好きだからだ。
「こちらの絵を今この場で見せてもらうことは可能でしょうか」
きちんと包装された絵を前に、震える声で懇願すると、桐谷の笑みが途端に消えた。
「ここで?」
「はい」
「今すぐ?」
「可能ならば」
桐谷は少し考えるそぶりを見せたものの了承してくれた。
「いいよ」
紙をハサミで裁断する音だけがしばらく響いた。作業する桐谷の背中をわたしはじっと見つめていた。ああやっぱりこの人が好きだ、そう思いながら。
「どうぞ」
身をひいた桐谷の向こうには――案の定、陰鬱とした風景を描いたキャンバスが置かれていた。
おそらく果樹園を描いたのだろう、規則正しく並ぶ同じ背丈の木々と灰色がかった空が描かれているだけのなんてことのない風景がそこには描かれていた。だがこの二つは絶妙なバランスで配置されていることで、冬が来る直前の物悲しさがキャンバス上で見事に表現されていた。
もっとも多様されている黒と白が、双方で折り重なり組み合わさり、複雑な色と光を生み出している。
さらに特筆すべきはバランスよく配置された緑と茶色の明度だろう。陽の光を少しも含まない色味が悲しいほどに秋の終焉を告げてくるようだった。もう秋は終わりなのだと。すぐそこに冬は来ているのだと。
キャンバス上の小さな面積、小さな世界には、『ここ』とは別の世界が広がっているかのようで、わたしは小さく身震いした。『ここ』とは別の、決してたどり着けない世界に恐れを感じて。
「……りんごの木、ですね」
「そうだよ」
「もう実はついていないんですね」
「ついていてもいなくてもいい」
「どうしてですか」
「僕の絵には不要だから」
その言葉がナイフのようにわたしの胸の中心を刺した。
不要だ。その言葉を桐谷が発したのは初対面の時以来のことだった。
だがわたしは桐谷を見なかった。視線が合えばこの説明し難い感情に気づかれてしまうし、何より今はこの絵を見ていたかった。
目を皿のようにしなくても、あの三つのモチーフは見つかった。
「雀」
「そうだよ。可愛いだろう」
「昼間なのに月が描かれているんですね」
「月は夜だけのものではないからね」
「この小さな花はなんて言うんですか」
「さあ?」
「それは先生の創作物だということですか?」
「この絵が僕の創作物でなかったら何なんだ。ここには僕しかいないというのに」
「……先生」
やおらわたしは桐谷に向き直った。
「それは嘘です」
わたしの態度が変化していることに桐谷も気づいているはずだ。だが桐谷は頑ななまでに反応をみせようとはせず、それが余計にわたしの心を荒ぶらせた。
「先生。ここにはすべてのものがあります。先生が選んだものも、選ばなかったものも、すべてのものがここに」
無礼な態度をとってしまった初対面以来、わたしは桐谷に対してできるかぎり低姿勢で接するようにしていた。それはこの地に初めて訪れた時の感動と、それに付随する桐谷への尊敬の念、この二つを表現する方法でもあったからだ。
この恋心を自覚してからはより一層気をつけてきた。桐谷はわたしなんかが好きになっていい人ではないし、実際、オーナーの話を聞いてからはそれが卑下でも何でもなかったことを自覚していた。
第一、今の桐谷は恋に興味なんてない。恋どころか、生きていること自体に無関心で、無気力だ。
なのに――。
「そしてここにいるのは先生だけではありません。美月さんもいます」
こんなことを本人に向かって言ってしまうなんて――。
「だけど先生の絵も先生自身もこの絵のような過去に縛られている。違いますか?」
言いきると――わたしの胸に渦巻いていた天まで届くほどの激情は、深海ほどの後悔へと変化した。
桐谷の様子が一変したからだ。
「……君に何がわかる」
それは同一人物とは思えないほどの低い声だった。
「大切なものをすべて失って、それでも生き続けなくてはいけなくて。その大切なもののために絵を描き続けなくてはいけなくて。何をしても何を見ても『過去に戻りたい』とそればかりを思って。そんな僕に……そんな僕によくも……!」
最後の方、桐谷はもはや怒りを隠していなかった。
「僕は君が嫌いだ……!」
「す、すみません先生。すみません」
混乱するまま幾度も頭を下げ謝罪を重ねたが、「黙れ」と一喝され、わたしの身は完全にすくんでしまった。
「……もう何も聞きたくない」
上下する肩の動きも荒い呼吸も、桐谷の感情の荒れ具合を正確に表している。
「君のことも見たくない。出ていってくれ」
大きく振った腕がまっすぐに玄関の方を向いた。
「さあ……!」
肩をいからせ、刃のような視線を向け――桐谷は全身でわたしを拒絶していた。
もう何を言っても伝わらないことがわかったから、わたしは一度頭を下げると即座に別荘を飛び出した。
*