4.十月、月を見つめる鳥
帰りの車内では恒例の歌を歌う気には到底なれなかった。
時折後ろの方でがたがたと音が鳴ったが、そのたびにわたしはひやりとし、しかも音が静まれば最後に見た桐谷の驚愕の表情ばかりが思い出されたのであった。
車内に充満する画材の香りが今日ばかりは辛く感じた。
帰路にいつもの倍の時間をかけた結果、都内に入ったころには街は夕暮れに染まりつつあった。わたしは画廊に戻るや即オーナーに訴えた。
「先生の絵を運ぶ仕事ですが、やっぱりわたしの運転なんかでは危険だと思います。それ専門の宅配業者に一任すべきではないでしょうか」
それは前から疑問に思っていたことでもあった。
「どうしたんだ急に。今更だな」
「どうしたもこうしたもありません」
「まあ落ち着け。そこに座れ」
ちょっと刺激すれば噛みつきそうなほどいきり立っているわたしを、オーナーはいつもの椅子になだめつつ座らせた。そして手慣れた動きでお茶と甘栗を用意した。
「今日、お客様からいただいたばかりだ。美味いぞ」
「食べるのはあとでいいです。オーナー、聞いてます?」
「聞いてるさ」
オーナーが甘栗を剥いては口に放り込む様を、わたしは鷹のような鋭い目つきで睨み続けた。甘栗を味わうたびに表情が崩れ、咀嚼し飲み込むたびに満ち足りた顔になる――そんなどうでもいい変化をじっとりと眺め続けた。
「財前さん」
オーナーが口をひらいたのは、甘栗を五つ食しお茶をすすった後だった。
「ほんとにもうあいつのところには行きたくないの?」
「はい」
するとオーナーが意外なことを言い出した。
「その決断は桐谷の絵を見てからにしてくれないか」
「絵を?」
「ああ。食べないならさっそく倉庫に行こうか」
粉を払う指先に向いているオーナーの目線は不自然なほど揺れておらず、思いつきで言っているような様子ではなかった。
「でも先生の絵はあのままお客様に渡すものだからわたしたちは見ることはできないのでは」
そういう契約になっていると言っていたのはオーナーである。
桐谷の絵は別のバイヤーに引き渡すことになっていて、こちらは仲介料を受け取りさえすればいいのだと、そう言っていたのはオーナー自身だ。
だがオーナーは過去の発言を忘れたかのように立ち上がった。もはや逆らう理由も雰囲気もなく、わたしはオーナーに従うほかなかった。
今、この画廊では桐谷以外の絵も扱っていて、それらは現オーナーの見た目以上に大きな顔で繋がる縁によって集められていた。オーナーは大学で美術に関する理論や歴史を学んだそうだから、審美眼はそのころから養われていたのだろう、無名画家の絵も有名画家の絵も、この画廊に来て数か月もたてばいずこかへと引き取られていく。まるで魔法のようにどこからともなく現れては消えていく作品群を、わたしはいつも誇らしく思っていた。
それらの絵を一時的に保管する倉庫が画廊の地下にあった。湿度と温度が調節された室内に並べられたキャンバスは、さながら凱旋前の仮眠中のようだとわたしは常々思っている。
だが今、オーナーが倉庫の照明のスイッチを入れると、一瞬にしてすべての絵画が目覚めた。そう思えた。わたしが運び入れた三枚のキャンバス以外はどれもむきだしの状態で保管されていて、光が当たったことで闇一つしかなかったこの場に無数の色が散りばめられたように錯覚した。
様々なものが光の速度でわたしの小さな心臓めがけて飛び込んでくる。
『すべての絵に画家の心が刻みつけられている』
そう、画家がキャンバスに塗り付けたのはただの絵の具、色ではないのだ。そこには無数の意志、思い、祈りといったものがあり、それらを映し出すための手段として画材があるのだ。そのことをわたしはこの突然の一瞬に教えこまれたのだった。それに一切の抵抗はできなかった。
今も室内のすべてのキャンバスが語りかけてくるようだった。圧倒的な量の思念が流れ込んでくるようだった。もっと知って。もっと聞いて。もっと見て。もっともっと見て――。
「……っ」
とっさに足が止まってしまった。
どうしてだろう、何度もここに入ったことはあるというのに。今日もここに桐谷の絵を運び入れたばかりだというのに。商品の搬入出のために立ち入る際に他の商品に特に意識がいくことなどなかったのに。なのに――なぜか今、わたしは室内のすべての絵画から強い圧を感じていた。
幸いなことにオーナーはわたしの異変には気がつかなかった。
「今日受け取ってきた桐谷の絵はこれだな?」
「……はい。そこに並べた三枚です」
鼓動が速い。ひどく落ち着かない。喉の渇きを覚え、わたしはなけなしの唾を飲み込んだ。
「じゃあ梱包を解こう」
「……本当にいいんですか?」
「俺がいいと言っているんだ。問題ない」
入口近くに立てかけておいた三枚のキャンバス、その前でオーナーは膝をつくと、躊躇することなく一枚一枚包装を剥いでいった。その様子を背後から眺めながら、わたしは狂乱し続けている心をどうにか落ち着かせていった。大丈夫、ここにあるものはただの絵だ。わたしが勝手に変な想像をしてしまっただけだ。
だが取り戻しかけた平常心は、封じられていた桐谷の三枚の絵が現れた途端、抗えない巨大な力を前に完全に屈服した。一目見た瞬間、わたしの心に正体不明の何かがずくんと重く響いたのだ。陳腐な語彙ではうまく表現できないが、ありていに言えば感動した――それに尽きた。
「すごい……」
息をする間も惜しいほど、わたしは桐谷の絵に見入ってしまっていた。
全体的に薄暗い雰囲気で構成され、一見すると地味な三枚のいずれもが、上方に黒に近い群青の夜空、下方に空の色を移したような闇色の森が広がる構図をとっている。奥深いそこはきっと人が容易に近寄れない神聖な区域だ。近寄りがたい、けれど見る者を惹きつけてやまない美しさからは、誘惑と拒絶という、相反するようでいて調和する二つの意思が匂ってくるようだった。
それぞれのキャンバスには少しだけ他の二枚とは異なるモチーフが描き込まれていた。
向かって右のキャンバスには空に白く丸い月が描かれている。ややおぼろがかった月の色は、淡く、どこかはかなげでもある。柔らかな色使いは叙情性豊かで、だからだろう、ただの小さな白い円でしかないはずなのにキャンバスの中でひときわ強い存在感を放っていた。
中央のキャンバスには花々が描かれている。木々の根本に群れるように咲く白く小さな花は、野草の一種とくくってしまってよさそうだ。それらが地味に、ごくひっそりと息づいている。ただ、月光を受けた花弁は冴え冴えと輝いていて、さながら地面にばらまかれた星のようだった。
そして――左のキャンバスには、やや高く描かれた木の上、一羽の黒い鳥が描かれている。わたしは鳥には詳しい方だが、闇の中、輪郭がおぼろで何の鳥かは判別できない。ただ、斜め右を見上げる鳥の視線の先をたどれば、そこには右の絵に描かれた白い月があった。
闇に染まった世界。
そこに描かれた天と地。月と星。それに花。
では――この一羽の鳥は?
「財前さんは桐谷の絵を見るのは初めてだよな」
オーナーの問いに、わたしは言葉もなくうなずいた。
「桐谷と俺の姉は学生の頃からよくあの別荘に通っていてね。以来、桐谷はあの周辺の風景にインスパイアされた絵を数多く生み出している。これ、なんだかわかる?」
オーナーが右の絵の夜空の一か所を指さした。
「月……ですよね」
「そう。じゃあこっちは?」
中央の絵の下方、星砂のような光の群れを指さす。
「花、です。……でも星にも見えます」
正直に付け加えたものの、内心覚悟していた。何をメルヘンチックなことを言ってるんだと一刀両断されるのを。だがオーナーは馬鹿にすることも否定することもせず、ただ真顔でうなずいた。
「そうだ。そしてこれらは桐谷にとっての麗しい過去でもあり姉そのものでもあるんだ。つまりは失った輝かしい未来だな」
「それは」
やはり喉が渇いて仕方がない。うまく動かない唇を一度閉じ、湿らせ、
「どういうことなんでしょうか」
訊ね直すと、
「この世を正と負、または善と悪、光と闇、喜びと悲しみ、優しさと酷さ――そんなふうに二対のもので説明できるとするならば、桐谷にとっての前者とは過去であり姉なんだろう」
オーナーは普段の彼らしからぬ抽象的な物言いで返してきた。
「だったら……今や未来は後者だというんですか?」
「だろうな」
「純愛……だったんですね」
胸がつきりと痛んだ。でもこの痛みを「切ない」と表現すると、また桐谷を驚かせてしまうのだろう。
片膝を立て、オーナーが左の絵に向かい合った。
「そしてこの鳥こそが後者であり、また桐谷自身なんだと俺は思っている」
三枚で一つのモチーフ、そのもっとも左に配置された絵は、他の二枚の絵と雰囲気は似ているものの、陰鬱とした空気が濃くにじみ出ている。その理由をオーナーは後者だからだと言った。この世の負、悪、闇、悲しみ。酷さ。そういったものなのだと言った。そしてそれは桐谷のことであり未来のことである、と。
「……あいつはいつもこういう絵ばかりを描く。まったく困った奴だ」
オーナーが独り言ちた。
「先生は……あの人は昔に戻りたいんですね」
わたしがようやく一つの解にたどり着くと、オーナーは絵の中の鳥を見つめたまま首肯した。
「だろうな。でなければこうも切実に月を見上げたりはしないよ」
そしてこう付け加えた。
「美しい月と書いて、美月。それが姉の名だ」
*