3.十月、切なく
そして十月の終わり、わたしはまた一人別荘へと向かっていた。
別荘までの道のりではいくつもの果樹園の横を通る。今日は至るところで熟れた林檎を目撃する。赤や黄緑の球体があちこちにぶらさがる様は灯篭のような、ちょっとしたモニュメントのようで、運転しながら、わたしは何かの祭りに参加しているかのような奇妙な高揚感を味わった。
もしもここで本当のお祭りが催されているとしたらどんな目的のものだろう。豊作への感謝を神様に伝えるためのお祭りだろうか。だとしたら農業の神様がこの祭りの主賓なのだろう。
長時間運転をしているせいで、ついつい妄想が膨らんでいく。
農業の神様は農作物全般を等しく好む存在なのだろうか。野菜も果物も穀物も、分け隔てなく慈しんでくれるのだろうか。神様だから食事をとらなくても生きていけるのだろうか。だとしたら何のために得るもののない物の神になどなってしまったのだろうか。というか、八百万の神のうち、本意でもって神を務めている者はどの程度いるのだろうか。
様々な空想をしていたらあっという間に目的地についた。
前回の宣言どおり、桐谷は大型のキャンバスを用意して待っていた。図らずもオーナーから桐谷の過去を聞いてしまい、どう接するべきか決めかねていたわたしだったが、大型のキャンパスが三枚並ぶ様を見た瞬間、その圧倒的な存在感に絶句した。
「……三枚もあるなんて聞いていませんでした」
「いけないかな。枚数が多い方が僕も画廊もお客も喜ぶ。一石三鳥とはこういうことだ」
「……それはそうですけど」
「一石四鳥じゃなくて悪かったね」
こちらを見る桐谷の目は典型的な弧を描いていた。
桐谷の示す態度は社会人のわたしとしてはとても助かるものだった。一介の社員であるわたしが不満を示すべきことではないからだ。だが桐谷はわたしの非を責めず、逆に笑いに変えようとしてくれた。それは社会人としてのわたしを完璧にフォローするものだった。
だが――桐谷の態度に助けられことを自覚しつつも、『わたし自身』は全然うれしくなかった。画廊で働く一社員としてのわたしではなく、財前風香という名の一人の人間、女として。
わたしが懸念すること、それはこの仕事を完璧にやり遂げられるか否か、これに尽きた。理由はもちろん、桐谷の担当として恥じない自分でいたいから。運搬時の気苦労などわたしにとっては問題ではく、担当者失格の烙印を押される未来に恐怖を抱いたのだった。
「今回の作品は三枚で一つのテーマを扱っていてね」
だが桐谷はわたしの自分勝手ないら立ちにまでは気づいていない。
「Rが右、Cが中央、Lが左。三枚を並べると」
包装紙に油性マジックで大胆に書いたアルファベットを指さしながら淡々と説明していく。
「すみません」
急激な感情の高ぶりは抑えがたいほど強烈で――わたしは考えることなく桐谷の言葉を遮っていた。
「今月もありがとうございました。きっとこの作品を待っているお客様もお喜びになりますね。大切にお預かります」
おざなりに頭を下げ、三枚まとめて持ち上げたところで。当たり前のことではあるが予想以の重みに手元が滑り、ひやりとした。
「手伝おう」
近づいた桐谷が手を伸ばしかけ――突然の距離の近さに、わたしは頭を強く横に振ることでとっさに桐谷を拒絶した。
「大丈夫です。一人で運びます」
今すぐこの場を立ち去りたい。それは抗えないほどに強い衝動だった。それでもさすがに落とすリスクは避けるべきだと思い直す理性は残っていて、わたしは一枚一枚を丁寧に車に運び入れていった。その間、桐谷は壁にもたれかかり腕を組み、何か言いたげにわたしの行動を逐一観察していた。
帰り際、受け取りの書類にサインを書き入れた桐谷に問われた。
「何か山縣から聞いた?」
山縣とはオーナーのことだ。
もちろん否定しようとした。だができなかった。桐谷は長い間同じ姿勢をとっているだけで、今も壁に背をもたれかけ腕を組んでいるだけなのだが、その瞳に射すくめられた途端、自然と口がひらいていた。
「……オーナーのお姉さんとのことを」
やっとのことで告白しても、桐谷は視線を逸らすことも表情を和らげることもしなかった。対するわたしの方が詰問され幾分顔色が悪くなっている。
「どう思った?」
沈黙を打ち破った桐谷の質問は、始めは真意がつかめなかった。
少し考え意味をはかると、精査する間もなく正直な想いが口からこぼれ出た。
「切なく、なりました」
多分誰かに聞いてもらいたかったのだと思う。このひと月、わたしの中で煮詰められるだけ煮詰められたこの感情を。桐谷の過去は桐谷のもので、わたしのものではない。なのに今ではわたしの中心でわたし自身の過去よりも存在感を占め、わたしを苦しめるようになっていた。
「切なく? 財前さんが?」
体を起こした桐谷の表情は驚きで彩られている。
その表情にわたしは失言をしてしまったことに気がついた。
「すみません。失礼します」
待って、と桐谷が言う声は聞こえたが、わたしはわき目もふらずに逃げ出した。
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