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2.九月、恋について思索する

 桐谷の元を訪れる生活はそろそろ一年になろうとしている。


 朝から社用車で山奥へと向かい、絵を受け取り、一路会社へと戻るこのルーティンワークは、いい気分転換になるから気に入っていた。好きな音楽をかけながら空気のきれいな場所へのドライブだなんて、平日からなんとも贅沢な過ごし方だ。作品を受け取った帰路は当然緊張するが、あまりに緊張が続けば運転に支障が出るので、意識的にゆったりと過ごすようにしていた。


 九月の終わり、柔らかな風の中に秋特有の香ばしさを鼻腔がとらえる。休憩のために停車させた駐車場で大きく伸びをすると、良質な空気が肺を満たしていった。


 連なる山々のほとんどは深い緑で生い茂っているが、この時期、ただ勢いだけで育っていた木々や草花はすでにその身を衰えさせている過程にあった。目に見えないところから少しずつ、着実に、鮮やかな色が落ち着き、くすみつつある。だが、色があせていく様と前後して、吹き抜ける風は香り高くなっていくようにわたしには思えている。そう、ちょうど今日のように。


 うまく説明できないが、生命力に満ち溢れる夏と同じくらい、じらした斜陽のようなこの時期がわたしは好きだった。


 もうしばらくすれば、今度はあの山の頂から麓にかけて順序良く別の色が生まれていくだろう。赤や茶といった温かみのある色が、グラデーションになって広がっていき、あふれ出し――そうすると誰が見ても季節は秋だとわかるようになる。


 車のボディにもたれて、往路で購入しておいたカフェオレのミニペットボトルに口をつけた。苦みと甘み、どちらが勝っているのか判別しにくい複雑な味になぜか気持ちが落ち着いてく。


 クリアな空を眺めながら、ついさっき別れたばかりの男にわたしは思いを馳せていった。


 桐谷は年齢相応なところとそうでないところを混在させた不思議な魅力を有する男だ。


 たとえば、外見。艶のいい肌や丸みを帯びた瞳は彼を年若く見せるのに対し、目元の小さな皺や数本の白髪は実年齢の割には老けてみえる。その白髪は後頭部にひっそりと存在しているものだから、本人ですら気づいていないだろう。


 そして、服の着こなし。たとえば今日着流していた白のコットンシャツも、ゆるめの生成りのパンツも、一般人ならばただの部屋着にしかならなそうな選択だが、身に着ける人間が桐谷だとなぜかこなれて見える。そんなところに人間としての余裕が感じられる。わたしには一生到達し得ない領域だ。


 特筆すべきはやはり桐谷の仕事の特殊性だ。今どきキャンバスに絵を描くだけで生活できる三十代というのは珍しいのではないだろうか。ただ、特別な人間だけが自らにふさわしい仕事、天職に就けるのだろうが、桐谷を見ていると仕事が人間を変えることもあるのかもしれないと思う時がある。優雅で、落ち着きがあって、そこはかとなく品があり、精神的に成熟している人だなと常々思っている。


 桐谷の本宅は都内にあるらしい。


 だがあの別荘に住みついてからは一度も本宅には戻っていないそうだ。


「どうして先生は本宅に戻らないんでしょうか」


 夕方前、無事――というか予定通り画廊に着いて作品を保管室に運び終えた後、わたしは画廊のオーナー、つまりわたしの雇い主に訊ねた。


 その声がややかすれてしまったのは、往復の車内で一人カラオケをしすぎたせいで、誓って他意はない。だが思ったとおり、オーナーは単細胞によってはじきだされた安直な解を信じてしまった。水ようかんと緑茶をテーブルに出しながら、人より大きな瞳をより一層見開いてみせたのがその証だ。


「あれ? 財前さん、もしかして桐谷さんに惚れた?」


 けれど純粋に驚いているわけではないことは、薄く揺れた頬の動きから察せられた。


「いいえ。違います」


 端的に、明瞭に返したつもりが、単細胞には単純な機微すら読めないようだった。裏の裏、そのまた斜めを誤読した結果、オーナーの眉がぐいぐい持ち上がっていく。


「冗談で言っただけなのにどうしてそんなに慌てるんだ。もしかして図星か?」


「全然違います」


 これ以上誤解されないよう、わたしは故意に大きなため息をついてみせた。


「オーナーってそういう推測して喜んでしまえる人だったんですね。幻滅しました」


 わたしよりも一回り年が離れているが、出会った当初から壁を作らない接し方をしてくれるオーナーとは、主従関係というよりも、大学時代のサークルの先輩後輩みたいな関係だ。だからこうやって軽口を叩ける。


「ははは。だが恋愛ざたが面白くない人間なんていないさ」


 オーナーの言葉遣いにも雇い主らしい柔らかさや曖昧さはない。顧客との会話の中で『実は私、こう見えて体育会系なんです』と時折説明しているのを耳にしているが、あれは自己弁護や謙遜、卑下のふりをした自慢だと常々思っている。


「ほら。人間って恋に恋してしまう生き物だろう?」


「はあ。そうでしょうか」


「おいおい。この世に数多あるエンタメ、メディアを見てみろよ。恋愛を題材にした作品がどれほどあると思う? 太古の昔から恋愛は最高のテーマだよ。特に華やかな人種の他人事ほど面白い。フィクションとして安心して楽しめる」


「そう言われてしまうと身も蓋もないですが、確かにオーナーの言う通りですね」


 正直に言えば映画もドラマも今まで興味をもてたことがないのだが、わたしは社会人らしく曖昧に返答しておいた。


 人は人生においてどれほど恋をするものなのだろうか――。


 普段なら考えないような題目がふとわたしの脳裏に芽生えた。


 一度も恋をしない人もいれば、何十回とする人もいるという話を聞いたことはある。恋に興味のない人もいれば、恋によってその身を滅ぼされてしまう人もいるらしい。とはいえこの国では未婚者が非人間的な扱いを受けていた時代は過去のものとなり、今は個人を尊重する時代となっているから、結婚もそうだが、恋をしてもしなくてもそれほど肩身が狭い思いをしなくて済む。なおかつ他人に深入りするのもはばかられる昨今のご時世だから、容易にプライベートを訊ねることもできなくなってしまった。それゆえ、単純明快、普遍的なテーマのように見えて、恋とは扱い難さを帯びたテーマになってきているように思うのだ。


 かといってファッション雑誌のアンケートのようなものは母数に占める人種がランダムとは言い難く、信頼ならない。金銭に余裕があって、おしゃれに興味があって、いちかばちかの賭けのようなプレゼントが欲しくて十五分ほどの時間をアンケートの回答に使ってもいいと思えるような女性――そうやってフィルタをかければかけるほど、一部の人種の傾向を切り取っただけの数字としか思えない。


 ではどうすれば現代の恋愛事情を正確に把握することができるのだろうか。


「それより、俺のことはいい加減オーナーじゃなくて武史たけしって呼んでくれよ」


 思索はオーナーのたわいない冗談で中断された。


「いえ。それは無理です」


 きっぱりと答えたが、このくだりはいつものことで、わたしとオーナーにとっては挨拶のようなものだった。


 けれど今日はいつもと違った。わたしが水ようかんをつるんと口に含んだところで、だしぬけにオーナーが秘密を暴露してきたからだ。


「実は桐谷さんは――桐谷は俺の義理の兄なんだよね」


「……え?」


 まさかそんな予想外の話をされるとは思っていなかったから、わたしは無意識で口内のものを飲み込んでいた。今日のおやつが水ようかんでよかった、これが饅頭だったら喉につまらせていただろうし、雷おこしだったら飲み込むことができなくて反射的に吐き出してしまっていただろう。


 喉の奥の方をとろりと冷たいものが降りていく感覚が消えたところで、オーナーがなんとも形容しがたい笑みを浮かべた。


「桐谷は俺の姉の夫だった」


「オーナーのお姉さん、の」


 気になる過去形の意味はオーナー自らが教えてくれた。


「姉は五年前に交通事故で亡くなってね。この画廊も実は姉が経営していたものなんだ。この話、もっと聞きたい?」


 向けられた表情にはからかいの色は見えなかったから、わたしはためらいながらもうなずいた。


「二人はもともと高校の先輩後輩の関係だったんだ。美術部で切磋琢磨し合っているうちに双方に恋心が芽生えて順当に付き合いだして……だから同じ大学に行くことも自然なことだったんだろうな」


「T大学、でしたよね」


 担当画家の履歴は頭に入っている。


 オーナーが小さくうなずいた。


「そ。で、全国的に見ても同棲率が高いと言われているそこで、二人はそのさらに上を行ったってわけ」


「上?」


「学生結婚」


「……へえ」


 意外だった。


 あの思慮深そうな桐谷がそんな青い衝動に身を任せたことに。まだ若かったから仕方がないのかもしれない。いや、若いからこその決断だったのかもしれない。だがとにかく意外だった。


「ロマンチック、ですね」


 反応が適当すぎたかと、とっさに思いついた感想を述べると、


「そうか?」


 オーナーはにこりともせずに湯飲みに手を伸ばした。


「しかし現実は結婚してめでたしめでたしじゃない。人生はそれからも続く」


 オーナーが茶を口に含む。その動作が普段よりも緩やかに思えたのは、オーナーが続きを話すことにためらいを感じたからか、それともわたしの気が急いているからか。


「卒業後なんだが」


 オーナーいわく、桐谷の妻は大学卒業後にこの画廊を興したのだそうだ。愛する夫の作品を売るために。それにより桐谷は絵の制作に一層まい進することができるようになり、今の盤石な地位の礎を築けたのだという。


 学生時代から桐谷は類まれな才能の片鱗を見せ始めていたそうだ。とはいえ、若い夫婦がそのような大胆な決断を起こしたという事実は、オーナーの言葉を借りるならフィクションに思えた。普通、そのような選択はしない。それぞれが妥当な会社に就職するなり、美術教師になるなりするものだろう。


「二人はお互いのことを強く信じていたんだ。信じ合い、助け合い、支え合い、愛し合い……。貧しさも苦労も失敗も、その後に勝ち得た成功も喜びも、何もかもを二人で分け合い乗り越え――そんな理想と幸福を絵に描いたような夫婦だったんだ。五年前、姉が亡くなるまでは」


「そう……だったんですか」


 水ようかんを食べ終えたガラスの容器を、わたしはそっと机の上に戻した。


「もう一つどうだ? 定番の小倉と抹茶もあるぞ」


「……いいえ。けっこうです。仕事に戻ります」


 無理して笑っていることがばればれで、力なく立ちあがったわたしのことをオーナーもそれ以上引き留めようとはしなかった。



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