最終話
わたしが一枚のはがきを手に三年前に勤めていた画廊を訪れたのは、二月の終わりのことだった。桐谷透羽の個展開催のお知らせ――それはわたしにとって大いなる吉報だった。
画廊の外から中をうかがうと、わざわざ平日の朝十時――一応オープン時間だ――を選んだこともあり、客は誰もおらず、オーナーも桐谷も不在だった。それを確認してからでないと中に入れないわたしはとことん勇気がない。だがそんなものは三年前に全部使いきってしまっていた。
バイトか、はたまたわたしの次に雇われたのか、画廊の入り口に座る受付の男性はひどくぼんやりとしていた。芳名帳にわたしは偽の名前を記したが、案の定、彼は特に何も言わなかった。
うつむいてスマホを操作しだした彼の前を通り過ぎ、大して広くもないギャラリーで、わたしは壁に飾られたキャンバスを、一枚一枚、丹念に眺めていった。
今も手に持つはがき――この個展の知らせをもらって何に驚いたか。画廊の仕事を辞めたわたしにわざわざ連絡をくれたことでも、退職したわたしの住所がいまだ画廊に残されていたことでもない。印刷された絵の色鮮やかさだった。外から中をうかがった際にも、飾られている絵のどれもが明るい色を多用しており、想定していたこととはいえ度肝を抜かれた。
だがこうやってじっくりと作品に向き合えば、色の使い方は違えど、描かれている世界は桐谷そのものだった。絶望や悲しみといった闇ばかりを描いていた頃と同じように、どのキャンバスからもあの山奥の別荘で花鳥風月を見つめ、明け暮れる日々が匂い立っていた。
どの絵にもつがいの鳥が描かれている。これにはつい笑みが浮かんでしまった。ウグイス。サギ。モズ。ヒヨドリ。ツグミ。どの鳥もきれいな色をまとっており美しい。そして、どの鳥もこの世界で生きていることに静かに喜びを感じている。それが伝わってくる。
やがてわたしの足がもっとも大きなキャンバスの前で止まった。それは秋の素朴な光景を描いたものだった。小さな川辺に咲く、名も知らぬ小さな紅色の花。その中で羽を休めるのはジョウビタキだろう。オスの特徴である、胸から腹にかけて染まるオレンジ色は、日の光に溶けて黄金のように輝いている。だが他の絵と違って、この鳥にはメスがそばにいない。そのことを不思議に思っていたら、背後から男に声をかけられた。
「すみません。この鳥の名前をご存じですか」
「おそらくジョウビタキです」
正面を向いたままで客同士としての最低限の答えを返す。と、一拍おいて、男がふはっと無遠慮な笑い声をあげた。
「やっぱり知ってるんだ。財前さんってほんと変わってるな」
「……オーナー?」
「よ。久しぶり」
振り向けば、そこにいたのはやはりオーナーだった。以前はなかった白髪がちらほら生えてきてはいるものの、いかにも仕事ができそうな見た目も、気さくな雰囲気も、ほとんど変わっていなかった。
「どうしてここに」
「ここ、俺の画廊」
当たり前の問いに当たり前の答えを返され、わたしはぐっと息を飲んだ。
「はは。さっきカフェで注文しようとしたら受付の奴から連絡があってさ。財前さんが来たって。キャンセルして急いで戻ってきた。こういう感じの女性が来たら連絡くれって伝えておいたんだけど、ほんと全然変わってないんだな。それに俺は一番驚いている」
「……オーナー」
「俺のことはいい加減オーナーじゃなくて武史って呼べよ」
「またそれですか」
勤めているときによく同じ台詞を言われたものだ。
「俺はもう財前さんの上司じゃない」
「ええと。では山縣さんで」
「相変わらずつれない奴だな」
苦笑したオーナー、もとい山縣さんがわたしの隣に立つと腕を組んで絵に向き合った。
「財前さんは秋が好きなんだよな」
「そんなこと言った覚えはありませんが」
「あれ。勘違いだったかな。ところでこの絵だけ鳥が一羽しかいないのには理由があってな」
「理由、教えてください」
食い気味で訊ねたわたしに山縣さんがややひるんだ。
「お、おお。あのな、この鳥は一羽でも幸せなんだど」
「……一羽でも、幸せ?」
意表を突いた返答にオウムのごとく繰り返したわたしに、山縣さんが一つうなずいた。
「ああ。そう言っていた」
誰が、と言われなくてもわかる。
あの人はもう大丈夫なんだ――そう思ったら、唐突にわたしの目の前の視界が揺れ始めた。
「……そうか。まだ好きだったんだな」
これをわたしは肯定することも否定することもしなかった。それでも耐えきれずにあふれ出した涙はなかなか止まってはくれなかった。
「わたしも……同じなんです」
ポケットから取り出したハンカチで目元を押さえながら、わたしはなんとか言葉を絞り出した。
「これでもわたしも幸せなんです。たとえ独りでも。つがいがいなくても」
「そうか」
「はい。だからあの人にも同じように幸せを感じてほしかったんです。わたしのように、あの人にも。ただそれだけだったんです」
たとえ変わっていると散々言われても。恋を失って死にたくなるほど苦しんでも。最後には必ず日常がわたしを癒してくれた。そしてわたしは再び幸せを取り戻していた。
胸に抱える幾多の痛みは、時折思い出したように心をえぐる。それでもわたしはその痛みごとこれからの人生を歩いていくと決めている。それもまた幸せなことだとわたしは思っている。痛くなるほどの経験をさせてもらえたこと自体が変わり者のわたしにとっては奇跡であり、感謝すべきことなのだ。
だからゆるせなかった。こんなわたしですら幸せを感じられるのに、あの人が――わたしが恋した桐谷が幸せになれないなんてゆるせなかった。どうにかしてやりたかった。その強い願いの前ではわたしの恋の成就なんてどうでもよかったのである。
「だから今日、こうして個展に来られてすごく嬉しいんです。ほんとうに……すごく嬉しくて……」
たとえ愛する人がそばにいなくても。愛が満たされることがなくても。この世界はすばらしいものであふれている。それは誰にとっても等しく同じなのである。わたしはそのことを桐谷に気づいてほしかった。ただそれだけがわたしの願いだった。だから――。
「よかった……。ほんとうによかった……」
どうか――どうかいつまでも幸せに。
「……卑怯になりたくないから言うけど」
ややあって山縣さんが切り出した。
「実は桐谷ももうすぐここに来る」
「……どうして」
「あいつも君に会いたがっていたから。ここに来る前に桐谷にも連絡しておいたんだ。あいつの本宅、ここから近いんだ。おそらくあと十分もすれば着くと思う」
どうする、と山縣さんが続けるよりも先に、わたしは山縣さんに深々と頭を下げた。顔をあげると、山縣さんは困ったような顔をしながらもうなずいてくれた。
「やっぱり会わないよな。財前さんならそうすると思っていた」
「はい」
「伝言もなし?」
「はい」
「俺のこと、最後まで名前で呼んでくれないの?」
「ふふふ。絶対に呼びません」
退職時よりもさみしそうな表情を見せた山縣さんに、わたしも一抹のさみしさを覚えたものの、もう一度頭を下げると足早に画廊を出た。
*
画廊を出て駅に向かう途中、向こうの方からかなりの速さで走ってくる桐谷を見かけ、わたしはとっさにすぐそばにあったカフェのテラスに客のふりをして腰をおろした。
遠目からでも一瞬にしてわかるくらい、桐谷は桐谷のままだった。
部屋でくつろいでいたところを急いで出てきた、そんな感じのゆるい服装も乱れた髪も、あの別荘で何度も見た姿そのものだった。
白のコットンシャツ。ゆるめの生成りのパンツ。そして、オレンジ色のスニーカー。そうか、桐谷は外ではスニーカーを履くのか。しかもオレンジ色。白でも黒でもなく。こんなときにそんなことに意識が向く自分はやはり変わっているのだろう。
ただ、色鮮やかなスニーカーのせいだけではなく、今日の桐谷は以前とは違った。桐谷が常にまとっていた、どこか退廃的な雰囲気は薄れていた。それどころか、走る桐谷ははつらつとしていた。冬特有の澄んだ陽光を真正面に受けながら一心不乱に走る姿には美しさすらあった。そう、泣きたくなるほど美しかったのだ。今日、画廊で見た無数の鳥のように。
揺れる髪。躍動する体。こんなにも桐谷の体はこの世界になじんでいる。何もかもに背を向けていた頃の桐谷には危ういアンバランスさが感じられたが、今、走る足の一歩一歩に安定感があり、前後する両腕は力強い。それはまさに生きる者しか持ちえない性質だった。
その桐谷がこちらに近づいてくる。
ものすごい速さでこちらに近づいてくる――。
つい見惚れてしまっていたが、ふと目が合いそうになり、とっさに置いてあったメニュー表で顔を隠した。続けて、うるさいくらいに鳴る鼓動を上書きするように、すぐ間近を駆ける足音と疾風が通り過ぎていった。
足音がしなくなってから、わたしはようやくメニュー表から慎重に顔を出した。振り向けば、こちらに背を向けた桐谷が画廊に飛び込んでいく様子が見え、わたしの腰が反射的に少し上がった。
「お客様。ご注文は?」
動きが止まった。
一瞬、時間すら止まったかのような錯覚を覚え――だが次の瞬間、わたしは再度椅子に腰を落とした。いったん目を閉じ、深呼吸をし、それから店員にようやく顔を向けた。
「すみません。やっぱりけっこうです」
謝り、重い腰を再度あげる。そしてテラスから出たわたしはためらうことなく走り出した。桐谷のように、全速力で。カツカツとブーツの音を鳴らしながら、風に立ち向かいながら、わたしは一度も振り返ることなく駅に向かって駆けたのであった。
了
お読みくださりありがとうございました。
どうしてわたしは桐谷に会おうとしなかったのか。
理由は察してくださっていることと思います。