1.九月、美しい画家に会いに
ここには紅はない――そうあなたは言った。
この世界にはすべての色がある――わたしはそうあなたに伝えた。
*
毎月最終水曜日、わたしは独りで車を走らせ、とある別荘を仕事で訪れる。
別荘といっても、ただの、本当にただの平屋だ。そこはかとない清貧さすら匂い立つ、シンプル極まりない一軒家である。そこはわたしが勤める画廊のオーナーの所有物件なのだが、オーナーは数年前から桐谷という画家をこの別荘に住まわせて絵を描かせていた。
月に一回、別荘に赴いて彼の描いた絵を受け取ってくること――それがわたしに与えられた仕事の一つであり、もっとも重要な仕事だった。
「では先生。こちらにサインをお願いします」
定型文が書かれた書類を桐谷に差し出しながら、わたしはほころんでしまいそうな頬を、唇をかみしめて必死でこらえていた。今日の受領品は十号サイズ(530×430)一枚で、これなら持ち運びはそれほど大変ではない。一目見た瞬間安堵したのは、わたしと同じ立場にたってみれば理解してもらえるはずだ。
「くくっ」
息遣いが乱れた気配に顔をあげれば、桐谷もなぜか耐えようにも耐えきれないといった感じの笑みを浮かべていた。
「どうされましたか?」
「ああ。いや」
サインを終えた桐谷の長い人差し指がキャンバスに向く。深緑色の絵の具が付着した指先は、どこか抽象的で、しかし写実的には正しく画家の指だった。
「今月の絵は小さくて安心したかな?」
「……あ」
「でも来月は五十号(1167×803)だからごめんね?」
意地悪を重ねてくる桐谷に、わたしは精一杯の意地ですました顔を作ってみせた。
「問題ありません。仕事ですから」
だが笑みを浮かべる桐谷の瞳の色はいつまでも変わらず、わたしは桐谷のことを上目遣いにそっと睨んだ。ただ、実際にはわたしは怒ってなどいなかった。それどころか、この奇妙にも思える現実、奇跡にいまだなじめない自分を感じていた。そう、桐谷がわたしに対してこんなふうに打ち解けてくれるようになるなどとは、出会った頃には想像もしていなかったからだ。
わたしは自分が無益で凡庸な人間であることを自覚していた。もちろん、これまでの人生においてもそれなりの数の山谷を経験しているが、そのどれもがわたし自身の価値を高めてくれたりなどしなかったし、つまりはその程度の経験、その程度の人間なのである。
けれどたった一つ、世界中に自慢したくなるような特別な出来事をわたしは経験していた。それこそが桐谷との出会いであり、桐谷の担当につくことになったという幸運だった。
「ところで」
こほんと咳をして話題を変える。
「先生は今月はどんな絵を描かれたのですか?」
至近距離で向かい合う桐谷は今日も惚れ惚れするほど美しい。
「あれ。興味あるんだ」
「それはもちろん。担当する先生の絵ですから」
過剰に力のこもった声を発してしまったのは、桐谷の美貌が理由ではなく、ぜひとも拝見したいと常々思っていたからだ。
わたしは桐谷の絵を一度も見たことがなかった。毎度、桐谷自らによって専用の木枠に収められ、なおかつ厚い布で厳重に包まれた状態で引き渡されるからだ。隙間から覗くことすらできないほどきっちりとした梱包の仕方は、桐谷が手慣れているせいでもあり、また、仕事に対する本人の責任感の強さの表れだった。
担当画家の絵を見たくない人間などいないだろう。当然、わたしも見たいと思っている。だが桐谷は画集を出しておらず、わたしが桐谷のことを知ってからは個展を催すこともなかった。
しかも桐谷には三十五歳という若さでパトロンともいうべき熱心な固定客――もっと軽い言い方をするならばファン――が複数人いて、制作物はわたしを通り越してその顧客達へと流れてゆくだけだった。つまり、わたしが桐谷の作品を拝見させてもらえる機会など、これまで一切なかったのである。残念なことに。
わたしが学生時代にもう少し高尚な趣味を持っていれば、公の場で桐谷の絵を見るチャンスは幾度もあったようだ。だが当時のわたしは瑞々しく、うら若く、無知だった。簡単に取り入れられるような刺激ばかりに敏感で、絵画を鑑賞する機会もきっかけも、興味すらもなかった。まあ今更どうにもならない話なのだが。
わたしは想像している。きっと本人の性質同様に、静謐でしんと染み入るような、けれどどこか凛とした美しさを放つような絵画を――たとえばモネのような作品を桐谷は描くのだろうと。桐谷が洋画を専門としていることはオーナーから教えてもらって知っていた。
すると桐谷が意外なことを言い出した。
「君が見たいなら開けようか?」
「けっこうです。絶対に開けないでください」
わたしは胸の前で両手を大げさに振ってみせた。
「包装を勝手に解いてはいけないとオーナーに厳命されているんです」
もしも絵が傷ついていたら誰が責任をとるのか。その所在をはっきりさせるため、運搬前に完璧に梱包を済ませておくことは桐谷の側の義務となっている。そうオーナーから聞かされている。だからわたしは包装の外観をくまなくチェックし、破れや凹み、汚れ等がないことを確認してから受け取るよう念を押されていた。それゆえ帰路には相当気を使う。画廊に戻り、オーナーによる最終チェックを終えるまでも気は抜けないのだ。
「本日もこのまま持ち帰らせていただきます」
「そう?」
「はい。また機会があれば見せてください。それでは失礼します」
そんな時は来ないだろうと内心思いながら社交辞令として返すと、桐谷は「うん。また来月」とあっさりと引き下がった。
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話の流れの都合で一話毎の文字数は違います。
短いもので二千文字未満、長いもので五千文字ほどです。