概念の天ぷら
知人から概念を揚げてくれるという珍しい天ぷら屋があると聞いたので、興味を持った私は早速そのお店を訪れることにした。住宅街のなかにひっそりと佇むそのお店は民家と見間違うほどで、事前に場所を詳しく教えてもらっていなかったら、きっと見落としていたに違いなかった。傘を閉じ、店内に入ると中は人一人がようやく腰掛けられるほどの小さなお店で、カウンターの目の前には穏やかな表情を浮かべた店主が立っていた。
「コースの一番最初の料理は『祝福』の天ぷらです。口に入れた瞬間に広がる旨みが特徴で、素材の旨みを楽しむために何もつけずにお召し上がりいただくことをお勧めしております」
私は出された天ぷらを口に運ぶ。店主の言う通り、口に入れた瞬間に凝縮された旨みが広がり、自然の風味が心地よく鼻腔を通り過ぎていった。
「次は『無垢』の天ぷらです。食感に遊び心を持たせており、噛むたびに違った喜びを感じることができます。そして、お隣は『希望』の天ぷらです。衣は軽く、サクサクとしながらも、しっかりと味わいのある一品となっております」
私は天ぷらを美味しくいただきながら、ハッとこのコースに出される概念のルールに気がついた。
「もしやこのコースで出される概念は、人の一生を表しているのではないですか?」
私の質問に店主は穏やかに微笑みながら頷いた。
「ご推察の通りです。気が付かれるのが早いですね。ただ、正確に言うと、このコースは人の一生という一般的なものではなく、お客様の一生を表すコースとなっております?」
「私の?」
「ええ、こういう商売をしてますと、一眼見ただけでその人が辿ってきた人生がわかるんです。それを極めると、その人がこれからどのような人生を送るのかということもわかるんです。私がお出ししている概念の天ぷらは、お客様のこれまでの人生、そしてこれからの人生を表しているんです」
私確かに私が生まれた時は親戚みんなから祝福されたし、子供の頃は無垢で、希望に満ち溢れていた。しかし、大勢の人間は同じような子供時代を過ごしているはずだ。だから、たまたま当たっているだけだろうと思い、話半分で店主の話に相槌を打ち、頷いた。
「続いては『苦悩』の天ぷらです。苦味が特徴的な逸品で、大人にならないとわからないような奥深い味となっております。そして、それに続くのが、『挫折』、『出会い』、『深愛』、『感謝』、そして……『惜別』の天ぷらです」
その並んだ単語に私はぴくりと反応してしまう。その言葉に釣られ、私の人生がフラッシュバックする。何者にもなれない自分へのコンプレックス、彼女との運命的な出会い、愛する彼女、子供との生活、それから……。
「人の数だけ違った人生があるんです。お客様にも、私にも」
店主の言葉に、今度は私が頷く。
「話が過ぎましたね、失礼しました。一応以上がこれまでのお客様の人生を表した概念の天ぷらで、次がこれからのお客様の人生を表す概念の天ぷらです」
店主はそう言うと、揚げたての天ぷらをお皿に乗せていく。
「左から、『嘆息』、『気付き』、『不安』、『反射』、そして最後は『安堵』になります」
「これはどういうことですか?」
店主は私の答えに首を振った。
「私は天ぷら屋なので、これ以上のことはわかりません。この概念が何を意味しているのか、どのような出来事に対してこのような概念が引き起こされるのか、それは神のみぞ知るです。もちろん、占いみたいなものですから、信じなくたって別にいいんです。今はただ、この概念の天ぷらを美味しく味わっていただけたら料理人としてこれ以上の幸せはありません」
私は頷き、天ぷらを口に入れる。どれもこれも絶品で、料理人のこだわりと技術、そして長い経験を感じさせるような味だった。そして、その料理を通して、私は彼の人生に思いを馳せた。この短い時間の中で、私は目の前の店主と、どこか心の奥底で繋がれたような、そんな気がした。
私は店主にお礼を言い、お会計を済ませて外へ出た。雨はすでに止んでいて、雲の切れ目からは光の筋が差し込んでいた。私はその光景を眺めながら歩き出す。そして、公園の横を通り過ぎた時、入り口近くで元気にボール遊びをしている子供達に気がついた。それから、子供が小さい頃、ああやって一緒に遊んだことを思い出してしまう。そして、私はその光景に微笑みながら考える。
いつか近い将来。もしできるのであれば、今は離れ離れになってしまった元妻と、そして愛する子供たちと、あの珍しい天ぷら屋に行くことができたらいいな、と。
横断歩道をいくつかわたり、私はふと足を止める。それから自分が天ぷら屋に傘を置き忘れてしまったことに気がついた。
「仕方ないから戻るか……」
私は深くため息をつく。それから踵を返し、元来た道を歩き始める。その時、ふと先ほどの子供達の姿に目が留まる。子供たちはボール遊びに夢中で、周りのことなんて気にしていないようだった。そして、一人が蹴ったボールが宙に高く飛び上がる。そしてそれをもう一人の子供が追いかけようとしたその瞬間、私の胸に不吉な予感と不安が湧き上がる。それと同時に私は向こう側から走ってくるトラックの姿に気が付く。運転手はよそ見をしていて、路上は雨上がりで濡れていた。
「危ない!!」
声より、理性よりも先に、私の身体は子供に向かって走り出していた。ボールを追いかけ道路に飛び出す子供。子供に気が付かずによそ見運転をしている運転手。まるで時間が止まったかのようにすべてがスローになっていく中、今までの人生が走馬灯のように流れ始める。
みんなから誕生を祝福された幼児期。無垢にいろんなものを信じていた幼少期。未来への希望に溢れていた少年時代、そして、苦悩と挫折で陰鬱だった青年期。それから彼女とであい、愛し合い、人生で最も大事な宝物をこの手に抱き、それから……。
私の手が子供の小さな背中を突き飛ばすのと、私の身体に今まで感じたことがない衝撃が加わったのはほぼ同時だった。薄れゆくと意識と反転する世界。その中で、私の視界に映ったのは、私に突き飛ばされ、膝をすりむくだけの怪我で済んだ子供の姿だった。