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跋 2

 

 三十分後。

 電話で最後に「少しご自宅でお待ちになっていてください」と言った海斗は、律の家の前にやってきた。


「えっ……」


 なるべく音を立てないように気をつけながらそっと自宅を出た律は、道へ出てみてしばし固まった。なんと目の前に停まった車の運転席から、海斗が控えめに手を振っている。よくある白のセダン。海斗らしい車とは言えないなと思ったら案の定、それは父親の車だという。


「いつの間に免許を?」

 助手席にすべりこんでシートベルトを締めながら訊くと、海斗は照れくさそうに笑った。

「実は、律くんに出会ったころにはすでに。遠出をするにはまだ人を乗せるのは心配だったので、旅行では敢えて電車にさせていただいたのです」


 そうだったのか、と納得する。

 免許を取るなら学生のうちがいいとは聞いていた。自分もそろそろ考えなくてはいけない時期だろう。学生なら、夏休みなどの長い休みに合宿で取ってしまうのがよいという。

 そんなことを考えるうちに、海斗はスムーズに車を出していた。深夜のことで、行きかう車は極端に少ない。周囲はまだ完全に夜の世界だ。鳥たちですらまだ眠っている。


「どこに行くんですか」

「まあ、お任せください」


 そう言われて、律は背中をシートに預けた。

 海斗は予想通りというのか、大変な安全運転だった。もう眠気は去ってしまっていたはずなのに、安定感のある車の振動が妙に心地よくて、気がつけばついうとうとしてしまっていたらしい。目を開けて外を見ると、道の両側は見慣れない緑に覆われていた。


「……山、ですか?」

「はい」


 海斗はそれ以上の説明はせず、黙ってハンドルを握っているだけだ。運転の初心者なのだから、あまり話しかけない方がいいのかもしれない。そう思って律も黙った。

 ぐるぐると山肌を削り取った車道がしばらく続いて、着いたところは頂上に近い展望台公園だった。


「わあ、すごい。きれいですね」


 眼下に広がる都市の夜景はみごとなものだった。由比ヶ浜とはまた違うが、街の明かりが星の海のようになった景色は壮観だった。その星の海のむこうには、本物の海が黒々と広がっている。

 自動販売機で温かい缶コーヒーを買ってきた海斗が、ひとつを律に差し出した。


「どうぞ」

「あ、ありがとうございます……」


 しまった、このぐらいは自分が買って渡すべきだったのでは。と、もらってしまってから急に焦りが顔をだす。自分はいつも、そういう気遣いがワンテンポ遅いのだ。しかもそれが、そのまま顔に出てしまっていたらしい。海斗がひかえめながらも吹き出した。


「お気になさらず。誘い出したのは自分です。これも、自分が飲みたかっただけなので」

「う、……うん」


 ちょうど街を見下ろせる位置にあるベンチに並んで座ると、海斗が持ってきていた大きなブランケットを肩に掛けてくれた。そのまま自分も隣に入ってくる。ふたりで入っているだけで、不思議と心までほかほかするようだった。

 夜はまだ寒い季節だし、山ともなれば朝方はさらに冷える。温かいコーヒーがありがたかった。


「……ずっとね、思っていたのです」

「うん?」


 不意に話が始まったが、予期していたのでさほど驚きはしなかった。ただ、彼が自分の内面を語ることは多くないので、ややかしこまってしまうのはどうしようもない。


「あの、夢の。どうして自分はあのように、あなた様をお守りできなかったのか……と」

「それは、仕方ないだろう」


 スマホで電話をしたときに、ふたりがほぼ同じ夢を見たらしいことはわかっていた。よく考えてみればいかにも奇妙な符丁だったが、ふたりとも不思議とそれをおかしいとは思わなかった。


「あれはどう考えても無理だった。そうだろう」


 まこと、無理もない話なのだ。実際、あのとき自分と彼との距離はかなり離れていた。あんなに突然に襲われたうえ、しかも電灯もない時代の夜のことだ。即座に対応して駆けつけてくることなど、どんな男にだって不可能だったにちがいない。


「父が『眩暈(めまい)がする』などと申して参列をやめた時点で、もっとよく考えて心づもりをしておくべきだった。もっともっと、できることがあったのに……と。記憶が戻って以来、そのことを悔やまない日はありませんでした」

「やめるんだ」

 自分で思っていたよりも強い声が出て、自分ではっとしてしまった。海斗が驚いた目でこちらを見つめている。

「……もういいんだ、泰時。もう全部ぜんぶ、終わったことなんだよ。はるか昔の時代にね」

「……との」


 一瞬だけ海斗の声がひび割れた。少しだけだったが、まるで泣いているように聞こえた。

 律はひとくちコーヒーを飲み下すと、夜空を見上げた。


「あの頃。……私はとっくに、将軍の座に()いていた。したいこともできず、なんの実権も持たず、ただ『将軍でいること』だけを期待されて存在しているだけの自分に……すっかり()み疲れていた。『いつ死んでもいい』などと、そんなことまでふっと考えていたかもしれない」

「との」

「あの時死ななかったとしても、やがていつかは……それも近いうちに、ほかのだれかの手にかかっていたかもしれぬと思う」

「とのっ……!」

「いいのだ、だから」


 目線を下ろして、ぐっと海斗の目を見つめた。(まなじり)を決した海斗の表情は、かつての泰時そのものに見えた。


「左様なことをおっしゃらないでください。どのようなことがあったとて、自分はあなた様をお護りするつもりでおりました。どのようなことが、あっても」

「わかっているよ。ありがとう」


 膝の上に置かれた海斗の手が握りしめられている。律はそれを、拳の上からぎゅっと握った。

 海斗は困ったように目線を落として、唸るように言った。


「ですから……あの夢は、夢とはいえども……本懐でございました。少なくとも夢の中では、あなた様をお護りすることが叶いましたゆえ」

「うん。……わかっているよ」


 律はにこりと笑って、彼の手を握る手に力をこめた。




 いづくにて 世をばつくさむ 菅原(すがはら)や 伏見(ふしみ)の里も 荒れぬといふものを

 『金槐和歌集』600


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