30 世の中は
夕方になって帰宅すると、家には彩矢だけがいた。リビングのソファの上で、スウェット姿で寝転がり、スマホを見ているというおなじみの恰好だ。姿勢をまったく変えないまま、こちらを見もしないで片手だけをひょいと上げる。
「おっかえりい、律にい~」
「ああ、うん。これ、お土産」
「おー、鳩サブレー。ていばーん」
一瞬だけテーブルの上の紙袋に投げた視線は、すぐにまたスマホの画面にもどる。これもおなじみの仕草。
「今日は部活なし?」
「うん。『たまにはちゃんと休め』って顧問がさあ」
「ふーん」
完全にインドア派の自分にはよくわからないが、最近はスポーツ系の部活でも「しっかり休む」「やる時とやらない時のメリハリをしっかり」というのが徹底されはじめている。これはきっと、いいことなのだろう。
早々に自分から興味をなくしてくれたのにかえってほっとしつつ、律がそろっと廊下へ出ようとしたときだった。寝ころんだままスマホをぱたんと自分の腹の上に倒して、彩矢が不意に言った。
「んで、どうだったのぉ。旅行はさあ」
「どうって……ええと、うん。よかったよ」
「ふうん?」
彩矢の目が細くなった。
なんだかすべてを見透かすような目だ。だんだん胸がドキドキし始める。
「な、なんだよ……」
「あ。やっぱそうなんだ~、律にい」
「え」
「だからぁ。付き合ってるんでしょ? 清水パイセンとさあ」
「えっ」
今度は心臓が急停止した。
さすが女子。それも現役まっただなかのJKだけのことはある。あまり女の子っぽい部分の多い妹ではないと思っていたけれど、そういう方面のアンテナだけはそれなりに感度がいいらしい。これは恐れ入った。
「なっ、なななななにを言ってんだよ、いきなり……」
「ははーん。黙っとく感じ? そーゆー感じなの? それはパイセンの意見?」
「い、いや──」
この関係を家族に話すのかどうかなんて、まだ相談すらしていない。
(あ。しまった……)
動揺してしまってから気づいたが、これでは完全に「その通りです、付き合ってます」と答えてしまったに等しい。が、悔やんでも後の祭りだ。
彩矢はというと、今度はソファに腹ばいになり、両手で頬杖をついて意味深な顔でにこにこ笑っている。
「心配しなくっても、勝手に言ったりしないよお。律にいとパイセンが言いたくなったタイミングで言いなよ」
「え、ええと……」
「それでいいのか?」と目で問うたら、案の定な答えがきた。
「べっつに。いいんじゃないの? LGBTQとかダイバーシティとか、あたしは全然詳しくないし。最近は多様性がなんたらかんたら~ってよく言われるじゃん。ええやんええやん。しらんけど」
「しらんけどって──」
わが妹は、いつから関西の人になったんだ。
「『好きなもんは好き』。それで終わりの話でしょ? 恋愛って、もっと簡単なことだと思うんだけどなあ。好きになった人が好きな人なんじゃん。他の人では代わりがきかない。そんだけじゃん」
「ああ……うん」
「いいじゃん、パイセン、イケメンだしぃ。あたしは賛成。大さんせーい」
「彩矢……」
「まっ、チチとハハがどう言うかは知んないよ? そこは乗り越えていかないとさあ、自分らで」
この妹は、自分の父と母をなぜかこう呼ぶ。
「とりあえず、あたしは二人の味方だからねっ。それが本当の愛なら貫いちゃえ! 応援すっからさ」
立てた親指をぐっと突き出された。
「彩矢……」
「それに! あんっなイケメンがお兄ちゃんになるなんて、願ってもない話じゃん! この世の春じゃん! 絶対友だちに羨ましがられるじゃんっ」
「お、お前なあ……」
じんとしてしまったさっきの感動をちょっと返してほしくなったが、正直それでも嬉しかった。
「ありがとな、彩矢」
「お? いきなりマジメ君になんなよー。律にいはほんと、マジメ君で困るよー。こんなの当たり前でしょっての! あ、ラインきてるわー」
急に赤くなって、彩矢がそっぽを向く。わざとこちらに背を向けて、スマホに集中するふりを始めたのを合図に、律もそっとその場を離れた。それでも、部屋から出るとき、彼女には気づかれぬよう、そっと一礼するのは忘れなかった。
世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海人の小舟の 綱手かなしも
『金槐和歌集』604




