29 咲けばかつ
海斗の瞳のなかに、自分の顔が映っている。
彼がいっさい目をそらさないのは、周囲に人の気配がないことの証でもあった。
よいのですか、と小さく囁く声がわずかに掠れて、男の色気を醸し出している。
律は何も言わず、彼の胸元をつかむ手の力を少しばかり緩めて、ただうなずき返した。
海斗の顔がおずおずと近づいてくる。こんなに至近距離で彼を見るのは初めてだ。彼の目の中にいる自分が、まじまじとこちらを見つめているのすらよくわかる……。
「……どうか、お目を」
「あ。……そ、そうだなっ」
ドラマや映画でさんざん見ているはずなのに、いざ自分の番になるとそんなものはどこかへ吹っ飛んでいってしまうらしい。相手がこんなにぎろぎろと目を開いたままでは、さすがに彼だってやりにくいに違いないのに。
慌ててぎゅっと目を閉じたら、頬に海斗の手が添えられたのがわかった。そのとたん、体中が石のように固くなった。
(えっ)
唇が触れていた時間は、驚くほど短かった。
(終わり……? これで?)
律がおそるおそる目を開けると、心持ち耳を赤く染めた海斗が困ったように目をそらして立ち尽くしていた。
ごほん、と意味もないしわぶきをしている。
「……そろそろ、参りましょう。人の気配がいたしますゆえ」
「そ、そうなのか」
それで納得した。彼の感覚の鋭さは、今や尋常なものではなくなっているからだ。それはこの旅の間もしばしば思い知らされているところだった。
と、海斗の予言そのままに、すぐ道の向こうに人影が現れた。地元の人らしい中年女性だ。買い物袋を提げている。
(なるほど。さすがだな)
残念な気持ちはあるが、さすがに人前で堂々と口づけをするほどの度胸はない。
律は苦笑して、置いていた荷物を取り上げた。
「行こうか」
「はい」
ここから電車に乗るためには、もう一度鎌倉駅周辺に戻るよりも、いっそ歩くかバスに乗り、大船駅まで移動する方が早い。そのことを、ふたりは事前に調べて知っていた。
広いバス道に戻り、やってきたのとは反対方向を目指して歩き始める。
やっぱり、どこまでもだだっ広くて人通りの少ない道だった。歩く人の姿といえば、ほんの数名ばかり。恐らく、少しの外出でも車やバスを使う人が多いのだろう。たまに小さな子どもの手を引いて歩く母親の姿も見かけたが、すぐに脇道へと消えていく。
特に急ぐ時間でもなかったので、ふたりはのんびりと連れだって、両脇の歩道を歩いていった。もちろん手などもつながない。
しばらく無言でそうやって歩いているうち、ふと思い立って律は言った。
「海斗さんだけじゃありませんでしたよ」
「えっ」
何事か、という目で見下ろされる。
「海斗さんだけじゃありませんでした、と言いました。……嫉妬、してるのは」
「え──」
海斗が立ち止まり、律もそれに合わせて足を止めた。
「とりわけあの頃……まだ実朝だった頃は。いつもいつも、いじましい気持ちを抱えていたのは私の方だったと思う。年甲斐もなくね」
「と……おっしゃいますと」
「そなたらは、家人や郎党でよく集まって、中庭などで武芸の稽古に勤しんでおったであろう?」
「……はい」
相変わらず要領を得ない顔のまま、海斗がうなずいた。
「暑い時などは片肌やもろ肌を脱いで。弓比べをしたり組打ちをしたりな。それは楽しそうに、肩など叩きおうて、笑いおうて──」
「…………」
「それを私は、少しばかり拗ねた気持ちで眺めていたものだった……指をくわえて。廂のずうっと奥の、日陰の中でな」
「殿。それは」
「ああ。いいんだ」
律は片手をあげて笑って見せた。
別に恨みごとが言いたいわけではない。
聞いてくれ、とだけ言って続ける。
「あれは、過度に卑屈になっていた私のせいでもあったのだから。別にそなたに非などありはしないよ」
「……との」
海斗の瞳がすこし陰る。さすがに敏い人だ。それだけで多くのことを察してくれたようだった。
かつて、熱病のために顔じゅうが醜いあばたまみれになってしまった自分は、以降、あまり人前に姿をさらすことを好まなくなった。
もとは父、頼朝公から譲り受けた貴公子然とした風貌であったものが、あのように崩れて完全さを失ってしまったことを恥じたのでもあろう。
京からやってきた奥方は優しい女で、決して顔のことをあれこれと申さなかったし、それは母も家人たちも同じだった。みなみな、自分に最大限の気を遣ってくれ、案じてくれた。
ただひとり、和田義盛、小太郎だけは「これはこれは、いかにも男子らしきご面相になられましたな! 重畳にございまする!」と笑い飛ばしてくれた。それが、かえってほっとしたものだった。
「『嫉妬深い』と言うなら私こそなのだ。知らぬであろう? 廂の奥で悶々と、そなたと家人たちが談笑するのを恨めしく見ていたことなど」
「……はあ」
海斗は明らかに呆気にとられている。
これで本当に「他人の気配に敏感」だなどとよく言ったものだ。少なくとも、当時の「泰時」は他人の恋心にはとんでもなく鈍かった。
「気色悪かろう? だからお互い様なのだ。少しの嫉妬ぐらいで腹を立てたりして、まことに申し訳なかった。許してもらいたい」
「とんでもないことでございます。……その節は、何も気づきませず、まことに──」
「謝らないでくれ。そんなことがしてほしかったわけではな──」」
と、言葉の途中で突然抱きしめられた。
あんまりいきなりのことで、しかもものすごい力で、息が止まる。
「かっ……かいとさ……?」
「左様なお気持ちにはさせませぬ。……もう、二度と」
言われたことの意味を悟るのに、少々時間がかかった。
律は自分も海斗の体に腕を回して抱きしめ返した。同じように、力をこめて。
「……うん。でき得るかぎり、そのようにして頂ければありがたい」
人の命は儚いものだ。
だからこそ「絶対」の約束などというものはできない。相手に対しても、それを求めることは決してできぬと、自分はもう知っている。
──だから。
「でき得るかぎり」と、自分はこの人と約束しよう。
この命のある限り、体と力の続くかぎり。
この人を愛し、前世でできなかったありとあらゆることを与えて。
(そしてきっと、今生こそ。)
この人とともに、幸せになるのだ。
咲けばかつ うつろふ山の 桜花 はなのあたりに 風な吹きそも
『金槐和歌集』66




