28 朝ぼらけ
そこは、かつての執権の墓がある場所とは到底思えないほど、とても小さなスペースだった。墓の主自身の、みずからの富貴を戒める気質の現れなのだろうか。
泰時の墓石は、政子や自分の供養塔のように緑に覆われ、崩れずにそこにあるのが不思議なほどに古びていた。
ふたりはその墓石に向かい、しばらく黙って手を合わせていた。
やがて目を開けると、海斗がなんとなく困ったように苦笑しているのが見えた。
「……なんだか妙な気分でございますな。己が墓に手を合わせるというのは」
「そうであろう? 寿福寺での私の気持ちが少しはわかってもらえたか」
「はい」
先ほどまで凝り固まっていた気持ちが、不思議とほぐれている。律の表情を目ざとく見てとったのか、海斗がほっとしたように微笑んだ。
「そなたの没年は……いくつまで生きたのだったかな」
「仁治三年、ネットで見たところ、西暦1242年とありました。年は五十九。数えで六十の齢にございました」
「そうだったか」
「はい。殿に比べますれば、もう十分に人生を謳歌させていただきました。申し訳もなきことです」
「謳歌だなんて。そなたの業績は、あちこちで賞賛されているのを見たぞ。今だって子供たちの使う教科書にすら載っているではないか、『御成敗式目』は」
「あれだけ生きさせていただいたのです。夭逝された皆様の分も、遺った自分が存分に働かずしてなんといたしましょうや。とてものこと、あの程度の働きでは追いつかないことばかりにございまする。不如意この上もなきことで、お恥ずかしき限りです」
泰時は、当時の実朝から見て九歳年上だった。自分が死んだとき、彼は三十五、六歳だったことになる。そこから二十数年を生きたわけだ。
律は思わずふっと笑った。
「謙虚なことだ、相変わらず」
「恐れ入ります」
「古い本で見たのだが、最期はひどい熱病だったとか」
「はい」
「さぞや大変だったのであろうな」
「いえ。幸いにしてと申しますか、実はそのころの記憶はひどく曖昧なのです。ほとんど覚えておりませぬ」
海斗の静かに笑う横顔を見ながら、律は図書館で見つけた古い本の記述を思い起こしていた。
晩年の泰時は、それはひどい熱病に罹った。その様はまるで、あの平清盛、入道相国の最期を思わせるものだったという。
口さがない人々はきっと言ったことだろう。平家一門をあのように海の底へ追いやった、源氏の腰ぎんちゃくが平家の呪いを受けたのだ……とかなんとかと。
だがそんなはずはない。昨日も彼が言ったとおり、泰時が手を汚さずに済むようにと、父、義時が必死に泥をかぶりつづける人生を送った以上は。
ふたりはそのまま、足音を忍ばせるようにしてそっと寺の門を出た。先ほどは気づかなかったが、庭の片隅では脚立を使って庭木の手入れをする男性がいた。
門の外は、相変わらず静かな住宅街である。
律はふと思い立って、海斗の袖をそっと引いた。そのまま脇道へ入って、人目のないことを確認する。
「いかがなさいましたか」
「……その」
あらためて言おうとすると舌がもつれるようだった。
だが、律は覚悟を決めてまっすぐに彼を見た。
「先ほどは、すまなかった。つまらない意地を張りました」
「そのような!」
「やめてください。俺が悪かったのに」
海斗がびっくりして地面に膝をつこうとするのを両手で引きとめる。
「とんでもない。自分が……失礼をいたしたのです。まことに申し訳──」
「でも」と言いながら、律は彼の両頬を両手でぎゅっと挟み込んだ。
海斗が目を白黒させて声を呑む。
「やっぱりずるいです。……口づけを、脅しに使うだなんて」
「も、申しわけ──」
「海斗さんはそりゃっ、経験豊富でしょうけどっ」
頬を押さえる手にさらに力をこめて睨みつけた。
「お、俺は……私はそんなもの、一度もないのにっ。……今はもちろん、前世でも」
「前世でも……? に、ございますか」
「そうだよっ」
恥ずかしい。
こんなこと、わざわざ告白するつもりなんてなかったのに。
「ですが……奥方様は」
「彼女は私の、もっとも近しい心の友だった。……友、だったのだ」
「友」という言葉にことさらに力を込めて言い、「わかるよな?」という思いをこめて見上げると、海斗が驚いた目のままうなずいた。
それでやっと両手を放してやる。
「それは……まことにもって、申しわけなきことをいたしました」
「いいんだよ。自分で勝手にしなかったことまで、そなたのせいであるわけもなし」
「とは申せ」
「だから」
律は持っていた荷物を地面におろすと、海斗の胸倉をぐっと握って引き寄せた。
「……しないか。いま」
海斗の目が見開かれる。
それと同時に、さっと春の風が吹き抜けた。
朝ぼらけ あとなき波に 鳴く千鳥 あなことごとし あはれいつまで
『金槐和歌集』605




